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2017.10.12 (Thu)

おじさん・おばさん

 昨日の「ほぼ日」、糸井重里さんの「今日のダーリン」で、少年少女と言っていたのが、成年になると青年と言う言葉にまとめられてしまい、青年期にある女性を意味する単独の言葉がない、と言うお話がありました。
 そーいえばそうなのね、と。

 その昔、日本語には、これは女性ばかりではなく男性もですが、「成熟した大人の女性/男性」への敬称がない、と言うエッセイを読んで、これも確かにそうだなあ、と思ったことが。
 外国へ行ってマダムと呼びかけられて思わず嬉しがっている女性を揶揄する文章も読んだことがあるけど、確かに、呼称として、敬意を含む言葉が日本語にはない。
 おじさん、おばさん、になってしまう。
 私は別におばさんで結構ですが、でも、おばさんと言う呼びかけの言葉に「れっきとした大人への敬意」を感じるかと言われると、それもないですねえ、と思います。……ふむ。

 少女という言葉があって、なぜ「青年期女性」の言葉がないのか。これも考えているとなかなか不思議。

 現行の社会というのは男性社会であり、男性にとっては少女には意味が(存在価値が)あるが(商品価値ともいえますね)、青年期以降の女性には意味も価値もないので、ユーレーのごとくに無視されてきたからなのでは? と考えられます。
 いや別に、フェミニストみたいな怨念でいうわけじゃなくて、少なくともこれまではそういう社会でしたよねって話。

 いいように人を使っておいて、いざとなればユーレー並みに無視をする——そんな扱いには、そりゃいーかげん頭にもくるよ、と思いつつ。

 それはそれとしても、日本語には「大人への敬意」を含む言葉が、そもそも、ないんですよね。
 男性についてもこれは同じ。
 どうしてなんだろうなあ……、成熟するという概念がないのか、成熟を良しとしない価値観なのか、成熟「しない」人が多い民族性なのか。

 キリスト教文明社会においては、子供は動物と同じであり、人間とはいえない存在。
 故に、大人になること自体に価値があり、大人であることが(大人であってこそ)評価され、敬意の対象とされるわけですね。
 
 日本はむしろ、「七歳までは神のうち」という言葉があり、子供はむしろ聖性をもち、大人よりも神様に近いくらいに思っているところがある。
 大人については——、大人であることそのものには価値を見出さないというか、そもそも、大人であることには無関心なんじゃないかという気配さえある。

 もっとも「七歳までは神のうち」は、昔には子供の死亡率が高くて、子供をなくす親も、当然珍しくなかった。それでも我が子を、ことに可愛い盛りの子供を失うというのはつらいことであり、七歳まではまだ完全にはこの世の存在ではないのだ、という——親を慰める意味もあるのだと聞いたことが。
 いわば子供は「神様の世界」からの、ちょっとした「来客」のようなものだったのだといって、親御さんの悲しみ、執着を、薄めさせようという「方便」でもあったってことですね。

 そうはいっても子どもに聖性を見るのは「日本文明」の特徴であり、子供を動物扱いするのとではかなりの違いがあるのは事実。

 ま、最近の日本も、もうだいぶ、よろしくないことばかりが先にキリスト教文明の影響を受けて変化しておりますが——。

 こういうあたりを熟々(つらつら)考えていると、言葉には人の無意識や文化が反映されているんだなと思いますね。

 青年期女性についての言葉は、糸井さんもちらっと書いていらっしゃいましたが、近年人口に膾炙するようになりました「女子」って言葉でいいんでしょうかね。
 もちろん幼い子供でも女子でいいけど、成年女性を区分としていうときに「女子」というのは確かにアリかもしれない。
 
 女性も、少なくともこれまでの社会よりは、ユーレーよりはちょっとマシになってきたところで、少女でなくなるといきなり「青年」に「消される」こともない存在だと示す言葉として、「女子」になったのかな。

 そう思うと、この女子という言葉をやけに「憎む」男どものことが思い出され——なんでそこまで女子という言葉を嫌うのかと思うほど、不自然に”怒る”人がいるんですよね——、なるほどねえ、と思えてきますね(笑)
(何がなるほどねえなのかは具体的には申しません。どうせまた怒られるから)

 それでも、青年期女性の言葉がないよね、とふと指摘して、そのうえ、どういえばいいのかしらと考えてくださる、糸井さんはお優しいなあ、ありがたいなあ、と思いました次第。

