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2017.10.14 (Sat)

いちばんわかってない人

 例えば会食の席などで避けるべき話題は「3つのS」と言われます。(サドじゃないよ)
 政治、宗教、セックス。なんだSって日本語の頭文字か、と、昔聞いた時には拍子抜けしたけど😅

 この3つはやはり話題としてはちょっと繊細なところがあるうえ、個人の信条や信念にあまりにも深く根ざしているからなんでしょうね。どうしても譲れない同士で喧嘩になる。ならなくても、なんとなーく雰囲気が重いものになったり。
 セックスについてはこれは、信念とかではなく、下ネタを許容できる「臨界」がどこにあるかはあまりにも個人差が激しいからでしょう。いわゆる地雷になりやすいのでよほど話し上手の方以外は避けた方が無難。

 ということで今日は、政治の話、というか選挙活動の話。(←3S避けてない😅)

 現在そんなわけで選挙期間中ですが、そうしますと、選挙カーってやつが、やっぱり走ってるんですね。
「〇〇(立候補者名)でございます、〇〇でございます、よろしくお願いします」
 を繰り返す。
 それを聞いていると、「他に言うことないのか」と思いますねえやっぱり。

 最初の立候補であるならまだしも、もう何回か国会議員やって、何年も経っているので、そりゃお名前も顔も知らないなんて人はまずいないでしょう。
 なのに黙って聞いていると、ほんと、名前と「よろしく」としか言わないんですね。

 今回の選挙で私がちょっと面白がっているのは、「政策を聞かせろ」と言う声がそれなりに聞こえること。
 なんせ新聞の見出しに出るくらいですから(今までよりは)、じっさい、そういう声も多いんでしょう。

 これだけ価値観が多様になった時代では、2つだの3つだのの政党くらいでは、有権者の考えなど吸収しきれない、政党政治時代ではもうなくなったよ、と言うのが私の見るところ。
(2大政党制ってまだ言ってる人がいてちょっとびっくりしますねあれは💧)
(冷戦時代のまま、みたいな感じ)

 実際、左派系とされる野党が見事に分裂していった結果、政党とは名ばかりで、何がどう違うのかがほぼわからない状況になってます。
 その差異を見ようと思えば、そりゃ政策を聞かないことにはどうにもならないと思いますよねえ、有権者は。

 かつては猛威を振るった(←日本語、不適切ですかね)会社組織や企業団体、労組といったところも「集票」力は昔ほどではなくなったし、今回の選挙は特に、全体の比率から言えば小さいとは言え、良くも悪くも社会的な「事情」は通じないごくごく若い有権者も参加している。
 となりますと、やはり、どこへどう投票するかを考えるには、各党の掲げる政策を聞くしかないわけですね。

 個人名を連呼するより、政策を訴え、「説得」し、賛同を求めていく方が、本当は、有権者の求めるところに合致する。
 有権者は、自分と同じような考えの候補者を見れば、おっと思って、「なんて人?」と言うことになる。
 名前が先じゃない。政策や主張の方が先なんですよね、有権者が求めるのは。


 さりながら。
 黙って聞いていると、どこの党でも候補者でも、まず、他党の悪口を言う。そんなことはどうでもいい、アンタ自身はどうなの、と問われていることがまだわかっていない。
 名前を連呼するだけの候補者が相手にされるわけないのに、まだやってる。

 政治家というのは本来は、過去から未来を見通していく「目」が必要のはずなんですが、どうも、現在の世の中は、すでに、他人の悪口より、馴染みのカオであることより、「政策はどうなんだ」「どういう考えを持っているんだ」ということを重要視しているってことに、まーだ気がついていない。どうにも困ったもんです。

 今の世の中の「トレンド」(と言って軽く聞こえるなら潮流と申しましょうか)に、一番敏感であるべき人々が、一番鈍感で何もわかってなくて、50年前と同じ選挙戦とやらを続けているんじゃないのかという気がしております。

 まあ有権者の意識だってそうそう簡単に変わりゃしない、というのも言えることではあるでしょうが、でも、これまでの政党や組織主体の選挙から、より、議員一人ひとりを吟味し、自分と同じ考えにより近い候補を見極めようという、ある意味、やっと「まとも」な民主主義に近づこうとしているのも事実として言えること。

