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自己本位なら最後まで

 このたびの平成30年西日本豪雨、被災された方にあらためてお見舞いを申し上げます。
 
 災害があるたびにネット上でもいろんな情報、怪情報、いろんな考え方や言説が飛び交い、正直言えばげんなりしてきますが、今回特に話題になったのは「千羽鶴」のお話。

 まだ雨も止まず災害は規模を広げている真っ最中の時点で、「千羽鶴なんて迷惑になるだけだから送るな」というツイートを見て、逆に、私などは「この非常時にそんなアホなことしてる奴(失言)がいるの?!」とたまげたくらいです。

 正直、災害に関する情報の中では相手にする気にもなれないような話だったので、TLでも横目でチラチラ見ている程度でしたが、それでも驚くべきご意見が。

 この非常時に千羽鶴を送るというだけでも非常識だと私は思いますが、さすが非常識の人というのは発想が違う。
 そんなもん迷惑になるだけだからやめとけ、という意見に対し、なんかもう、目も耳も疑う反論がなされたようで。
 いわく。
「善意でやっているのに」
 ………善意でやっているのなら何をしてもいいっつーのか?
 
 例によって私の頭は「理屈になってない」ものを拒否するという凄い頭なので要約ができないんですけども、中には、子供を盾にしたヤツもいたんだそうで。
 幼い子が幼いなりに災害の状況に心を痛め、思いを込めて鶴を折るのを、迷惑だからやめろというのですね、とかなんとか。
 ……本当に申し訳ないですが私には言っている趣旨が理解できないのでうまく要約できません。でもまあ、そういうこと。
 話が横道に逸れますが、何かあると「子供」を引っ張り出して「盾」にするのって卑怯ですわねえ。左巻きの人がよくやるけど。
「子供の貧困」とかいう言い方、あれはうちの母親がえらく怒ってましたよ。
「子供のというけれども実際にはその親なり保護者、養育者が貧困だと言いたいんだろう。ならばなぜそう言わないのか、なぜいちいち子供子供と叫んで同情を買おうとするのか」
 ………真に子供をいとしみ、守ろうとする人は、子供を盾にしようとはしないでしょうから、もっともなお怒りだと思いますね私も。

 ということで、驚いたり呆れたり、最後には乾いた笑いにしかならなかったりですが、よーするに
「善意だったら何をしてもいい」
私の善意を迷惑がるなんてありえない」→「自分は他人を迷惑がることが大いにあるがこれは構わない」

 早い話が「自己本位」なんですね。
 ここで誰かが、「相手に迷惑だろう」と言っても、「相手本位」の発想ができないし理解できない。
 あくまでもそこにあるのは、自分自分自分。自分のことだけ。

「正義の味方は人殺しをしてもいい」という考えには私は断固反対する、とこのブログでも何度か書いておりますが、この場合「正義の味方」は「善意」に置き換えが可能。

 気の毒とは思いますが、自己本位の人は自己本位という「枠」から出ることができないんですね。
 こういうのも一種のパーソナリティ障害じゃないのかと思います。そう思わないと、まともに付き合うとこちらの方がメンタルやられるくらいのレベル。

 善意なんて所詮、自己満足なものなんじゃないの? 自分に陶酔した自己満足のために他人を犠牲にしてもいいとでも?
 ……なんてことを、「自己本位から出られない」人には、もうどれほど言っても無駄なんだな……と、ツイッターのTLを眺めていて思いました。

 どのみち人間は自分の自我というところから、本当の意味で「出る」ことはありませんが、それでも、人様の話を聞いて「自分に置き換え考える」とか、そういう想像力を持ち合わせていれば、少しだけ、その自我という枠から出ていける。

 でもこれ、できない人には、本当にできないんだなあ——というのが、今回あらためてわかったことでした。

 災害時に、被災者ではない言わば「部外者」はどうすべきか、その身の処し方、対応の仕方については、それでも、少しずつ、社会的な「知識」として認識され、蓄積されている場面も見ることがあります。これが救いですね。今回。

 当事者ではない人間にできることは限られている。しかもそれを求められるのは災害時真っ最中ではなくて、もっと後のこと。それまでは、ジリジリしながらも控えているしかない。
 けれども状況が落ち着いて、部外者の出番、というときは必ずくる。そのときに動けるように準備をしておくことはできる。

