つぶやき日記・2

人を見て法を説け

 人を見て法を説け、ということで。



 夢を持つというのは素晴らしいことではありますが、万人にそういうものがあるわけでもないし、万人が大望、大志を持ってその実現をしていくというのも、現実的ではない話。

 夢があり希望に燃えるというのは結構なことですが、でもこれが「夢を持たなければならない」になるとちょっとアブナイ。
 夢というのは何も社会的な成功とかではなくても、ちょっとした場所へ行きたい、というような、そういうものでもいいんですが。

 折しもただいまオリンピック開催中で、ああまたぞろ出てきたぞこういうの……、と私も少々、げんなりしていたところに、上記のお言葉を Instagram で拝見しまして、「そーなんですよー」と思わず。

 夢、希望、努力、というのはもちろん大事なことですが、もう、そういうことに擦り切れて疲れ切った人には、あるいは、何かの事情で「それどころじゃない」いっぱいいっぱいの人には、こういう言葉は、励ましになるどころか、むしろ危険。

 そうやって自分を追い詰めて追い詰めて追い詰めて、痛み以外は感じないまでに疲れ切っている人には、これは励ましにはならない。

 もちろんこういう言葉が「嘘」を言っているわけでもない。
 こういう指針が励ましになり、目標をクリアしていく方法や道を示してくれるもの。それは確かです。
 
 でも、世の中の人間全部が、そういう「それいけドンドン」ではない、ということ。

 原始仏教とされる仏典を読むと、お釈迦様の説法上手には感心させられます。ものの例え方が上手なので、(言ったら何ですが)あまり頭の良くない人でも、あるいは、カーストがバリバリの国ですから教育レベルが露骨に違う、いろんな人が集まる中でも、誰にでもわかりやすいように説く。

 何よりも、現代でいうカウンセラーのように、そのときそのとき、その人その人を「見て」、状況や人に適したように話すんですよね。

 生きながら悪鬼と化した殺人鬼をさえ、優れた仏弟子にしてしまう。
(三日三晩、語り尽くした、とのことですが)
(あのお釈迦様とマンツーマンで三日三晩、みっちり、じっくり話し合うっていうのもすごいな)

 相手と、状況を見て、言葉や、いう内容を選ぶ、というのは大事なことですね。

 で、「努力は人を裏切らない」くらいならまだいいんですが、「夢を持て」は大きなお世話。
 夢は人の心に自然発生するものであって、自分の意思で持とうと思って持てるものではない。
 なのに、「夢がなければ生きる価値はない」みたいな刷り込みをしてしまうのは、本当に危険なことだと思いますね。

 夢がないんです、と悩むお若い人をみると、んなもん、なくたっていいよ、そんなことで人は死にゃしませんよと私もいうことがあります。
 私が「便宜上」そう言っている、と思う人もあるようですがとんでもない。あたしゃ本気で言ってます。

 夢や希望がないからどうだっての。必要になればそういうものは自然に自分のところに現れる。
 現れないのは、まだ時期ではないか、あるいは必要がないか、そんなところでしょう。

 夢も希望も大事でしょうが、何より大事なのはそこにあなたがちゃんと「いる」こと。

 人間というのはよくばりなので、最初のうちは、健康であればいい、とか言っているのが、だんだん、学校のお勉強ができて、あれができて、それが得意で、何かで賞をとって……と、どんどん「欲しいもの」が増えていく。
 そのこと自体は否定しませんが、そこにとらわれるあまりに自分や他人を損なう、ということは、自分の足元を見失うということ。

 足元があるから立っていられるんで。
 足元を忘れて背伸びしていたら、どこかでひっくり返るのは当たり前。

 そこに「いる」こと自体がすでに奇跡だということを、ゆっくり噛みしめる。
 それが必要な人や状況もある。

 でも、現代の人間社会にいると、ついつい、隣にいる人や周囲に「つられて」しまって、右を見て左を見て、あれ? あれ? とキョロキョロして。自分は違うんだけど、「ダメ」なのかな? と思ってしまう。
 自分もなんとか、周囲のようであろうと頑張って頑張って、——疲れてしまう。

 そういう人には、「それいけどんどん」は危険。

 だからって、もちろん、それいけドンドンが「悪い」ということではなく。
 それいけドンドン「だけ」では間に合わないことがあるよという意味。

「人を見て法を説け」の、説かれる法のうちの、ひとつにすぎませんよ、と。
 それだけなんですけどね。

 むしろそれいけドンドンで、それこそ尻を蹴飛ばしてあげる必要があるひともいる(笑)
 