 そういうことにもーちょっと敏感になってくれないかなあ、と思います。

 マスコミと同じレベルの鈍感さではどーにもならないんじゃないかなとも思ったり。
 マスコミの宣伝力は認めますが、でも彼らは国民の代表でもなんでもないですからね。マスコミの言うことだけをきき、マスコミだけが世の中だと思い、マスコミにだけ向かって喋ると言うのでは、やはりちょっとチガウ、と思います。

 名前なんかどうでもいい。政策を聞いて、なるほどそうだなと思えば、黙ってたって有権者の方から、お名前をチェックに行きますよ。有権者自らが、なんて人? と尋ねていく。

 本来はそういうものであるはずですよねえ、選挙活動って。

 名前とよろしくとしか(こんな時ばっかり!)言わない選挙カーに街であうと、古色蒼然、旧態依然、石頭のこんこんちき、と内心で思いつつ、やり過ごしております。(←聞いちゃいない😅)
 
 
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12:21  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.10.13 (Fri)

親はなくても子は育つ

 この国ではちょっと異常なくらい、親、なかんずく母親への過度な「責任の押し付け」がまま見られます。
 何かあると(なくても)子供の行為の全ての責任は母親にあるというような。
(なぜかあんまり父親は問題にされんのですね)
 過剰なプレッシャーを受けているお母さんがたには、ときに同情を禁じ得ません。でも本当は、お母さんであることに対して「大変ですね」なんて「同情」はしたくないですよ。ヘンだろそんなの、と、私の野性は内心で暴れております。

 過度なプレッシャーをかける側にも、お母さんたちにも、心から贈りたい言葉は「親はなくても子は育つ」です。
 最終的には自分の人生は自分に責任がある。いい加減そのことは世間様にもわきまえて欲しいですよ。
 いつまでただ口を開けて餌をもらうだけの気でいるんですか。雛鳥だったら可愛いけどいい大人がやってたら馬鹿面以外の何物でもないでしょうよ。

 ということで。
 またぞろ、いわゆる有名人さんのご子息が禁止薬物使用の容疑、と聞きまして、もーほんとこういうの勘弁してください、と思うのがその親御さんを引っ張り出すこと。
 特に、成人してたらその行動の責任は本人にあるんであって、もはや親などは関係ない。

 犯罪者が一人出ると一族郎党皆殺しにする、という発想、いつまでやってんですか。中世じゃないんだよ今は。

 何かあると親どころか親戚一同まで犯罪者扱いするのはある意味、日本の「伝統」ではあるようです。中世ではそういう人が出ると共同体から追放するのはもちろん家も焼き払ったという。なぜか。
 ——「ケガレ」が移るのを避けるため。

 自然を敬いその中で共生するという麗しい伝統はとっくに破棄されているのに、なぜ、こういう忌まわしい因習だけは未だに生き残っているのかと思うと、もうどうにも、他人事ながらはらわたが煮えてきます。
 人は善いことには染まりにくいが、悪いことには染まりやすいうえなかなか抜け出せない、ということが実証されてしまいますが、そういうことはこれ以上実証してくださらなくて結構💢

 親の育て方が悪いとかなんとか、仮にそうだとしてもですよ、それだって親なんか自分より早く死ぬの。そういう人にいつまでも他人(=ここでは子供)の行為に対する責任なんかあるわけないでしょうが。
 同じ親に育てられながら、他のきょうだいが同じようではないというのなら、まして責任の所在は本人にしかないとはっきりわかるんじゃありませんか。

 なんのためにこんな吊るし上げをするのか、なぜこういう光景をこの連中は「楽しむ」のか、毎度のこととはいえ気分が悪いったらありません。

 そういうことを指摘すると、出てくるのが「正義」感に満ちた反論の数々。
(数々というほど、その内容にバリエーションが豊富なわけではありませんが)
(むしろバカの一つ覚えと言いたいくらいですけどね実際には)
 あいにく、私はその正義感こそさっさとドブに捨ててこい、という人間なのでなんの説得力もございません。

 正義というのは自分の利益がどこにあるかというだけのもので、絶対の価値ではないのです。あくまで相対的なもの。
 立場が違えば正邪がひっくり返るなんてものは、絶対不動の価値などではありません。