 フェミニズムが誕生してどれほどになりますか——頑張って頑張って、少しずつ社会を変えているのは事実ですし、そのことに敬意を払いますが、でも、変えてくる中には、こういう、物の道理というものをわきまえた男性たちがいてくれたからこそだということも、忘れてはいけないと思いますね。

 それはそれとして。

 おじさんおばさんという以外にも、もーちょっと、大人への敬意を表す日本語、登場するといいですねえ。
 私も、迂闊に人様におじさん、などと呼びかけると自分より若い人だったりして(笑)、どうもこの言葉は不便だなと思うので、………21世紀になりましたし、適切な日本語が登場するのを期待したいと思います。

 何かいい表現、ないかな?
 
 

タグ : 日本語

13:28  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.10.11 (Wed)

医の術は仁なり(理想)



 よーするにこれは、「尊厳死」の概念とも関係しそうだなあと考えてみたり。

 西洋医学には私もお世話になっているのでもちろん全否定はしませんが、あまりにも分野が細分化された結果、局所に異常がないといって本人が訴える苦痛を無視され、結果、重大な病気が見つかった時には手遅れ、と言う事態もままあるので、不信感がないといえば嘘になる。
 西洋医学のお医者さんの、栄養学の知識の無さには危機感さえ覚えるレベルだし。

 ちなみに、冒頭に挙げたツイートは「西洋医学では安らかな最期を迎えられない」と言う主旨ではなく、本人の意思というものが、最終的には(医学そのものよりも)意味をなすのではないかというだけのことですので、念のため。

 民間療法でも西洋医学でも、結局、「ねばならぬ」で凝り固まるということがイカンのではないか、というのが私の思うところです。

 民間療法といっても、西洋医学が認めたがらないきちんとした東洋医学もあれば、それこそ1日に塩水を何リットルのめ、みたいな、おまじないみたいなものまであるので、それらをごっちゃにすること自体が私には抵抗ありますけども。

 現在は治療法にはいろいろありますし、選択肢が増えるのは基本的にはいいことでしょうが、しかし、人間、あまりにも選択肢が増えるとかえって何も選べなくなる、というのも事実。

 結果から見てあれが良かったの悪かったの言ってもしょーがねーでしょ、というのが私の思うところ。

 本人が、「これでダメだったならそれはもう仕方がない」とまで、心静かに思えるものを選べたなら、それはそれでいいんじゃないか、というのを、全否定する気は私にはない。

 民間療法「のみ」にしてしまってお亡くなりになった方を見たとき、西洋医学であれば助かったのに、というのも、お気持ちとしてはわかりますが、でもこれもちょっと傲慢じゃないのかと思うところもあります。
(もちろん明らかな詐欺に引っかかるようなケースはここでは話の対象外とさせていただきます)
 最新の治療法を適切に受けても、やっぱり助からないケースというのはありますし。

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に、立派な御典医が何人もいて脈を取られている大大名でも死ぬときは死ぬし、まっとうに医者にかかれない乞食でも100歳まで生きるものもいる——と、ちょっと偏屈であるらしい医者が龍馬さんにいう場面がありますが、実際、そういうものだと思います。突き詰めれば。

 これはあくまで患者並びにその家族としての見解であり、実際の医療従事者の考え方ではないだろうということも、理解はしております。
 が。
 何も病気のことばかりではなく、この世のすべてに言えることだと思います、「人事を尽くして天命を待つ」というの——、これはもう逃れられない「真理」じゃないですかね。

 3年前に母が心臓を患いましたとき、担当の先生は、
「中程度の、大したことはない症状が3つ重なっている。どれも一つ一つは大したことはないが、重なっているので、どういう順序で、どの症状から手当てすべきかで悩む」
 とおっしゃってまして。
 当然それは母本人、私にも難しい選択となったわけですが。
「これを選べば絶対間違いない」
 なんてもんは、この世にはないよなあ……と思いましたね。つくづく。

 正解があるなら教えて欲しいが、それはお医者さんにも「絶対」とは言えないもの。
 であれば本人が、これでいこう、と決めるしかないんですよ。最後には。

 私は別に西洋医学否定派ではありませんが(人間不信なので、不信感がいつも、幾らかでも、常にあるのは私には特別なことではないのです)、民間療法も別に否定しない。
 何かを選ぶというのは容易なことではない。
 そうなってくると、その選択を、本人がいかに迷わずに「心を決める」かが重大事となります。