 つまるところはそれぞれの人にあったように、合ったことを提示できるといいねえ、ということで。

 今の世の中はどーも「それいけドンドン」の価値観が根強いようなので、上記にご紹介したような「基本」をもう一度、「おさらい」するのもよろしいでしょうね、と。

 そんな風に思ったので、自分用メモがわりに。

 相手を見て適切なことを適宜言えるようになったら——それは本当に素晴らしい。
 そんなふうに思います。
 
 
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今年のみかん

 今年は、さしも静岡県でもみかんが不足気味で、メジロのごはんにするみかんもなくて困っている、ということを先日書きましたが。
 
 三ケ日みかん(青島みかん)5kg箱入り、訳あり、というのをネットで見つけてすぐさまオーダーいたしまして。

 訳あり、ということで、大きさはバラバラ。店頭にあるような種別でいうと、Sサイズから2Lくらいのものまでごっちゃ。
 ですが、お味は美味しいです〜。ありがたいことです。(^人^)
 これでメジロも人間もみかん、食べられる♡

 で、同梱されていた、お店からの挨拶状(?)を見て、あーなるほどー。と思いました。

「今シーズンは収穫遅れの関係上、熟成の具合が遅れております」
「万一、酸味が強く感じられましたら、新聞紙に包み、少し保管してください」



 なるほど、みかんも収穫してすぐ出荷、ではなくて「熟成」させるんですね。
 甘みが足りないかなと思ったら、新聞紙に包んでおいておけば、熟成も進むと言うことなんでしょうね。

 幸い、私が購入した分は、みかんの味も揃っていて、甘くて美味しいです。
 静岡のみかんは酸味があまりなく、甘さが強いのが特徴。(その分、日持ちはしませんが)
 やっぱり冬にはみかんですわ〜と美味しくいただいております。

 考えちゃったのは、その挨拶状の続き。

「皮がしなびたものがありますが、傷みかけの古いものではなく、今年の異常寒波の影響で、皮の水分が抜けた現象です。
 中身は熟成されていますので、美味しくいただけると思います」



 自然が相手のことですからねー。当たり前っちゃ当たり前。ほんと、今年の冬は、というより去年の夏からずーっと異常気象ですもん。そんな中、むしろ、よく育ってくれたと感動しますよ。
 なのに、たったそれだけのことで、みかんが廃棄されたり、あるいは売値が下がったりするのかと思うと、ちょっと切ない気持ちになりました。

 ご贈答用なら別ですが、日常、遠慮なくいただきたいものなので、見た目がちょっとくらいアレでも、売ってもらいたい、と思うものは多いですね。
 日本はこの「見た目至上主義」があまりに極端じゃないのか? というのは以前から思ってきたこと。

 自然が相手のことなので、金属製の金型で成型される機械部品みたいなわけにはいかない。
 なのに、そういうことがあまりにも置き去りにされているのではないか。

 現在はこうやって、ネットのおかげで、直接農園さんから購入できるルートもあるからマシですが、それがなかった昔であれば、スーパーマーケットではこういう「規格外品」はないので、本当に、みかん不足の冬になってしまう。

 こういうあたりだれが悪いんだろう。こうして売れば消費者だって、「少しくらい傷があろうが見た目がアレだろうが、味には変わりない」のであれば喜んで買うのに。
 曲がったキュウリでも葉ずれで少し色が悪いみかんでも、寒波で表皮の水分が抜けても、それくらいなんだってんだ。
 それだけでいきなり市場から弾き出してしまう。

 100点か、さもなければ「排除」するか、というこのあまりにも極端な——本当に、100とゼロしかない——システムは、結局、誰のせいなんだろう……と、ご丁寧な説明を拝見しながらしみじみ思ったり。

 荒川弘さんの「百姓貴族」にも、ジャガイモ畑のオーナー制度で、収穫されたジャガイモを送ったら、大きさにばらつきがあるとか傷があるとかで苦情が殺到、農園側はぼーぜん、というエピソードが紹介されていますね。



 自然相手のことですから、すべてが「金型で成型した」ようになるわけがない。泥もついている(そりゃついてるでしょ、畑から直送だもの)。
 でも、それらを「欠陥品」だとして(味は変わらないのに)、苦情を言う、とは。

 このみかんも、同じような背景があるんだろうなあ……と、挨拶状を読んでしばし考え込んでました。

 ご贈答用はね。そりゃわかりますよ。アレは外見にこだわることにも意味はある。
 でも、家庭で、日常で、ざっくざっく食べたいものには、そんなの必要ない概念でしょう。
 本来、不自然であるものを受け入れ、自然であるものを「欠陥品」と罵倒する、というの、どうも私には納得はできない。
 自然というものがどんどん人間から切り離されて行くような、なんとも言えない、不信感と不安感と怒りを感じる。
 自然が相手であること、その「意味」が、人々からどんどん遠ざけられて行く。