 正義よりも「道理」だと思ってます。
 道理というのは、立場ごときで変化するようなものではないので、本当に厳しいです。
 道理の特徴は「公明正大」であり、それと同時に「すべての人に、良きもの」であること。
 これを実現するのに、正義なんて小癪なものは問題にもなりません。

 自分の身内が犯罪者となれば、通常の神経の人間なら驚きもし、悲しみもし、衝撃も受け、嘆くでしょう。
 でもそれを、人前に引きずり出して見世物にして「楽しむ」とは、——いったい、外道はどちらなのか。

 ……ということで、どーにも気分悪いわ腹たつわで、例によってストレス発散で、こんなところでこんなことを書いている次第です。
 ほんと、このブログは私のストレス発散の場です。(^^;)
 王様の耳はロバの耳、と、心置き無く叫ぶ場所になっております。


 ちなみに。
 すっかり罵倒語になっています「外道(げどう)」ですが、本来は悪い意味の言葉ではありません。
 最初にお経——つまり仏典で見たときはびっくりしました😅

 六師外道(ろくし・げどう)と言いまして、文字通り、「仏道以外の道(=教え)」の意味。

 お釈迦様の教団以外の、当時の代表的な教団や思想、教えのこと。別に罵倒語ではなかったんですよね。もちろん仲良しこよしのオトモダチでもなかったでしょうけども(笑)
 
 
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2017.10.12 (Thu)

おじさん・おばさん

 昨日の「ほぼ日」、糸井重里さんの「今日のダーリン」で、少年少女と言っていたのが、成年になると青年と言う言葉にまとめられてしまい、青年期にある女性を意味する単独の言葉がない、と言うお話がありました。
 そーいえばそうなのね、と。

 その昔、日本語には、これは女性ばかりではなく男性もですが、「成熟した大人の女性/男性」への敬称がない、と言うエッセイを読んで、これも確かにそうだなあ、と思ったことが。
 外国へ行ってマダムと呼びかけられて思わず嬉しがっている女性を揶揄する文章も読んだことがあるけど、確かに、呼称として、敬意を含む言葉が日本語にはない。
 おじさん、おばさん、になってしまう。
 私は別におばさんで結構ですが、でも、おばさんと言う呼びかけの言葉に「れっきとした大人への敬意」を感じるかと言われると、それもないですねえ、と思います。……ふむ。

 少女という言葉があって、なぜ「青年期女性」の言葉がないのか。これも考えているとなかなか不思議。

 現行の社会というのは男性社会であり、男性にとっては少女には意味が(存在価値が)あるが(商品価値ともいえますね)、青年期以降の女性には意味も価値もないので、ユーレーのごとくに無視されてきたからなのでは? と考えられます。
 いや別に、フェミニストみたいな怨念でいうわけじゃなくて、少なくともこれまではそういう社会でしたよねって話。

 いいように人を使っておいて、いざとなればユーレー並みに無視をする——そんな扱いには、そりゃいーかげん頭にもくるよ、と思いつつ。

 それはそれとしても、日本語には「大人への敬意」を含む言葉が、そもそも、ないんですよね。
 男性についてもこれは同じ。
 どうしてなんだろうなあ……、成熟するという概念がないのか、成熟を良しとしない価値観なのか、成熟「しない」人が多い民族性なのか。

 キリスト教文明社会においては、子供は動物と同じであり、人間とはいえない存在。
 故に、大人になること自体に価値があり、大人であることが(大人であってこそ)評価され、敬意の対象とされるわけですね。
 
 日本はむしろ、「七歳までは神のうち」という言葉があり、子供はむしろ聖性をもち、大人よりも神様に近いくらいに思っているところがある。
 大人については——、大人であることそのものには価値を見出さないというか、そもそも、大人であることには無関心なんじゃないかという気配さえある。

 もっとも「七歳までは神のうち」は、昔には子供の死亡率が高くて、子供をなくす親も、当然珍しくなかった。それでも我が子を、ことに可愛い盛りの子供を失うというのはつらいことであり、七歳まではまだ完全にはこの世の存在ではないのだ、という——親を慰める意味もあるのだと聞いたことが。
 いわば子供は「神様の世界」からの、ちょっとした「来客」のようなものだったのだといって、親御さんの悲しみ、執着を、薄めさせようという「方便」でもあったってことですね。