 周囲はねえ、そりゃいろいろ言いますよ。病気になったなんて一言でも言ってごらんなさい、それこそ病院の紹介から医者の噂話から、薬の話、民間療法の話、ありとあらゆる情報を周囲がわっと言ってきますよ。
 それぞれが、自分のいうことは「正しい」と思っているし、役に立つと思っている。だからせっかくの自分の助言が容れられないとわかると、露骨に嫌な顔をする人さえいますよ。

 でも、「本人の」意思と選択がどこにあるか。それが一番の重大事なんですよね。
 納得すると言葉で言うほど割り切れるものではなく、こうする、と決めた後でさえ、やっぱりやめたほうがいいか、あちらの方が良かったか、と迷うことが多いでしょう。

 詐欺に引っかかるのは論外としても、複数ある選択肢から選ぶと言うのはある意味過酷なことで、いい結果に終わればいいですが、望ましいことにならなかったとき、それでも、これで良かったのだと思えるかどうか。
 最後には、それしかない。——私もそう思います。

 尊厳死は日本では現在も認められていませんが、
「自分の生を生きるために、尊厳死を選ぶ」
 という「意味」を理解するのには、この「本人の意思」を尊重することをもー少し正面に引き出す必要があるのでは、と思う次第です。

 本人の意志よりも他のところでプロセスが(勝手に)決定され、患者は黙って医者の言うことを聞いてりゃいいんだ、というのでは、ちょっと間に合わないところがある。

 どちらにせよ、一筋縄ではいかない話題ではありますけどねえ………。

 なんであれ、何かが正義で何かが悪だと決めつけることは、どちらにしろいいことじゃないなあ、というのが私の思うところです。

 西洋医学や東洋医学、あと薬学、栄養学、それぞれにメリットもデメリットも、得意分野も不得意分野もある。
 でも本来、それらは「怪我・病気を治す」「人を癒す」という大目標があって、その大目標は一致している。
 そのはずですよね?
 そのために、各々が頑張っているはずなんですよね?

 なのに、それらが反目し合うのでは、患者の立場としては困ってしまう。

 誰のために、なんのためにあるのか、最大の目的はなんなのか。——医者の自尊心のために患者の望みを否定するようでは、そりゃ不信感も持たれようというもの。

 そんなあたり、少しお考えいただければと思います。

 だからこそ、弱気になっている人につけ込んで大枚せしめようなんて詐欺は、根絶されるべきだとも、強く思います。
 
  
11:25  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.10.10 (Tue)

久しぶりに風邪

 久しぶりに風邪らしい風邪をひきまして。
 本日はこちら、お休みいたします。

 大したことはないので明日には復活していると思います。

 大したことはないからと言って放置していても、でも、治らないものなんですよねこれが😅

 私の風邪は鼻にくる。私の場合は副鼻腔炎になるのですが、これはよーするに感染症でございまして、自力で治らないこともないでしょうが、その場合は大層長引くか、ゆっくりゆっくり症状が悪化して、扁桃腺が化膿するという厄介なことになります。

 ので、ああこれ、やられたな、と思ったら、素直に耳鼻科に行って、抗生剤をもらうというのが一番早い。
 内科的な風邪と違って、寝ていても治らないんですよねえ……。風邪を引いたらあったかくしてよく休んでよく栄養をとって、というのが基本ですが、化膿というのは一度起きたらもうどうにもこうにも。

 この気温差と仕事と母の入院騒ぎが全部重なってくれたので、もう、しょーがないや。
 皆様もどうぞお身体をお厭いくださいませ。

 風邪を引くときって不思議と、何をどう抵抗しても、どーしても、寝込むようにと追い込まれていく感じがするんですよね。間が悪い、というのかな。

 それでも昨日はああ風邪だと思って諸事放棄して、諦めて1日ぐーぐー寝て過ごしまして、それで楽にはなったようです。
 おかげで今朝はやけに早めに目が覚めてしまい、準天頂衛星みちびき4号機の打ち上げ(種子島宇宙センター、H2Aロケット)を見ることができました。
 無事、予定の軌道に乗りました由、おめでとうございます。



 衆院選挙も今日、公示ですか。
 ……あー、悪口いうなら昨日までだったかー、と思った私はどこまで悪口を言う気満々だったのか(笑)