 Sサイズから2L、どうかしたら3Lサイズもありそうなものまで一緒くたに入っているみかんの箱を見て、私は楽しくなりました。
 自然というのなら、これが自然でしょうね。でも実際、本当の、——自然というより「野生」のミカンだったら、もっと味にもバラツキもあるし、すんごい酸っぱいものもあるわけですから、農産物となった時点で、自然からは「金型」に近づいている。

 だとしても、現在の市場はあまりに「金型主義」になりすぎてんじゃないの? と思いましたね。
 消費者自身には、「別にいいのに、そんなことで」という意識があることを思えば、消費者すら、置いてけぼりを食らってるんですよねえ。

 誰のせいでこんなことになっちゃいましたかねえ——。

 ともあれ、これでしばらくメジロ共々、美味しいみかんをいただける、ということで、私としてはホッとしてます。ε-(´∀`; )

 やはり冬には、コタツでみかん(笑)

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昔からの、小さな疑問

 雑誌の特集記事で、人には教えたくないお店、という主旨の見出しがついているものをたまに見かけますが、実際そういうことを思うもんですかね?
 自分で気に入っているお店とか、ここはいいな〜と思うお店に出会ったとき。

 人に教えたくない、そんな気持ちって、なるもんでしょうか?

 私は基本的に出不精なので、出かけること自体が多くはないため、お気に入りも何もないほどなんですが、それでも、やはり飲食関係では、ある程度の「お気に入り」って幾つかありますね。

 で、むしろ、ここは良かった、とか、このお店はいいよというのは聞かれもしないのに自分からあれこれ話してしまうタイプ。
 これは深い考えがあってのことでは全くなくて、単に、「わーい♡ と喜ぶと、もう黙っていられない」だけなんですけど。(^^ゞ
 
 基本的には良くも悪くも顔に出やすいところがあるんだろうと思いますが、あのお店いいよねとかあのお菓子はいいよねとかは、まあ、黙っていろと言われる方がつらい(笑)

 自分がそういう性分なので、「あんまり他人には教えない」「言いたくない」という人(もし実在するなら)、不思議だなあ、と。

 多分雑誌の見出しでは「他人に教えたくないと思うほど気に入っている」という強調の意味なんでしょうが、それを最初に聞いて何を思ったかというと、
「それ営業妨害だろ」
 でした。いえ本気で言ってるんじゃありませんが(笑)

 どーも私の脳内では、「お気に入りのお店」であることが、「他人には内緒にしたい」理由として結びつかない。
 何か特殊な事情があり、自分がそこのお店に出入りしていることを他者に知られるとちょっとマズイことになるから……と言うのならわかりますが。
 べつに美味しいパンが買えるお店を、他人に知られて何がマズイのか、というような場合は本気で謎。

 「独り占めしたい」という感情なのかな? でもお店である以上は繁盛しててくれないと営業が続きませんから、むしろ積極的に言い広めて、ご商売として利益を出してもらわないとねえ。営業不振で、せっかくのいいお店でも畳むことになりましたなんて言われたら、それこそ悲しい。

 料理を出されて自分のお気に入りのものがあったら、最初に食べちゃうか、それとも最後まで「楽しみに」とっておくか、というのと、心理的には似たものがあるんでしょうか。
 私は「後にとっておく」タイプなんですが。(←どうでもいい余談)

 気に入ったお店があって、あのお店はいいよ〜。とどんどん喋ってしまうたちなので、ふと。
「他人には教えたくないって、なんでかなあ?」
 と。

 今までも雑誌などで見かけても、フーンとさえ思わずそのまま素通りしながらも、でも心の何処かでは「他人に言いたくない、秘密にしておきたいって、なんで??」と思っていたんですよね。

 それに——少なくとも私の周囲では、あんまり教えたくないんだけど、などという枕詞をつけることさえしない、聞けばお気に入りのお店や、こういうときはどこへ行くのがいいだろうと相談すると気軽に応じて教えてくれる人しかいない。
 実際教えるのを惜しむ人はいないので、本当に、「教えたくない」なんていう人いるのかな?
 と、ちょっと疑問に思ったり。

 でも、「そんなことで『物惜しみ』する人はいない」と思っているのは私だけであって、実際には、本当に肝心の、とっておきのお気に入りは教えてもらっていない、という可能性も、なくはないのかな(笑)
 そんなことはないと信じたいところですが(笑)

 まあお気に入りの店であればあるほど、繁盛していて欲しいから、周囲にも宣伝しまくる、というのはあるいは田舎者の感覚で、そういうお店はただでさえ繁盛しているのだから、これ以上人が来たらかえって迷惑——なんてこと、人口の多い地域ならありそうですね。
 そういうことなら、あまり教えない、というのも理解できるけども。