 そんなことを落ち着いた口調でツイートする方も多く見られ、これはいいことだなと思いました。
 ボランティアは必要ですが、それはいまではない。というだけのこと。
 

 千羽鶴は? というと——、千羽鶴なあ……。
 考えて、私がツイートしたのはこちら。

千羽鶴。祈りを込めて折るというのは全くもってなんの問題もないが、それを「送りつける」のをやめればいいだけなんでは。
純粋な善意というならあえて止める気もないし、相手の状況を考え対応するのも善意だし。
てことで、善意はあるし迷惑にもならない「千羽鶴は自分の手元に保管」でいかがでせう。
23:39 - 2018年7月10日




 祈りは次元を超えるもの。ですから、必ず「物体」が必要なわけではない。
 祈りは人の心(念、というとちょっと怖い印象になるかな? (^◇^;))なので、べつに、「モノ」化する必要はないんですよね。当然、相手に送りつけなければならないというものでもない。

 折りたいというのならどうぞいくらでも。
 でもそれは「相手本位」になれば迷惑であるとわかる。わかれば、迷惑になることをはばかり、送らない。
 その決断もまた、相手を思いやるという善意のはずです。
 なので、送らないで手元に置いておけばいい。——それだけ。

 ツイートなので文字制限があって、これ以上は書いてませんが、
「そんなにいうなら千羽鶴、折るだけ折って手元に置いとけ」
 は、転じて、
「自分の手元に置いてみれば、けっこう邪魔なもんだってことがわかるべ」
 という意味をも含んでおります。

 結局はゴミになる、という、そこまで自己本位に体験してみればいい。
 じつはそういう意味。(▼-▼*) エヘ♪
(けっこうこの手のわかりにくいイヤミを言います)
 
 
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愛されているかどうか?

 予約投稿できたらいいな、と言っていたんですが、やはり十分な時間が取れませんでした💧
 明日は大丈夫そうだけど、木曜日ももしかしたら呑気にブログエントリーしてられないかもしれない……ってマジか……、と基本、ナマケモノの私はめげております。

 考えてみたら来週月曜日、また祝日でおやすみなんですよね。
 お休みは嬉しいけど、結局そのしわ寄せが出てくる。世の中、美味しい「だけ」の話なんかない、ってことでしょうね(笑)

 ということで時間もないので、さらっとひとつ。
 例によって快刀乱麻を断つDJあおいさんのブログ(過去記事)から。

愛されているかどうかがわかるポイントとは
2017.7.27 15:49 - 「DJあおいのお手をはいしゃく」


「それ」を確かめようとして、手練手管(てれんてくだ)を駆使する人、駆け引きを持ちかける人、あえてイヤな態度を示して「試す」人……いろんなパターンがありますね。
 私もそんなことを想定しながら、あおいさんのお答えを拝見したんですが、さすが、示されたものはそういうこととは全く無関係でした。

「愛されているかどうかばかりに気をとられていないで
 愛しているかどうかに気を配った方がいいと思いますよ」



 おそらくはこれが大前提なんですね。
 愛情と執着・依存との違いも、ここにある。

 もちろん人間関係は「相互」であり「循環」でもありますから、ただ自分の内心だけをみていればいいというものでもない。

「見るべきポイントは
 彼が自分に対して
 束縛をするのか、放任をするのか
 というところではなく

 彼自身が
 自制をして生活を整えているのか、それとも自由に無双しているのか
 という部分です」



 筋が通る、という言い方がありまして、私もこれをよくいうんですけども。

 結局「整う」ということ——筋道が通る、というのは、病(やまい)が(可能な限り)ない、ということなんですね。

 岡野玲子さんの「陰陽師」に出てくる表現で、「通るというのは、病がない、ということ」というのがあり、これを聞いた(読んだ)ときは、あーなるほど、と思いました。

 メンヘラがどうこうって話じゃないです。水が自然に流れ落ちるような「無理のない」「滞りのない」状態。
 そりゃ人間ですから一年中スッキリ爽やかに何もかもが順調なんてことはありません。それこそ、精神的には追い詰められることもある。
 そんなときでも可能な限り自分を整えていられるかどうか。
 別の言い方をすれば「健全」でいられるかどうか。