 思うことも色々ありますが、体調イマイチのときは入り組んだ話はしない方がいいということで、今日のところはこの辺で。

 別になんともないようでも、やっぱりどこかぼうっとしているのか、変なことを口走ったりしますよね。微熱といえど熱である、という感じ。

 それでは、また明日、お目にかかります。m(_ _)m
 
 
11:47  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.10.09 (Mon)

「らしい」という檻

 昨夜の NHK特集は、将棋の、藤井聡太(ふじい・そうた)四段を取り上げていたんですね。
 ちょっと見ていられなかったので録画しましたが…。

 将棋には何の興味もない人さえ、藤井さんのことは知っているし見聞きもしている、という、なかなかの異常事態になっていますね。
 いろんな人がいろんなことを言いますが、私が聞いた中で一番、何だそりゃと思ったのが、
「中学生らしくない」
 という苦情(?)。

 藤井さんは、極めてよく感情を抑制しており、物腰にも落ち着きがあり、また、対局相手への態度にもよく気配りもできていて私は感心する一方です。

 が、そういう人に文句を言うに事欠いて「中学生らしくない」とはどーゆー意味だ。
 しかも、この苦情を言った人は普段は、イマドキの若い人たちの、軽佻浮薄ぶり、言葉遣いのなっていなさについていちいち文句を言う人なんですよね。

 であれば、彼には——その態度振る舞い言葉遣いに至るまで、感心こそすれ文句を言うとは意外ですが? とイヤミまじりに突っ込んだんですが、そうしたときにかえってきた言葉が
「あまりにできすぎていて、中学生らしくない」
 でした。

 ………よーするに。
 いちゃもんを言う人は、いちゃもんを言うことが目的なんであって、態度が悪いっちゃ文句を言い、態度が「良すぎる」って文句を言うのね。
 と、さすがに私も呆れて、以後は口を利きませんでした。(←40過ぎてこの態度/笑)

 この「らしい」って言うの、そもそも、たいていの場合は嫌いなんですよね、私。
 
 日常ではいちばん嫌っている「らしい」は性別ですかね。男らしい女らしいての、言うのも言われるのも大嫌い。
 性差や何かを認めないと言うことではないし、フェミでもない。フェミは男尊女卑の焼直しに過ぎないから、男尊女卑とフェミは私には同じものでしかない。
 ゆえに、ミソジニーとフェミの喧嘩というのは私から見ると実にバカバカしいのです。目くそ鼻くその喧嘩より悪い。

 らしい、という「ステレオタイプ」があるのは事実ですが、しかし、それを他人に当てはめようとする態度が、もう、どうにもこうにもいやで。

 何でしょうかねえ——この「らしい」が意味するもの、この言葉で自分や他人を「規制」しようとする人は、一体何が目的なんでしょうか。

 そうかと思えば、よくCMやら商品広告やらで見る「私らしい」というのもかなり気持ちが悪い、と感じますが、……これは何が引っかかっているのかは自分でも謎です。

 らしい、という言葉で、何かを規定、規制しようとするのは、他人でも自分でも、何か、とてつもなく「不自由な」ものに思えるのかな。

 世の中にはある枠の中にいることで安心するというタイプの人々があるのは承知していますが、——ご自分が、狭いケージの中にいることで安定できる、ホッとする、というのはそれはそれで個性ですから構いませんが、そんなところにいたらノイローゼになってしまうというタイプの人にまで、それを押し付けることには大反対。
 ………ってことかな。

 そもそも「らしい」という言葉には、「本質」がない。
 形や見た目のことばかりで、本質を見ていない。女らしくない人でも、こういう「形」をなぞり、そういう「規制」を守っていれば女らしいと評価される、という具合に——本質そのものを示すものではなく、むしろ、
「中身なんかどうでもいい、『ふりをして』いればいいのだ」
 という大変に怠慢なうえに傲慢なものを示しているように思えます。

 らしい、は、英語では、pretend to 〜(〈人が〉〈物事〉を装う、ふりをする、見せかける)に該当する概念かも。……と、今思いついた。

 社会の中の約束事を守ることで、あまり親しくない人や、大勢いる人とのコミュニケーションをうまく行かせるという意味においては、「らしい」を「利用する」ことはいいと思いますが、
「オマエがどういう人間かなんてどうでもいい、ただこういうふりをしていろ」
 というのが、「らしい」を押し付けることではないでしょうかね。