 雑誌の見出しは人目をひくのが目的なので、結構な嘘つきに(結果的に)なることも多い。
 雑誌がいうほど、「人には教えたくない」なんて思ってしまう人は、世の中には多くないだろうとも思ってます。
 じっさい、そういう「教えたくないお店」の特集記事が掲載されているわけですから(笑)

 もしも本当に——「気に入ったお店は他人には教えない」という人があるなら、ちょっとその理由を聞いてみたい……と、また変なことに関心を持ってみたり。
 
 
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標準服は初耳でした

 学校の制服、嫌いだったなー、そう言えば。
 というのが聞いて真っ先に思い出したこと。

公立小「アルマーニデザインの標準服」を導入 校長の独断、全部で9万、親から批判も
「大人の思惑ばかりが先立ち、子どもが置き去りにされている」

2018年02月08日 12時30分 JST /HUFFPOST

 公立の学校で制服がアルマーニてのはすごいなあ、親御さんは負担が大変なのでは? それでなくても制服なんてあんなもん結構高いのに。——というのが、最初に聞いた時思ったことですが。
 この記事を読んで、おや、と思ったのは「制服」ではなく「標準服」という言葉。

 実用日本語表現辞典によると、標準服というのは制服とも違うようで、

「学校などの組織において、所属者が着用することが望ましいとされる服装。ただし制服とは異なり、常時着用の義務はなく、推奨されるに留まる」


 ですと。

 なんじゃそりゃ?
 つまり、いちおう表向きには、「着たくなければ着なくてもいいよ」ってこと? いつも? 常に? 学校行事や修学旅行や何かの式典や、そういう場合でも、統一された服装じゃなくてもいいってこと? それで許されるの? 絶対?

 ………まあなにせ中学、高校と、私もそれなりに「ガッコノセンコー」にはひどい目にあわされてきたので、どうもこの辺、不信感がすごいです。😅

 制服もねえ……どうなんでしょう。メリットがないわけではないことは認めるんですが、好きじゃなかったなあ……。
 デザインが超絶ダサいということもあったけど、でも、社会人になってからも「お仕着せ」(ユニフォームの日本語訳)には反発してたので、よーするに「強制される」時点でもうイヤなんでしょうね。
 ものがアルマーニだろうがシャネルだろうが同じことだっただろうな。

 で、何故にアルマーニか、そうまで服装にこだわるか、というのは、校長先生のコメントがあるんですが、すみません、何をおっしゃっているのかはわかりません💧
 というのは、その学校の校風がとか「らしさ」がとか、そういう話は部外者にはなかなか見えないものなので。学校の歴史の部分ですね。

「服育」とは私は初めて聞きましたが……でも、標準服であって制服ではないのなら、そのせっかくの服も、着ずに済ませる生徒もあり得るわけで(ま、建前では)、となると、その服育の効果はどの程度のものと見積もったらいいのでしょうか。

 親御さんからはさほど苦情もないともありますが……どーなんですかねー。親御さんからは表立って「高い」とは言いにくい雰囲気、ありそうだしなあ……。

 いやもうそこまで「服育」にこだわるなら、学校か、自治体(こちらは中央区)の方でお代の援助をするとかいっそ無償配布にしたらどーでしょうねえ?

 どうも聞いてスッキリしない。
 不思議なお話に思えます。

 私個人は制服にはとにかくいい印象はない。ただ、服を選ぶのが苦手な友人は、「とにかくこれを着てればいい、というのは助かる」と言っていたし、「迷う必要はない」ところはありがたいんでしょうね。
 でも、私が思いつく制服のメリットってそれくらいだなあ。寒い暑いの調整もやりにくいし、理不尽だとしか思わなかったな。

 ゆえに「服育」ってどんなものなのか、どんなことを目的とし、どんな効果が期待されているのか、詳しく聞いて見たいとも思います。

 が……少なくとも記事本文中にある校長先生のお話は、何度か読んでみたけど、「ちょっと何を言っているのかわからないですねー」でした………😅 ムズカシイ。

 ともあれ世の中には、制服ではない標準服というものがある、というのは初めて知りました。勉強になりました。

      ●

 なかなかややこしいなと思っていた、「あたしおかあさんだから 」、何がいかんのか、というの、こちら↓の記事を読んで思わず膝を打ちました。なるほど!