 自由というのは本来は責任を伴うものであり、放埓——デタラメな好き勝手——(あおいさん流にいえば"自由に無双している")とは異なるもの。
 病がないこと。
 結局、ものすごく大胆なことをしているようでも、他人を魅了するものと、なんだあれはと顰蹙を買うものの違いは、その「病のなさ」で決まるのかもしれない。
 詳細を知らなくても、「雰囲気」というもので、他人は案外、そのへんにしっかり反応しますよね。

 これは恋愛談義の話題ではありますが、「病のないこと」が、自由と放埓との違いを見せてくれる、というのは、あらゆることの目安になるんだな。
 そんなふうに思いました。
 
 
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本日おやすみ

週明けにいきなり「おやすみ」というタイトルのエントリーもどうかと思いますが💧 これは休日という意味ではなくてブログエントリーやすみますということなのでご容赦。(^^ゞ

予定よりも用件があっさり片付いたのでちょこっとだけ。

なんせ昨日のエントリーが、話題も話題だしタイトルもタイトルで、ちょっとイヤな感じ。
これで2、3日過ごすのもちょっとなー…ということで、画像だけ貼りにきました。

画像は今日午前の空。
あまりに明るく、眩しかったので。

IMG_3320.jpg

一気に暑くなりました。
日陰に入ると風がまだそれなりに涼しさもあるので助かります。
梅雨明け宣言はまだですが、もうそろそろかな〜という感じ。午後になりまして、この画像よりもさらに雲がもくもくと沸き立つようで、夏の空らしさを増しています。

じつは明日もエントリーができないかもしれないんですが……予約投稿でもできるといいなと思っております。
自分の息抜き、ストレス発散で書いているものなので、エントリーしないほうがストレスになるという(笑)


今年はあまりに気候が厳しいように思います。どうぞくれぐれもお身体をお大事にお過ごしください。
 
 
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外道

 どーしてこういうバカが後を絶たないんですかね世の中って💢
 このツイートを見たときはひっくり返りましたわ。
「びっくりドンキー」さんの運営会社は、社名を株式会社アレフとおっしゃるのだそうで(存じませんでした💧)、それで、オウム真理教の分派である宗教団体アレフと勘違いされてまた妙な嫌がらせなどあったもよう。



 もちろん事の真偽を確かめもしないそのいい加減さも問題ではありますが、一番の問題はその安っぽい正義感を振り回す卑劣さにある。と思いますね。
 面白いものだとは思います、正義漢ぶるやつほど卑怯卑劣だというのは。

 卑怯者でもない限り、物陰から人様に石を投げつけるようなことはしませんよ。卑怯という以外になんと言えばいいのか。
 そもそも私は「正義の味方は人を殺してもいい」という考え方にはいっさい同意する気はございませんのでね。

 なんせ、中学生の頃にはドラマ「水戸黄門」を見れなかったというくらい、勧善懲悪が大嫌い。二元論はモノがなんであれ信用しないし嫌いだし(二元論を真に受けるのはバカの証拠だと思ってる)
 さらにいうなら水戸黄門は勧善懲悪ですらなくて、ただの権威主義ですからねえ、あれ。

 ………と、まずは、「バカッター」を罵倒しておくとして。

 オウム真理教については私もそれなりに関わりがあったので思うことを少し。

 彼らがテロ集団だとバレる前——変な宗教団体だなと思われている間はまだよかったんですが、選挙に出たんですよね。あの時期、私は学生でした。
 インド哲学の先生が、あのあまりの珍奇さに、あれはもちろん(インド/原始)仏教じゃないし、ウパニシャッドでもないしヒンズーでもないし、なにあれ、と授業中の雑談にも交えていたのを思い出します。

 私の高校のときの同級生が入信しまして——私も、勧誘を受けたんでした。私もちょっと毛色の変わったタイプだと思われていたし、仏教含め宗教にはそれなりの関心を持っていることもバレていたので。
 しかし——「なぜこんなもんに引っかかるかな」と思うほど、その内容は私の目にはデタラメなものに見えました。

 世の多くの人の一番の疑問は「なぜこんなデタラメなものに引っかかるのか」だったでしょうし、それはいまも、解明されているとは言えません。
 言えませんが、でも、その「なぜ」の答えは、本人にしかわからないような何かとリンクするからだろう、と思います。