 そうはいっても子どもに聖性を見るのは「日本文明」の特徴であり、子供を動物扱いするのとではかなりの違いがあるのは事実。

 ま、最近の日本も、もうだいぶ、よろしくないことばかりが先にキリスト教文明の影響を受けて変化しておりますが——。

 こういうあたりを熟々(つらつら)考えていると、言葉には人の無意識や文化が反映されているんだなと思いますね。

 青年期女性についての言葉は、糸井さんもちらっと書いていらっしゃいましたが、近年人口に膾炙するようになりました「女子」って言葉でいいんでしょうかね。
 もちろん幼い子供でも女子でいいけど、成年女性を区分としていうときに「女子」というのは確かにアリかもしれない。
 
 女性も、少なくともこれまでの社会よりは、ユーレーよりはちょっとマシになってきたところで、少女でなくなるといきなり「青年」に「消される」こともない存在だと示す言葉として、「女子」になったのかな。

 そう思うと、この女子という言葉をやけに「憎む」男どものことが思い出され——なんでそこまで女子という言葉を嫌うのかと思うほど、不自然に”怒る”人がいるんですよね——、なるほどねえ、と思えてきますね(笑)
(何がなるほどねえなのかは具体的には申しません。どうせまた怒られるから)

 それでも、青年期女性の言葉がないよね、とふと指摘して、そのうえ、どういえばいいのかしらと考えてくださる、糸井さんはお優しいなあ、ありがたいなあ、と思いました次第。

 フェミニズムが誕生してどれほどになりますか——頑張って頑張って、少しずつ社会を変えているのは事実ですし、そのことに敬意を払いますが、でも、変えてくる中には、こういう、物の道理というものをわきまえた男性たちがいてくれたからこそだということも、忘れてはいけないと思いますね。

 それはそれとして。

 おじさんおばさんという以外にも、もーちょっと、大人への敬意を表す日本語、登場するといいですねえ。
 私も、迂闊に人様におじさん、などと呼びかけると自分より若い人だったりして(笑)、どうもこの言葉は不便だなと思うので、………21世紀になりましたし、適切な日本語が登場するのを期待したいと思います。

 何かいい表現、ないかな?
 
 
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2017.10.11 (Wed)

医の術は仁なり(理想)



 よーするにこれは、「尊厳死」の概念とも関係しそうだなあと考えてみたり。

 西洋医学には私もお世話になっているのでもちろん全否定はしませんが、あまりにも分野が細分化された結果、局所に異常がないといって本人が訴える苦痛を無視され、結果、重大な病気が見つかった時には手遅れ、と言う事態もままあるので、不信感がないといえば嘘になる。
 西洋医学のお医者さんの、栄養学の知識の無さには危機感さえ覚えるレベルだし。

 ちなみに、冒頭に挙げたツイートは「西洋医学では安らかな最期を迎えられない」と言う主旨ではなく、本人の意思というものが、最終的には(医学そのものよりも)意味をなすのではないかというだけのことですので、念のため。

 民間療法でも西洋医学でも、結局、「ねばならぬ」で凝り固まるということがイカンのではないか、というのが私の思うところです。

 民間療法といっても、西洋医学が認めたがらないきちんとした東洋医学もあれば、それこそ1日に塩水を何リットルのめ、みたいな、おまじないみたいなものまであるので、それらをごっちゃにすること自体が私には抵抗ありますけども。

 現在は治療法にはいろいろありますし、選択肢が増えるのは基本的にはいいことでしょうが、しかし、人間、あまりにも選択肢が増えるとかえって何も選べなくなる、というのも事実。

 結果から見てあれが良かったの悪かったの言ってもしょーがねーでしょ、というのが私の思うところ。

 本人が、「これでダメだったならそれはもう仕方がない」とまで、心静かに思えるものを選べたなら、それはそれでいいんじゃないか、というのを、全否定する気は私にはない。

 民間療法「のみ」にしてしまってお亡くなりになった方を見たとき、西洋医学であれば助かったのに、というのも、お気持ちとしてはわかりますが、でもこれもちょっと傲慢じゃないのかと思うところもあります。
(もちろん明らかな詐欺に引っかかるようなケースはここでは話の対象外とさせていただきます)
 最新の治療法を適切に受けても、やっぱり助からないケースというのはありますし。