石井竜也、批判受けた「あたしおかあさんだから」をバッサリ「プロの歌詞じゃないです」
2018/02/09(金) 18:01配信

「僕も作詞する立場から言うと、簡単な話なんです。母親という存在と女性という存在は違うんで、別にしないといけない。母を歌うなら、ことごとく母だけを歌えばいいし、女性を歌うなら、ことごとく女性だけを歌えばいい」
「それを一緒にしちゃダメ]




 これは何によらず言えることじゃないでしょうか。
 議論をしているときに、「そんなことをいうなら、あの人は…」って、てんで明後日の方から無関係の事柄を取り出して、議論というより相手の非難を始める人がいますが、あれをやられるともう議論にならなくなる。話がどんどんずれて行くので。

 つまりそういうことだったのか、なるほど! と納得したので、ちょっとここへ、メモ代わりに。

 ……やっちゃならないことだとわかっていても、ついつい、やらかしてしまうことですよねえ、これも。(^^;)
 人ごとじゃないなあ…。
 
 
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ファンの仁義

 何かや誰かの「ファン」であることと、そこに生じるいろんな摩擦については過去にも何度か、あれこれ考えてきましたが。
 そーいやそーゆー方向からは考えたことなかったなあ、ということで、個人的にはたいへん興味深くお話を伺っております。
 岡崎体育さんのお話。

ファンクラブの存在意義について
2018/02/03 岡崎体育ブログ 脂汗日記 様

 私はファンクラブというものにはあんまり興味がないタイプ。幸か不幸か、明らかに熱意を持ってファンですと言える存在は、オフコース、小田和正さんくらいでした。(10代の頃の話)
 どちらにも一応、ファンクラブ「的な」ものはありましたが、小田さんはことに、ファンと「馴れ合う」ことをよしとしないお考えであって、まあ、会報が届くくらいでしたか。
 コンサートチケットの優待なんてのも、ありませんでしたねえ。

 他のアーティストのファンクラブではそういう「優待」がいろいろあると聞いて、羨ましくなかったといえば嘘になりますが、でもそれでも、「別にいいや」という感じ。
 いわばファンクラブの優待条件に誘惑されてファンクラブに入会するなんてことはなかったし——、それは私ではなくてもあんまりないことなのでは?(^^;)

 岡崎体育さんが「日本では初」のシステムを、ご自身のファンクラブに設けたのが、なんですか、一部からえっらい非難をされたとのこと。

 どんなシステムかと思ったら、ファンクラブ会員の中でも、その人の行動履歴によってポイントがつき、高ポイント獲得者には、岡崎さんご本人に会えるとか写真を撮れるとか? そんな特典がある、ということだそうで。

 ……………そんなのはファンクラブじゃなくても近所のスーパーマーケットでもやっているような「サービス」ですよねえ?
 それが「ファンに優劣をつけるな」と大炎上したんだとか。
 ……へー。

 このへん、お金と「愛情」の関係も、確かに難しいものはあるんでしょうね。
 でも、お金ってそこまで「エライ」ものでもないでしょう。

 お金を払っているファンがいるからアーティストなりはプロとして生活できるんだから、どんな無理難題でも、マナー違反でも、犯罪ですら、ありがたく受け入れろ、と大威張りで要求する人がいますが、あれ、私は嫌いでしてねー。
(犯罪さえ見逃せ、ってそれ、犯罪者の言い分じゃないの?)

 小売・サービス業の現場でもさんざん問題になったことですが、モンスタークレイマー。あのロジック。
 お店側が「お客様は神様です」の心意気でいるのはいいけど、客が「俺は客だから神様だ」っていうのはただの基地外よ? 人間が神様のわけないんだから。

 この「ファンのランク付け」に反発するご意見にも、その根本に「俺は客だから神様だ」の考え方がありますよねえ。

 でも、お金ってそんなに「えらい」ものでしょうかね?

 お金を払う、ということは、何かに対する「対価」として差し出すわけで、てことは、お金と「引き換えに」自分も何かを得ているわけですね。
 であれば、そこはもうフィフティ・フィフティの関係でしょう。

 お金は大事なものだけど、でも自分はそれで必ず何かを得ている。お金を払っているから自分はエライなんて、考え方がオカシイことはすぐわかるはず。

 上記の岡崎体育さんのブログエントリー、その辺り、噛んで含めるように丁寧に書いていらっしゃるので、これを読んでもわからないようなら、それはもう泥棒論理の人であって、話し合っても無駄なばかり。

 ツイッターで、どなたのツイートででしたか、「江頭2:50のエィガ批評宣言」の「まえがき」が紹介されていまして。
 江頭さんはそこで、
「本書の中で(遠慮なく)自分は映画評をしているけれども、でも、覚えておいて欲しいのは、どんなにクソミソにけなすような映画でも、自分はその映画よりもクソミソなんだと言うこと」
 だと書いていらっしゃるとか。

 ツイッターの悲しいところで、へー、とは思うんだけど保存・記録はほとんどできませんね💧自分の怪しい記憶力で書くしかないんですが——文章はこの通りではありませんがそう言う「主旨」でしたということでご了承ください。