 らしい、というものを否定はしないけど、それは一つのツールであるに過ぎない。そんなもので自分や他人を縛り上げ、どうかすればやり過ぎて「殺す」ことさえある——と考えれば、そりゃー私が猛反発するのは、当然なんだろうなあ……。
 どういうわけですか、私はちょっと度がすぎるくらいに、他人から不自由を強いられるのを嫌うところがあります。

 我が親に言わせると、自分で自分のことはできると思っているので、人から指図されるのを嫌うのだろう、とのこと。
 でも、世の中はそういう人ばかりではない、と、同時にたしなめられもしますが💦

 そう。だから、ケージに入っていたい人もいる、ということは、認めている。
 でも、そんなところにいたら発狂する、という人間がいることも、認めるのも筋ってもんでしょうが。
 ——そう思ってるんですね😅

 そう思っている人間からすると、400年に一度とも言われる度外れた天才に向かって、良心的ではあるが凡夫という域を出ない人が「中学生らしくあれ」などというのは、片腹痛いでは済まされない「暴言」に聞こえる。

 凡夫であることはお互いにしょーがないことだが、天才という人たちは凡人ごときの「らしい」というケージに押し込めてはいけないし、押し込まれていられるような人でもないという、せめて、それくらいのことは、理解するようでありたい。

 そういえば、昨年90の天寿を持って他界した恩師は、「人間というのは、自分よりレベルが低い人のことはよくわかるが、自分より上の人のことは理解しない、見えないし、わからない」のだと言ったことがありましたが。

 ………そうだとしても、「らしい」のケージに他人を押し込もうとすることの「愚」くらいは、わきまえておく方が、結局は自分のためにもなるだろうと思います。
 自分で自分を、らしいのケージに押し込めて殺す——そういうことも、実はやっているんじゃないのかと疑っておりますので。
 
 
11:11  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.10.07 (Sat)

秋も眠い

 怒涛の1週間も終わり、今日はちょっとお休みしようかなと思ってましたが、こちらが目についたのでちょっとだけ。

気づいたらお昼……休日に「寝だめ」をしてしまう社会人は19.5%
2017/10/7(土)11:00 マイナビ学生の窓口/ニコニコニュース

 寝溜め、したいですよね。😅
 1日寝倒したら2日はずっと起きていられるとか、できるといいなあと思います。食べる方も同様で。

 でも残念ながら人間の体はそういう風にはできていないんですよねえ…。昔、「ラクダは経済的でいいなあ」といった奴が友人にいますが(ラクダだって何日も飲まず食わずで平気っていうの、日常からやってるわけじゃないと思うけど💧)、まあ人間やってる以上は、そうはいかない。

 夜勤があったりで毎日同じ生活時間というわけにはいかない方では適用外となってしまいますが、ある程度、日常の生活時間が決まっている方であれば、休みの寝だめはむしろデメリットの方が大きいそうですね——残念ですが。

 記事中にもありますが、それなりにあるリズムが乱れてしまう、ということは自律神経も乱れて負担になってしまい、かえって疲労感が増すというのですね。

 私がお医者さんから聞いた「寝だめ」のコツは、
「同じ時間に起きること」
 でした。

 朝6時に起きるのが日常(平日)だとしたら、お休みの日は寝坊してもいい、9時10時に起きるのは構わないけれど、とにかく1度は、いつもの6時に起きるといい、とのことでした。
 いわゆる「二度寝」のオススメですね。

 習慣というのは確かにあるもので、本当は意地でも寝ていたいのに(…なんの意地やらわかりませんが/笑)ふと目が覚めて時計を見ると、いつもの時間だ、ということ、結構あります。
 ぶっ続けて寝ていたかった、と思うときもあるし、でも今日は寝ていてもいいんだと思って目を閉じるのを、なんとも言えない至福の瞬間に感じることもあります。

 ともあれ、それで1回起きろ、というのですね。

 目が覚めて時計を見て、ああそうかといって寝てしまうんじゃなく、とにかく一度、体を起こせということでした。
 これだけでも、「日常のリズム」は維持されるので、神経の乱れ等にはならない(なりにくい?)んだそうです。

 私はいつもの時間に、一度起きてトイレに行くことが多いです。あまりの眠さに、布団の上に上半身だけ起こして、ぼーっとしていることもありますが(これでも一応はOKらしい)。
 で、もうちょっと寝ていようといって布団にもぐりこむときの、あのなんとも言えない幸せ〜な感じ(笑)