 その何かとは何なのか、というのは個々人で異なると思います。
 異なるそれらがなんであれ、共通したのは「救われたい」という思いだったんだろうな——と、私を勧誘にきたときの、元同級生の様子を思い出しております。

 私は「信仰」は大事にするけれど「宗教」には相当、懐疑的な立場をとっております。
 でも、オウムは、宗教ですらなかった。論外というほかはない。
 それだけは確実に言えること。

 死刑についての議論もあったようですが——私は、処刑される人もさりながら、処刑「する」側の人を思うと、死刑は、可能であれば、ないほうが良いとは、考えております。
 たびたび小説の材に取られる、江戸時代の山田浅右衛門のお話を聞いているからかもしれません。
(山田浅右衛門家は江戸時代、8代にわたって「首斬り役人」を務めた。代々、同じ名前を世襲するので一人ではない)

 地下鉄サリン事件の折も、社長がたまたま東京に出張の日で、本当に、彼の安全が確認されるまでの間は、生きた心地もなかった。
 あのときの気持ち——多くの被害者、ご遺族のことを思えば、この刑罰に異議を唱える気にはなれない。それも私の本音ですね。

 坂本弁護士の、赤ん坊さえ容赦無く手にかけたことは、特に忘れがたい。
 そのご遺体は通常であれば証拠となるのも難しいほど長い年月を経て発見されましたが、諸条件から屍漏化され、結果的に事件究明の手がかりとなったのは、亡くなった方の強い「遺志」だっただろうと思うと今でも泣けてしまいます。

 ちなみに。
 私をオウムに誘った同級生とは、その後すぐに音信不通になりました。
 が、幸い彼女は金持ちでもなければ美人でもなかったので、幹部に目をつけられることもなく、無事に生きているようです。何よりです。

 日曜日だというのにこんな話題になってしまった……。

      ●

 明日はまたお出かけのため、こちらおやすみいたします。m(_ _)m
 
 
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銀河ロマンス

 昔の——旧暦の七夕は、現在の8月〜9月にもかかるくらいで、季節は「秋」の扱い。
 ゆえに、新暦、現在の七夕は梅雨末期、豪雨災害も多い時期なので季節感がまったく違うんですよね。

 それにしても今年の七夕は本当にとんでもないことになっておりまして……災害、被害に遭われました方には心からお見舞い申し上げます。
 私も人生初の、地元自治体による避難所設置と勧告というものを目の当たりにして、半ば呆然としております。

 私の住むあたりはまだ問題ないのですが(避難所も1晩ですぐ閉所されたし)テレビで各地の様子を見るにつけ、早く前線が消えてくれるように祈るばかり。

      ●

 それでも一応、今日は天の星の年に一度の逢引の——…あー、「星合い」の日なので少しはそういう気持ちも表しておこうと思います。(^^ゞ

 七夕も面白い風習で、シナから入ってきた七夕と、日本土着の神様「棚機津女(タナバタツメ)」のお話が、ちゃんぽん状態になってますね。

 子どもの頃は織姫、彦星のロマンスはいいにしても、なんでそれで二星に願い事なんだろう? と思ってました。
 デートで忙しい人たちに願い事したってしょーがねーだろ、と思いましたが、さすがにこれはひねくれているかと自分でも思い、親にも先生にも質問したことはございません(笑)

七夕イメージ 短冊

 棚機津女は元は人間ですが、神様のための神聖な服を織り上げて捧げるということをしていたそう。
 基本的には「聖別」された存在ですが、神にその御服を捧げる夜に「一夜妻」となって身ごもり、自身も神となった、というお話。

 ………また一部の人からは怒られそうな話ではあるのですが古代人のことなので、現代人が目くじら立ててもしょーがない。
 日本書紀では木花咲耶媛命を棚機津女としているそうですし、神聖な神であることには違いない。

 ということで、棚機津女に願い事をするのは本来は「機織り技術の向上」であり、手芸の関係、そこを頑張って押し広げて芸能、と。
 昔には、朝露を集めてこれで墨をすり願い事を書いたとか、字の上達を願ったとか、そんな話もありますね。