 どんなクソみたいな映画でも、それでもその映画は自分より「偉い」のだ。なぜかといえば、
 その映画から自分は必ず何かを「受け取っている」し、その映画がなければ自分は無だ、と。
 無から何かを作り出すことの難しさと尊さ。
 それを、どんなときでも大前提にしているということを、覚えていて欲しい。と。

 ですよねえ、と私も思います。

 批評家、あるいは批評というものになかなか好意的になれない理由の一つが、「自分は何も作ってはいないのに、偉そうに」というのが透けて見える人が大勢いるから。

 作る、ということの難しさと「尊さ」、「誰かに、何かを与えられる」崇高さとありがたさ。
 作ってくれる人がいて、そこから初めて自分は何かを得ている、というのが、本来の姿。

 ある意味、お金を払う、というのは本来の意味でなら「対価にすらなっていない」かもしれない。
 何でもかんでも無料無料っていうのも、よろしくないですねえ。
 
 自分が払うお金と、得られるものとの釣り合いを決めるのは自分。どーも釣り合わないと思ったらやめればいい。
 でも、対価を「すら」払わないのはただの泥棒です。なので、「お金を払っているファンを神様だと思え」というのは、………なんとも言いようのない考え違いだなあ、と。
 私としては思うばかり。

 対価に見合うと思えば払うし、どうもそうとは思えない、あるいはハナから興味ない、というなら、それはそれで構わない。
 お金は自分が「使う」もの。
 主体はお金ではなく、「人」と「人」。

 ファンのランク付けについては。
 よーするに、自分に多くの対価を払ってくれる人に、気持ちばかりの「感謝によるおまけ」がつく、ということなんじゃないでしょうかね。

 お金は大事。
 けれども、お金ですべてが決定するほど、偉かぁない。

 ファンとアーティストもまた、どちらか「だけ」が一方的にエライなんてことはない。

 
 ファンには、ファンとしての「仁義」ってものがある。
 ファンだというからには相手への敬意も愛情もあるんでしょう。
 お金はあるけど敬意も愛情もないというのなら、それはファンとは言えない。

 
 お金の存在を「過剰に見積もる」のは、どうも野暮だねえ、というのが、私の感想です。

     ●
 
 明日はまたこちら、たぶんおやすみいたします。
 まだちょっと予定としては決定ではないのですが、たぶん。

 明日更新がなかったら、また出かけたか、と思ってやってください。m(_ _)m
 土曜日にはまた、お目にかかります。
 
 
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名声の魔力

ただいま早寝遅起き励行中(なかなか難しいところがありますが)で、昨夜も早めに寝んでしまいまして。
 で、起きたらこのニュースですよ……しばしボーゼンとなりました。

台湾で地震、2人死亡=ホテル倒壊、邦人含む200人超負傷
2018/02/07 時事ドットコムニュース

 数日前から小さい地震が起きていたとも聞いていますが…ともあれ被害が可能な限り広がらないこと、人的被害の少ないことを願うばかりです。

        ●

ミシュラン“三つ星返上”のなぜ、世界的名誉で史上初
2018/02/06(火) 20:08配信 yahoo!ニュース/TBS News

 何年か前にも、ミシュランガイド掲載の「常連」シェフが、星の数を減ったことから自死なさったことがありましたよね。
 痛ましいことでした。

 私個人はグルメでもなんでもないのでミシュランガイドを見たことすらないのですが、ここに掲載されるのは「すごいこと」だというくらいの認識はある。
 けれども「名声」ってなんだろうね…と考え込んでおりました。

 上記記事中にある、『御料理 辻』の辻さんのお言葉に、少し納得できたこともあります。

「星が落ちたりとか(したら)世間からみたら味が落ちたのかなとか、そういうところに直結してくると思うので、(三つ星を取り続けるのは)やはりプレッシャーに感じるところがあると」



 ミシュランガイドの評価は「評価のうちの一つ」に過ぎず、絶対のものではない。
 にも関わらず、星が落ちると、その店の内容までもが「落ちた」と判断されかねない、とは。
 それはあるんだろうなとも思いました。

 しかし、そんなこと言ってたら、お店のインテリアひとつ、変えるのは容易ではないですよね💧
 料理のみならず店内の雰囲気なども、評価のうちにあるそうなので。

 実際にそのお店がいいのかそうでないのかは、自分で確かめればいい。
 ミシュランに載っているから食事に行く、載ってないならいかない、なんてそんな人、そう多くはないだろうと思いうんですけど、どうなんでしょう💧

 これはネットの口コミも同じですが、他人の評価は他人の評価でしかなく、自分の評価とは違う。(当たり前ですが)
 これは天下のミシュランガイドといえども同じであって、ミシュランガイドがいいと言っていたけど、どーも自分の好みではない、あるいはその逆なんてこと、山のようにあるでしょう。