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に、立派な御典医が何人もいて脈を取られている大大名でも死ぬときは死ぬし、まっとうに医者にかかれない乞食でも100歳まで生きるものもいる——と、ちょっと偏屈であるらしい医者が龍馬さんにいう場面がありますが、実際、そういうものだと思います。突き詰めれば。

 これはあくまで患者並びにその家族としての見解であり、実際の医療従事者の考え方ではないだろうということも、理解はしております。
 が。
 何も病気のことばかりではなく、この世のすべてに言えることだと思います、「人事を尽くして天命を待つ」というの——、これはもう逃れられない「真理」じゃないですかね。

 3年前に母が心臓を患いましたとき、担当の先生は、
「中程度の、大したことはない症状が3つ重なっている。どれも一つ一つは大したことはないが、重なっているので、どういう順序で、どの症状から手当てすべきかで悩む」
 とおっしゃってまして。
 当然それは母本人、私にも難しい選択となったわけですが。
「これを選べば絶対間違いない」
 なんてもんは、この世にはないよなあ……と思いましたね。つくづく。

 正解があるなら教えて欲しいが、それはお医者さんにも「絶対」とは言えないもの。
 であれば本人が、これでいこう、と決めるしかないんですよ。最後には。

 私は別に西洋医学否定派ではありませんが(人間不信なので、不信感がいつも、幾らかでも、常にあるのは私には特別なことではないのです)、民間療法も別に否定しない。
 何かを選ぶというのは容易なことではない。
 そうなってくると、その選択を、本人がいかに迷わずに「心を決める」かが重大事となります。

 周囲はねえ、そりゃいろいろ言いますよ。病気になったなんて一言でも言ってごらんなさい、それこそ病院の紹介から医者の噂話から、薬の話、民間療法の話、ありとあらゆる情報を周囲がわっと言ってきますよ。
 それぞれが、自分のいうことは「正しい」と思っているし、役に立つと思っている。だからせっかくの自分の助言が容れられないとわかると、露骨に嫌な顔をする人さえいますよ。

 でも、「本人の」意思と選択がどこにあるか。それが一番の重大事なんですよね。
 納得すると言葉で言うほど割り切れるものではなく、こうする、と決めた後でさえ、やっぱりやめたほうがいいか、あちらの方が良かったか、と迷うことが多いでしょう。

 詐欺に引っかかるのは論外としても、複数ある選択肢から選ぶと言うのはある意味過酷なことで、いい結果に終わればいいですが、望ましいことにならなかったとき、それでも、これで良かったのだと思えるかどうか。
 最後には、それしかない。——私もそう思います。

 尊厳死は日本では現在も認められていませんが、
「自分の生を生きるために、尊厳死を選ぶ」
 という「意味」を理解するのには、この「本人の意思」を尊重することをもー少し正面に引き出す必要があるのでは、と思う次第です。

 本人の意志よりも他のところでプロセスが(勝手に)決定され、患者は黙って医者の言うことを聞いてりゃいいんだ、というのでは、ちょっと間に合わないところがある。

 どちらにせよ、一筋縄ではいかない話題ではありますけどねえ………。

 なんであれ、何かが正義で何かが悪だと決めつけることは、どちらにしろいいことじゃないなあ、というのが私の思うところです。

 西洋医学や東洋医学、あと薬学、栄養学、それぞれにメリットもデメリットも、得意分野も不得意分野もある。
 でも本来、それらは「怪我・病気を治す」「人を癒す」という大目標があって、その大目標は一致している。
 そのはずですよね?
 そのために、各々が頑張っているはずなんですよね?