 ちなみに、棚機津女は古事記には記載はないんだそうで——私も読んだ記憶がありませんがなんせ私の頭ですから、どっちにしろ当てになりません💧
 唯一言えるのは、例の建速須佐之男命(たけはや・スサノヲ・ノミコト)が高天原で暴れた際、その犠牲となって亡くなった女性が機織りの女性だったという記述がある。これは確か。
 で、これで天照大御神が怒ってしまって、例の天岩戸にお籠りになったという。

 いずれ、機織り、御服を調えるのは神聖な意味もあったとは、確実に言えると思いますね。

 なんにしても、本来なら、空気が冴えてくる晩夏から初秋の季節のこと。
 その頃なら、夜空を見上げても星が綺麗だったでしょうし、願うことを静かに胸の内に思うのも、夏の熱気が引いた夜には、ふさわしいことだったかもしれません。

 今日は、それどころではない、というのが正直なところですが、それでも、気分だけでも——ひっそり、星合を思って、願いごとを思うのもよろしいかと存じます。



礫(たぶて)にも 投げ越しつべき天の川
 隔てればかも あまたなすべき

 ——山上憶良
【つぶて=小石でも投げれば渡れそうな天の川だが、それでも、その川に隔てられて、会う手段がまったくないのだなあ】


たなばたの 絶えぬ契りを添えんとや
 羽をならぶる 鵲(カササギ)の橋

  ——藤原俊成
【いつまでも続く織姫の契りを添えようというのだろうか、羽を並べて橋を作るカササギは】

七夕イメージ 天の川
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目指せ美老人への道

 過去の経緯(いきさつ)から、なんの怨念もなく生きている人はまずいない、と昨日申しまして、生きていられる間には、できるだけ、この怨念を解消——「成仏」——させていくほうがいい、とももうしました。

 と申しますのも、先日人と話していたとき、
「年齢を重ねることで確かに(人格が)磨かれていく人と、むしろ歳をとって理性が摩耗するせいか若い頃よりも頑固、わがまま、他人に対して理不尽な振る舞いをする人と、両方ある。その分岐点はなんだろう」
 という話題になりまして。

 歳を重ねて丸くなるというのも事実。
 歳をとって若い頃より性格が悪くなる人がいるのも事実。

 加齢自体は誰にでも平等にあることなのに、この違いはどこから? と。

 それで得た結論が「怨念の浄化のある/なし」だろう、ということになりました。

 人間生きてりゃ悔しいことも怖かったことも、理不尽を強いられて殺意を抱くこともある。そういうものがその人のトラウマになったり、ミョーな「こだわり」になったり(こだわり、って本来はネガティブな意味を持つ言葉なんですよ)、コンプレックスになったりしている。

 それが、人間関係その他でのつまづきになる。

 それでも、その怨念の存在に自分で気づいて、他人や環境を「恨む」苦しみを解消しようと努力する人と。
 その怨念に振り回されるままに、自分も他人も傷つけて年月を重ねる人とでは——そりゃもう、30年も40年も経てば、「差」は出てくるよね、と。そんな結論。

 日本では、幼い子供は「神様の領域」に近い存在、という概念がある。
 幼い子どもは大人に比べればまだしがらみもなく自由であり、何より「遊び」の天才。
 音曲や舞ごとを好む神様もまた「遊び」をよく知る存在なので、神様と子供って「相性がいい」ところがある。

 子どもは、神の領域に近いもの。

 同時に。
 老人もまた、神の領域に近いもの、だと思うんですよね。

 神の領域にいた子供も、やがてしがらみと怨念と情念の重さで汚れた立派な大人になるも、それもまた、青々とした葉が紅葉して、冬を迎え枯れ落ちるように、人もまた、がんじがらめの夏の葉を落とし、清々しい姿に変わる。

 能(のう)の世界では、老人が神に近いもの、神そのものではなくても品格の高い、清らかな存在として描かれます。
「関寺小町」という老女ものの曲は(現在はどうか存じませんが)秘曲とされ、家元からの教授と許可がなければ舞えないものでした。

 神さびる、という言葉は、古びて神々(こうごう)しい、という意味ですが、生身の人間が「神々しい」様子を表現して舞うのは、確かに、簡単なことじゃない。
 能の世界では老人、老女こそが品格の高い「清らかな」ものと位置付けられる。