 けれどもそれでも——、シェフは、「ミシュランガイドによる名声」「名誉」を、求めるものなのだろうかと。
 どうもそういうものへの執着心が薄い私には想像がついていないのかもしれません。

 でも、その名誉・名声の方を重視するあまり、自分の本来の目的——自分の店で自分の思うことを実現し、人々に提供する、ということの優先順位が下がるのだとしたら、やっぱりそれは、本末転倒。

 ミシュランガイドで星の数を減らされたと言って自死にまで至る人にとっては、それとも、元々の目的は、「そんなこと」より、とにかくミシュランガイドで星を取ること、だったんでしょうか?
 ………まあ、そういう人がいないとも限らないでしょうが……。

 ミシュランガイドに載ったって? そりゃすごいねーなどと言いつつも、大して興味もなく、ミシュランガイドに特別な敬意をはらう気にならないのは、私が「権威主義は嫌い」だからだろう、とうっすら自分でも思ってきましたが、今回のニュースを聞いて、「さもあらん」と思いました。

 素晴らしいお店だから、ミシュランガイドに「も」載るのであって、ミシュランガイドに載っている「から」素晴らしいお店なのではない、ということ。
 どうもそのことがときどき置き去りにされ、忘れられているように思っていた私には、「もうミシュランガイドに載せないで」という要請、ごもっとも、と思いました。

 自分の思うことをお店で実現して提供するのは、目標であり、何より「やりたいこと」だったはず。
 でもそれが「ミシュランガイドに載るために」「やりたくもないことをやっている」感覚になるのであれば、ミシュランから引くのは、理解できる、というより、それが当然の決断でしょうねえ。

 そんなことで自死されるくらいなら、こうして、「本末」を維持するために「引く」という決断の方が、納得できる。
 ミシュランガイドに載らなくても、そのお店が素晴らしい場所であることには変わりないわけだし。

 名誉、名声——、これも一つの「権威」ですが。
 権威自体は認めるけれど、ものの本質を平気で見落とす権威主義(者)を嫌う身としては、「賢明なご判断で」と思いますね。

 それと同時に、こういう、名声——というものの魔力って、そんなに凄まじく強烈で、魅力的なものなんだろうか、という疑問はなお、うっすら残ります。
 誰かに褒められたり、認めてもらえたり、讃えられることは嬉しいことだし、それが人間社会では収入に結びついて行くのは事実だけど、自分の本来の目的を捨てても、どうしても手の中に握りしめていたい、それがなければ死んでしまう、というほどの「魔力」が、「名声」にはあるものなのか。

 そもそも、ミシュランガイドを「蹴った」ってことがニュースになること自体がちょっとすごいよね、と思いつつ。

 名声か〜……。それはどんな魔力と魅力に満ちた世界なんだろう。
 その魔力に幻惑されることなく、「自分の本質」を守ろうという決断にこそ、私は敬意を払いたいと思います。

  
    
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金子みすゞはさすがだった…

 昨日ツイッターの TLに突如として溢れかえったお怒りツイート群に、ちょっとびっくりしました。

 聞けば「あたしおかあさんだから」という歌(曲)が酷すぎる(いろんな意味で)ということで大反発を食らっている、というのでした。
 NHKの番組「おかあさんといっしょ」に登場する歌として制作された曲だそうですが、歌詞を書いたのは「のぶみ」さんとおっしゃる方。絵本作家でいらっしゃるそうで。

 のぶみさんご本人のツイートを拝見すると、……いやまさかここまで実際のお母さん方に怒られるとは、ご本人には意外を通り越して心外かもしれませんね。


 詳細な事情が私にはわかりませんが、この本文から察するに、実際にお母さん方にお話を聞き、リサーチのうえで、「おかあさん」を応援、励ます、というお気持ちだったのかなと思われます。

 ……でも、実際にはそりゃもう大変な大炎上。
(上記ツイート中のリンク、お探しのページが見つかりません、になってまして…。削除されたのか…)

 反発を食らった上に、ツイッターでは「おかあさんだから」をもじったハッシュタグ「#あたしおかあさんだけど」が生成されて大拡散される有様。

 歌詞を探したんですが今のところ、歌詞表示サービス上では見つからない……フィーチャーフォンの方には申し訳ありませんが、こちらのツイートがご紹介くださっているので。


 この「のぶみ」さんについては以前から、その絵本自体、アンチ派というのか、批判したり、嫌ったりしている人もあるようです。
 
 で、「あたしおかあさんだから」の歌詞ですが、読んだ私の率直な感想は。
「いやこれ辛すぎるだろ……」
 でした。

「現実に」子育てというのは描かれているような側面もあるのでしょうが、なんせこういう時代ですから、いわば「典型」とは言えないんですよね。
 作詞にあたっては実際にお母さんたちにリサーチしたということですから、「間違った」描写をしているわけではないのでしょう。
 でも、ここに描かれた「像」には合致しない、という人も多いんじゃないでしょうか。「現実」でいうのなら。
 こうでなければならない、という思い込みは、むしろ、のぶみさんご自身に強すぎるんじゃないかなー…。