 なのに、それらが反目し合うのでは、患者の立場としては困ってしまう。

 誰のために、なんのためにあるのか、最大の目的はなんなのか。——医者の自尊心のために患者の望みを否定するようでは、そりゃ不信感も持たれようというもの。

 そんなあたり、少しお考えいただければと思います。

 だからこそ、弱気になっている人につけ込んで大枚せしめようなんて詐欺は、根絶されるべきだとも、強く思います。
 
  
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2017.10.10 (Tue)

久しぶりに風邪

 久しぶりに風邪らしい風邪をひきまして。
 本日はこちら、お休みいたします。

 大したことはないので明日には復活していると思います。

 大したことはないからと言って放置していても、でも、治らないものなんですよねこれが😅

 私の風邪は鼻にくる。私の場合は副鼻腔炎になるのですが、これはよーするに感染症でございまして、自力で治らないこともないでしょうが、その場合は大層長引くか、ゆっくりゆっくり症状が悪化して、扁桃腺が化膿するという厄介なことになります。

 ので、ああこれ、やられたな、と思ったら、素直に耳鼻科に行って、抗生剤をもらうというのが一番早い。
 内科的な風邪と違って、寝ていても治らないんですよねえ……。風邪を引いたらあったかくしてよく休んでよく栄養をとって、というのが基本ですが、化膿というのは一度起きたらもうどうにもこうにも。

 この気温差と仕事と母の入院騒ぎが全部重なってくれたので、もう、しょーがないや。
 皆様もどうぞお身体をお厭いくださいませ。

 風邪を引くときって不思議と、何をどう抵抗しても、どーしても、寝込むようにと追い込まれていく感じがするんですよね。間が悪い、というのかな。

 それでも昨日はああ風邪だと思って諸事放棄して、諦めて1日ぐーぐー寝て過ごしまして、それで楽にはなったようです。
 おかげで今朝はやけに早めに目が覚めてしまい、準天頂衛星みちびき4号機の打ち上げ(種子島宇宙センター、H2Aロケット)を見ることができました。
 無事、予定の軌道に乗りました由、おめでとうございます。



 衆院選挙も今日、公示ですか。
 ……あー、悪口いうなら昨日までだったかー、と思った私はどこまで悪口を言う気満々だったのか(笑)

 思うことも色々ありますが、体調イマイチのときは入り組んだ話はしない方がいいということで、今日のところはこの辺で。

 別になんともないようでも、やっぱりどこかぼうっとしているのか、変なことを口走ったりしますよね。微熱といえど熱である、という感じ。

 それでは、また明日、お目にかかります。m(_ _)m
 
 
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2017.10.09 (Mon)

「らしい」という檻

 昨夜の NHK特集は、将棋の、藤井聡太(ふじい・そうた)四段を取り上げていたんですね。
 ちょっと見ていられなかったので録画しましたが…。

 将棋には何の興味もない人さえ、藤井さんのことは知っているし見聞きもしている、という、なかなかの異常事態になっていますね。
 いろんな人がいろんなことを言いますが、私が聞いた中で一番、何だそりゃと思ったのが、
「中学生らしくない」
 という苦情(?)。

 藤井さんは、極めてよく感情を抑制しており、物腰にも落ち着きがあり、また、対局相手への態度にもよく気配りもできていて私は感心する一方です。

 が、そういう人に文句を言うに事欠いて「中学生らしくない」とはどーゆー意味だ。
 しかも、この苦情を言った人は普段は、イマドキの若い人たちの、軽佻浮薄ぶり、言葉遣いのなっていなさについていちいち文句を言う人なんですよね。

 であれば、彼には——その態度振る舞い言葉遣いに至るまで、感心こそすれ文句を言うとは意外ですが? とイヤミまじりに突っ込んだんですが、そうしたときにかえってきた言葉が
「あまりにできすぎていて、中学生らしくない」
 でした。

 ………よーするに。
 いちゃもんを言う人は、いちゃもんを言うことが目的なんであって、態度が悪いっちゃ文句を言い、態度が「良すぎる」って文句を言うのね。
 と、さすがに私も呆れて、以後は口を利きませんでした。(←40過ぎてこの態度/笑)

 この「らしい」って言うの、そもそも、たいていの場合は嫌いなんですよね、私。
 
 日常ではいちばん嫌っている「らしい」は性別ですかね。男らしい女らしいての、言うのも言われるのも大嫌い。
 性差や何かを認めないと言うことではないし、フェミでもない。フェミは男尊女卑の焼直しに過ぎないから、男尊女卑とフェミは私には同じものでしかない。
 ゆえに、ミソジニーとフェミの喧嘩というのは私から見ると実にバカバカしいのです。目くそ鼻くその喧嘩より悪い。