 自分の「気持ち」として求めることと、でも、身体自体が求めることが一致しないというのはよくあること。
 身体からしたら例えば飲酒、例えば喫煙、例えば夜更かし、迷惑なことこのうえないでしょう。なんでそんなことすんの? と、文句の一つも言いたいかもしれません。

 でも、気持ちとしては、たまにはそういう「悪さ」もしたい、そこで発散することはストレス解消の効果も、ないことはない。
 それを無理して我慢するのは、今度は、精神衛生にはよろしくないことだったりします。

 気持ちも大事、体も大事。

 その両方を満たすことはなかなか難しいですが、ちょっとずつお互いに「譲り合って」、双方それぞれの「幸福感」を満たせるといいですよね。

 そのための「知恵」と工夫を重ねて行くのが、よーするに健康法ってことになるのかなぁ、と思ったり思わなかったり(笑)

 実際には「寝だめ」は「できない」(=効果はない)けれど、そんなふうに気持ちと体の折衷案を出しながら、心身ともに健やかになれるといいですよね。

 いわゆる三大欲求の中でも私には睡眠欲はいちばん強いもので、お腹がすいたなーと思うことがあったとしても、ほとんどの場合はそのまま寝てしまえます。
 食べる方は実質、1週間、おざなりにして過ごしたことがあるくらいなので、食べないより眠らない方がつらい、体が持たない、という感じ。

 この辺も個人差があるんでしょうね。
 睡眠欲と戦う同志(笑)の皆さま、寝だめはできないけど「二度寝」の工夫で、なんとかしのいで参りましょう。

 春眠暁を覚えずというけれど、秋も絶対、寝るには最高の季節だと思ってます……。
 まあとにかく眠れること眠れること……😴
 贅沢できるなら朝寝、昼寝、夕寝、就寝して過ごしたい(笑)
 
 
12:34  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.10.06 (Fri)

ノーベル文学賞2017

 カズオ・イシグロさんがこの度、ノーベル文学賞を受賞なさったと聞いて、昨夜はもう大興奮でした。

ノーベル文学賞
カズオ・イシグロさん 長崎出身の日系人

2017年10月5日 20時04分 毎日新聞

 昨日は夕方以降はニュース番組はもちろんネットもまともに見ていなかったので(インスタ投稿とかはしてたけど)、風呂から出た私に、母がいきなり、
「文学賞はカズオ・イシグロさんだって」
 といったときは、一瞬、は? とかたまり、次にはマジで!!?? と驚き、あとはもう狂喜乱舞の大興奮。

 ………妙なものですよねえ、ノーベル文学賞そのものに興味があるわけじゃないのに、好きな作家が受賞したと言われると、やっぱり嬉しいんですよねえ……。なんでしょうかねこういうのって😅

 ともあれダークホースというのか、例の賭けの対象には入っていなくて、いきなり賞をかっさらったということで、——なんとなく胸がすきましたねあたしゃ。簡単にいえば「ざまあ」ってやつですが、別にケンカを売る気はございません😅
 どんでん返しというか、意表をついたことになる展開自体、好きなんですね。

 カズオ・イシグロさんについては、「忘れられた巨人」が最新作になるのかな。決して多作の作家ではありませんが、1作1作、味わい深いものがあるので不足は感じません。

 昨日、不愉快に感じたのは、彼の出自の取り上げ方。
 日本人であるとかないとか、日本との繋がりとかね。まるで「日本人が受賞した」と言わんばかりの報道に、なんとなく、ムッとしておりました。

 確かに、遺伝情報で言えば日本人ではありますが、5歳で両親とともに渡英、その後帰化なさっているので、もう、彼の意識はイギリス人そのもの。
 もちろんルーツとしての日本は存在感の薄いものではないでしょうが、作品を読めばわかるはずなんですよ——この人の意識はイギリス人そのものだということが。

 日本人として近しいものを感じる「部分」はあるとしても、彼を構成するものはやはり「イギリス」なんですよね。
 読者であればそのことはとうに承知のはず。
 であるにもかかわらず、やたら「日本」を強調する日本の報道には、「気持ち悪いなーもー💢」としか思えなかったです。 

 その作品には日本の影はない。「女たちの遠い夏」ですら、外国人のみた日本という感触で、私は「出自に関係があるからって、無理に日本を絡める必要は、この作家にはないはずだ」と思ったくらいでしたよ。