 些細なことでもなんでも褒め倒してくれる「コウテイペンギン」(のヒナ)「コウペン」ちゃんが大好きでして。

生きてるだけで肯定してくれる…!思わず幸せ涙がでちゃいそうな“コウテイ”ペンギン「コウペンちゃん」のほっこり癒しグッズが登場
2017-07-18 17:44:00

 のぶみさんはコウペンちゃんとは逆に、むしろ、すでに頑張っている人を肯定し、励ますというより、さらに頑張れと鞭を打ち、「頑張ればいいことあるぞ」と、鼻先に人参をぶら下げて見せるような、そんな無残さを感じます。
 ……なんでしょうかねこれ😅

 親になったことはなく、ないままで終わるであろう私としては本来こういう話題はアンタッチャブルなんで、触らずにすませるつもりでしたが
「この歌を聴いて感動する人はそうはいないだろ……」
 と、カタルシス効果も期待できないことにびっくりしてつい、書いてしまいました。

 また、お母さんである以上、あらゆる自己犠牲は当然だと言ってのけるのと同時に、「母親になっていない女」への軽蔑もあるよね、というご指摘も見かけて、「あー。そりゃ典型的だな」と。
 母親になって女は一人前であり、そうではないものには「価値」はない、とは、あまりにも昔ながらの価値観。

 ここまでの反発を受けても、その反発はのぶみさんには「通じない」だろうと思いました——たぶんそのへん、ご本人には無意識でしょうから。
 つまり、受け手もいちいち怒る必要もない、——相手にしてもしょーがない(価値観が違うので)というのが一番いい態度かなと思います。

 こちら↓の分析も面白かったし、説得力もあると思いますので、よろしければぜひご一読を。

母の自己犠牲を描くとなぜ炎上するのか のぶみ作詞「あたしおかあさんだから」 を認知的不協和から考える
2018/02/05(月) 6:30 yahoo!ニュース/中野円佳

 今の時代はまたちょっと面白くて、いろんなところで時代の過渡期になっているようです。
 仮想通貨もそうだし、社会のありようもそう。
 旧来の価値観が「悪」であるということではなくて、「それだけでない、多様なもの」があふれ出ようとしている。

 その新規のいろんな価値観や状況に、適応する人も、どうもイマイチ、という人もいるので摩擦になる。
 でも、摩擦になった時に、自分の価値観や、自分はどこに立つのか、ということも、あらためて考えることができる。

 ただ、あんまり過剰になって人様を傷つけることは可能な限り、ないようにしたい。
 人を傷つければ結局は自分が傷つく。最終的には自分のためなので、そのあたりは、冷静に。可能な限り。

 先日テレビを見ていたら、AI、人工知能の今後の展望について討論しているものがありましたが、ほー、と興味深かったのは、
「このままいくとAIが大抵のことは人の代わりにこなすようになる」
「(例えば)労働できることが人の価値であったものが、そういう価値はなくなっていく」
「(何かができるから価値がある、のではなく)人はただそこに存在するだけで価値がある、ということになるのかも」

 ああ、きっとそうなんだろう——と思いました。

「生きているだけで丸儲け」と言ってのけた人がいますが、そういうことでしょうね。

 障がい者施設での殺人事件の犯人は、障害のある人は生きている価値はないと取り調べ中に語ったと聞いていますが、そういう価値観を超越する「存在の本質」に、これからの社会は近づいていこうとするんじゃないか、と。

 原始的なこれまでの社会と、存在するということ自体の奇跡をそのまま認める社会との間にあって、——今は、いろんなものが揺らいでいる。

 これも、そのうちのひとつの現象かもしれない。

 ………と思っていただいて、ただいま激怒中の方には、お心おだやかになっていただければいいな、と思います。(^^;)

 みんな誰もが、自分のやるべきことをちゃんとやってる。
 引きこもりでも? と言われそうですが、引きこもりでも。ですもちろん。

 私も、「母親になって一人前」という価値観で「裁かれる」のなら、存在価値はない女なので。
 でも、そう裁かれたところで死にゃしませんからねえ。「ふーん」で過ごすしかありません。

 コウペンちゃんに、「寒いのにちゃんと起きたの? えらい!」と言われてほっこりしつつ。

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 明日はこちら、お休みします。m(_ _)m  
 
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