 らしい、という「ステレオタイプ」があるのは事実ですが、しかし、それを他人に当てはめようとする態度が、もう、どうにもこうにもいやで。

 何でしょうかねえ——この「らしい」が意味するもの、この言葉で自分や他人を「規制」しようとする人は、一体何が目的なんでしょうか。

 そうかと思えば、よくCMやら商品広告やらで見る「私らしい」というのもかなり気持ちが悪い、と感じますが、……これは何が引っかかっているのかは自分でも謎です。

 らしい、という言葉で、何かを規定、規制しようとするのは、他人でも自分でも、何か、とてつもなく「不自由な」ものに思えるのかな。

 世の中にはある枠の中にいることで安心するというタイプの人々があるのは承知していますが、——ご自分が、狭いケージの中にいることで安定できる、ホッとする、というのはそれはそれで個性ですから構いませんが、そんなところにいたらノイローゼになってしまうというタイプの人にまで、それを押し付けることには大反対。
 ………ってことかな。

 そもそも「らしい」という言葉には、「本質」がない。
 形や見た目のことばかりで、本質を見ていない。女らしくない人でも、こういう「形」をなぞり、そういう「規制」を守っていれば女らしいと評価される、という具合に——本質そのものを示すものではなく、むしろ、
「中身なんかどうでもいい、『ふりをして』いればいいのだ」
 という大変に怠慢なうえに傲慢なものを示しているように思えます。

 らしい、は、英語では、pretend to 〜(〈人が〉〈物事〉を装う、ふりをする、見せかける)に該当する概念かも。……と、今思いついた。

 社会の中の約束事を守ることで、あまり親しくない人や、大勢いる人とのコミュニケーションをうまく行かせるという意味においては、「らしい」を「利用する」ことはいいと思いますが、
「オマエがどういう人間かなんてどうでもいい、ただこういうふりをしていろ」
 というのが、「らしい」を押し付けることではないでしょうかね。

 らしい、というものを否定はしないけど、それは一つのツールであるに過ぎない。そんなもので自分や他人を縛り上げ、どうかすればやり過ぎて「殺す」ことさえある——と考えれば、そりゃー私が猛反発するのは、当然なんだろうなあ……。
 どういうわけですか、私はちょっと度がすぎるくらいに、他人から不自由を強いられるのを嫌うところがあります。

 我が親に言わせると、自分で自分のことはできると思っているので、人から指図されるのを嫌うのだろう、とのこと。
 でも、世の中はそういう人ばかりではない、と、同時にたしなめられもしますが💦

 そう。だから、ケージに入っていたい人もいる、ということは、認めている。
 でも、そんなところにいたら発狂する、という人間がいることも、認めるのも筋ってもんでしょうが。
 ——そう思ってるんですね😅

 そう思っている人間からすると、400年に一度とも言われる度外れた天才に向かって、良心的ではあるが凡夫という域を出ない人が「中学生らしくあれ」などというのは、片腹痛いでは済まされない「暴言」に聞こえる。

 凡夫であることはお互いにしょーがないことだが、天才という人たちは凡人ごときの「らしい」というケージに押し込めてはいけないし、押し込まれていられるような人でもないという、せめて、それくらいのことは、理解するようでありたい。

 そういえば、昨年90の天寿を持って他界した恩師は、「人間というのは、自分よりレベルが低い人のことはよくわかるが、自分より上の人のことは理解しない、見えないし、わからない」のだと言ったことがありましたが。

 ………そうだとしても、「らしい」のケージに他人を押し込もうとすることの「愚」くらいは、わきまえておく方が、結局は自分のためにもなるだろうと思います。
 自分で自分を、らしいのケージに押し込めて殺す——そういうことも、実はやっているんじゃないのかと疑っておりますので。
 
 
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2017.10.08 (Sun)

カスタムオーダーのお財布・Joggo

 今日はおひさしぶりに「おすすめ」を1件。
 おすすめとは言っても是非に! ということじゃなく、「ご参考までに」ということで。
  
 本革を使った小物を、セミ・オーダーメイドできる、なおかつ、お値段としてもお手ごろというありがたさ。
 Joggo (ジョッゴ株式会社)さん。

 ちょっとここでお財布を新調したいと思い、あれこれネットで見ていたんですが、——これはもう毎回のように思うことだけど、帯に短し襷に長しというのか、なかなかこれというものが見つからない。