 私はどういうわけか子供の頃から「美老人」に弱くて、美少年も、まあ嫌いじゃないけど、美老人には敵わない、という価値観でした。自分で言うのもなんですが、渋すぎる好み(笑)

 でもそれは、「神にも近い老人の清らかさ、神々しさ」に対しての「嗅覚」があったからではないかと思っております。

 肉体は、神様からの借り物。
 この借り物をまた神様に返却するとき、人はどこまで、「清らか」になっているか。

 本来は、そういうもんじゃないのかなあ、と、——いよいよ人生半世紀生きたことになる私、最近はことさらに強く、そんなことを思います。

 怨念は、繰り返すうちに増幅されていく。
 そうではなくて、生きている間に、少しでもいい、玉葱か、らっきょうの皮を一枚剥く程度でいいから、その怨念を浄化するように——それが「加齢」の意味じゃないかな。

 加齢が、人を頑固にしたりわがままにしたりするんじゃない。
 ようは、その人自身が、自分の怨念をどこまで浄化できるか。
 その点に、暴走老人と、関寺小町並みの美老人との分かれ道があるのではないでしょうか。

 年齢だけはどんな人にも平等だ。

 であれば、美老人への道を、選んでいきたいし、選んでいってほしいと願います。
 なんせ私、美老人フリークなんで(笑)

 まあ、まだ自分について老人像を語るにはちょっと早い——そんなことを言うのは生意気、というべきお年頃なんですが、そのように思います。

 たとえ認知症になっても可愛いばあさんでいられるように。
(関寺小町は、老いたる小野小町。美人は老いても美人ですから、自分の「分」を知る私は、そっちの路線は目指さない・笑)

 じつは「人間五十年」ということ自体は変わっていないとも聞きます。
 であれば、もはや、私もいつ彼岸の人になるかわからない。そんな年代に入っていくのも事実。
 そう考えれば、怨念浄化を考えるのも、特別早いってわけでもなさそうです。

(平均寿命等は、昔に比べれば格段に伸びてはいるものの、”死亡率”自体は、50才代以降は変化なしなんだそうです)
(綾小路きみまろさんが、『人類の死亡率は100%です』っておっしゃってました。もちろん最終的にはその通りですよね・笑)
  
 
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成仏祈願

 なんの怨念も持たずに生きている人ってそうはいないと思いますが、でも、やっぱりできるだけ、自分の怨念は、少しずつでも「成仏」させていったほうがいいな、と思った話題。
 昨日私がお見かけしたのはあるツイートでしたが、今朝見たらまとめられていたので、まとめを下記に記します。

一歳児父親「男子トイレにおむつ交換台がないというツイートへの批判がモヤる、我々は社会を変えようと必死なんだ」
2018.07.04 Togetter まとめ


 お子さん連れのお父さん、出先で子どもさんのオムツを替えようにも、男子トイレにはおむつ台が無い、というのがそもそもの話題。
 それを聞いて私もハッとして、そういえばそうだよな、と思ったんですが、衝撃だったのはそれに続いた一文。

「男子トイレにおむつ台がない」
って男性のツイートに
「男がそういう社会を作った。被害者ヅラしやがって」
という批判がついててモヤる。



 そういう妙な批判を寄せてきたのって女性なんですね…? と、思わずガックリ。
「被害者ヅラ」ってなんだよ。

 これは本当に妙な心理だと思うんですよね。
 そのむかし——20年ほど前のアメリカでのお話ですが、とある「主夫」の方が雑誌に投稿したのを拝見しまして。
 私どもはフェミニズムの強いところ(日本よりは)という目で見ているアメリカですが、当時はそれでも「専業主夫」で、平日昼間から子どもを連れて歩いている男性は奇異の目で見られたようですね。
 
 その投稿者さんは地元コミュニティの、母親のサークルに参加したいと申し出たんですが、断られたそうです。男性だからという理由で。

 母親の、と申しましたが正確には「新米の親」の集まるサークルで、いわゆるマタニティブルー、日がな1日言葉も通じない「怪物」のような赤ん坊と二人きりで過ごすゆえのストレス、時間がないゆえの孤独感など、親自身の精神的なケアを目的にしたサークルですね。

 当時、うつ病になった母親が、五人もの我が子を次々に手にかけたという衝撃的な事件があったので、地域によっては、親のケアを目的としたサークルが作られていたようです。

 もちろん人数としては母親が多いでしょうが、投稿者さんだって立派に主夫して子育てしていらっしゃる。精神的なケアをふくめ、そういうサークルに参加する資格は十分にある。
 はずでしたが。
 あっさり入会を断られてしまい、そんな馬鹿な話があるかと交渉を重ねている、というような話題だったと記憶しています。

 不思議だなあ、と思いましたね。
 日頃は、男性も育児に「参加」せよ、と訴えているのに、なんで、実際そのとおりにしている貴重な男性を大事にしないのか。
 ワークライフバランスなんて言葉が、日本はもちろんアメリカにさえまだなかった当時のこと、こういう男性はことさら、大事にすべき理由はあったと思うのに、………なにこの仕打ち。
 と、私も他人事ながら腹を立てたんですが。

 日頃「男性も育児に参加を」と訴えている、自分の主張を自ら否定する。こういう仕打ちは、言葉を聞いていると見えてくるのが「怨念」なんですよね。
 
 上記まとめのツイ主様が受けた批判も、ちょっと意味がわからない。「被害者ヅラ」ってなんだろう。
 男子トイレにもおむつ台を、という発想、私もなかったので、やはり理屈や理想論だけじゃなくて、実際に行動してもらってあらためて気づくことがある、もっともだ——というべきところ、「そんな社会を作ったのはお前ら男だろ」というのは、八つ当たりですよね。

 八つ当たりの元は怨念。怨念の原因は………個人的な体験(抑圧的な)だろうとはすぐ想像がつく。
  
 でもご自身が子育てに関してどんな抑圧や社会からの「虐待」を受けたにせよ、このツイ主様には全く無関係。
 むしろ、こういう自ら子育てを担う男性がいることを喜び、その支援や支持を表明するのが筋ってもんでしょう。
 そう思いますと、残念なことですね、その批判(八つ当たり)は。

 なんていうのかなあ——自分が持っている自分の怨念を、縁もゆかりもない他人に、被害者ヅラならぬ「義憤ヅラ」して八つ当たりしちゃあいけませんやね。

 既成概念、既存の社会通念(常識、と呼ばれることが多い)って、本当にもう、染み込んでしまって、うっすら、これはオカシイと思っても、「そういうものだ」と自分でも気がつかないうちに思い込んでいる。
 鍋の底にいつの間にかこびりついた汚れみたいに——重曹やクエン酸で分離させ、浮かび上がらせたときに、ナンジャコリャと驚くみたいなもの。

 先日も黙って聞いていたら、格闘家のいかつい男性が「格闘家なのにスイーツ好き」と紹介されていて、その「なのに」は使用法が間違ってるぞ、と思ったり。
 一部の人からは呪詛の的になっているポリティカリ・コレクトを振り回す気はないけど、でも、知らぬ間に染み付いた「常識」ってこんな風に、まったく無意識に言葉になって出てくることがある。

 自分の思い込みを意識化すること——その作業を邪魔するのは、思い込みの強固さだけではなくて、こんなふうに、「私はこんな辛い目に合わされたのに」という怨念もあるんだろうなと。
 怨念は情念そのもの。理性的な判断とは対極の場所にある。

 そんなことをひとつひとつ意識化しては、改善していく。これしかないんでしょうね。
 個人個人においては、その改善の邪魔をする怨念は、できるだけ、成仏するように対処していくしかないんでしょうね。

 とはいえ、このまとめになったものを読んで、私がゾッとしたツイートもありました。

友達のパパさんが
「娘のオムツを男子トイレで替えてたら
『お子さん毛はいつ生えるんですかね』って
言ってきたやつが奴がいた
だから多目的トイレしか使わないよ」と言われ
男性がーとか女性がーではなく
変な人が悪いんですよね!!
多目的トイレ増えてくれればいいですね…
(原文ママ)



 そういうことにも配慮が必要なのか……と、これには私もメゲメゲになりましたが💧

 従来社会の旧弊、そして怨念、さらには犯罪……なかなか厄介なことが積み重なっているけれど、それでも、世の中は少しずつ変わっていく。

 それに少しでも協力できる自分でありたいものだと思いました。
 
 
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