 ひょんなことから、こちら、ジョッゴさんのサイトに行き当たりまして。

Joggo - CUSTOM for GIFT
https://joggo.me

 本革を使った製品で、なおかつ、色を好きにオーダーできるという。

 お財布というのも日々使うものなので、やはり自分が好きな色で使いたいもの。
 外装が好きな色というのはもちろんのこと、意外と引っかかるのは内部の色。

 ポケットの数やデザインがイマイチと思うこともありますが、ほとんどの不満は、財布をパッと開いたときに目に入る、内側の色なんですよね。
 外側は自分好みの綺麗なパステル系でも、中の色がなぜか黒っぽいとか、ちょっとケバいとか、あんまり好きではない柄になってるとか。
 そういうことがあると、うーんどうしよう、ぱっと見はいいんだけどな〜。中身がな〜、と悩んだり、結局あきらめたりってことが多い。

 しかしこちらジョッゴさんでは、外側から内側のポケットに至るまで、自分で好きに色を指定できるというじゃありませんか!
 いいなあこれ! と思って会員登録(が必要みたいです。無料)して、早速オーダーしました。

 男性用女性用それぞれ財布(長財布、二つ折り他、数種類あり)、名刺入れ、ブックカバーなど(ほぼ日手帳向けのもありますね)……と、それぞれデザイン各種あり、各パーツの色を自分で選べます。

 希望であれば名入れもできるとのことで、私も今回刻印で入れてもらいました。
 私は外側も内側も、あまり色を変えずにシンプルにいきましたが、センスのある方であれば、あれこれ色を変えてオサレにできるみたいですね。
 サイトにある見本品の色使いを見て、さすが、素敵だな、いいなあ、……と言ってたわりには自分では単色使いに(笑)

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 お財布って、それなりの期間ほぼ毎日使うものですからねえ…やっぱり飽きがこないものを考えると、こんな感じになります私の場合……。
 ブックカバー、手帳カバーや名刺入れなら、もちょっと遊び心があってもいいな♡

 デザインとして選んだのは女性用長財布、ラウンドファスナー型ですが(L字ファスナーもあります)、へえっと思ったのは、小銭入れも仕切りがあって2室になっていること。これはありがたい。

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 私は長財布には硬貨は入れませんが、ちょっとしたものを整理して入れておくのに便利に使ってます。
 それがさらに2室あると、紙類がごっちゃにならないからいいなあ😊

 とまあそういうわけで、デザインとしても文句ないです。

 興味を惹かれたのはもう一つあって、生産工場はバングラデシュ(ダッカ)にあること。

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(カードには日付と、製造責任者の方と思われるサイン)

 サイトをご覧いただければ、詳しいことが説明されていますが、
「JOGGOはバングラデシュの労働環境と
 貧困問題の解決を目的として立ち上げられたブランドです。」
 とのこと。

 フェアトレードにも興味あるし、なるほどな〜と思いまして。

 オーダーしたものを作ってくださる職人さんはもちろんバングラデシュの方。
 オーダーしたものはあちらで作られ、完成後日本のジョッゴさんに送られ、ジョッゴさんから注文主に送られてくるという過程。

 ということで、私の場合はオーダーしたのが9月17日で、製造を開始しましたというメールをいただいたのは19日、製品は昨日、10月7日に到着しました。

 きれいなものです。自分が好きで選んだ色ですから、やはり気持ちがいいですね。

 サイトにはカスタム・フォー・ギフトとありますが、もちろん自分で買ってもOKです(笑)
 名入れできるのも申しました通り、ギフトであればそのように包装したり、カードをつけることもできるようです。
(自分用だからそこまではしていない😅)

 品質もよろしく、なおかつ自分のワガママも実現でき、お値段も、大量生産型の市販品と大きく変わらないってことで、これはちょっといいな〜ということで。

 お財布以外の小物にも興味があるので、ちょっとずつ、また買い足していけたらいいなと思う次第です。

 大事に使わせていただきます。😊
 
  
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