 人の意識の面白さをこういうところでも感じますが、……こういうことになるとやたら「日本の誇り」みたいなことを言いたがるメディアも、そうとまでは言えないのは、まさに「ざまあ」状態。
(……どうも今日はよろしくない罵倒語が出てきてますね。すみません💧)

 どうしてこう、作品じゃなくてプライベートに近いことばっかり言うんですかねえ。ファンとしては作品自体を語ってほしいよ。
 ………といったら母が、「読んでないんじゃないの」とあっさり。

 まあね——たとえノーマークだったにしても、文化部記者なら日常、これくらい読んでてほしいのが正直なところだけど、そんなことを期待しても無駄ですかね。メディアにはね。

 今のところ、授賞理由はちゃんと聞いてないんですが、上記記事中にある、
「偉大な感情の力をもつ小説で、我々の世界とのつながりの感覚が不確かなものでしかないという、底知れない淵を明らかにした」
 と言うのは、なるほど納得、と思えます。

 原文を探したけど見つからなない……「淵」を「闇」と訳したところもあったので原文ではなんといっているかが気になりますが…。
 たぶん、ふつうだったらとてつもなく「暗い」ものを描きながら、彼の感性はそれを暗いだけでは終わらない、と言う感じがあるんですよね。
 暗いものを描きつつ、人間そのものへの信頼感をどこかで持っている、という感じ。

 明るいとかポジティブとかいう意味ではなく、深い孤独や底のない闇があることをちゃんと見て知っていて、それでも、手のひらの中に握ったものを静かに維持している——短気を起こして絶望して、それを投げ捨てるようなことはしない。

 私は、そういう感覚に強く魅了されます。

 ともあれ今回最大の驚きは、ノーベル文学賞? ふーん。みたいな態度(←ほぼ、何の権威も感じていない)の私が、受賞を聞いてきゃー!!!! と大興奮したことでした💧
 自分がここまで嬉しがるとは、それこそ考えたこともなかった。

 何でここまで喜んでんのアタシ? というのが、興奮も落ち着いてからの疑問となっております。
 モノが何であれ、好きな作家が「認められた」と思うと、嬉しいんでしょうかねえ……。いや嬉しいけど。
 候補としてすら聞いていなかった、というのも、驚きと喜びを増幅したのかもしれません。
(ご本人が、ドッキリの類かと思った、と語るくらいですから・笑)

 人の感情って、不思議なもんですよねえ……。
 自分の中に、自分も知らない自分が、まだまだいるようです。
 
  

タグ : 時事問題

11:37  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.10.05 (Thu)

前提で変わる「永遠」

 昨夜の「かりそめ天国」にて、永遠に生きられるとしたら、永遠に生きる? If you could live forever, would you? というお題が。
 
 まあほとんどの人は、即座にイエスと答えることはないだろうなと思うんですが、如何でしょう。
 健康であり、生活に何の不安もなければ、という条件が満たされればいいんじゃないか、というところが最大のイエスかなあ? どうでしょう?

 永遠に、というのも難しい概念で、私どもは実際そんなもん、見たことも触ったこともないですからねー。それがどんなものかは体験してみないとわかんない、というのが実際のところではないでしょうか。

 とは言いながら、メメントモリ(汝、死を思え)なんて箴言(しんげん)が古代からあるくらいで、私どもはどうもノーテンキに、明日も明後日もそのあともずーっと、そういう時間が自分にある、と信じ込んでいるところがあるのも事実ですよね。

 時間の概念というのも考えてみると面白い。
 今一番のお気に入りは、量子の世界で、時間なんてもんは人間が自分の都合に合わせて考え出したものであって、実際には時間なんかないんじゃないかという考え。
 実際に時間があるのではなく、そういう「概念」があるだけなんでは? という考え方ですね。ちょっと意味不明でしょう(笑) でもそういう考えを聞くの、面白いので好き♡
 
 永遠に生きたいか、というお題に戻りますと、………私はここで度々申し上げておりますように、輪廻転生というものを信じているという立場なので(宗教のアイデンティティは神道と仏教)、生きたいかも何も、魂自体は滅びないそうだから、しょーがないでしょ、と。
 ややムクれながら答えますかね😅
 輪廻転生説は、肉体は滅んでも魂自体は不滅であるという概念ですので。

 ……あー、スピリチュアルとか宗教的とかオカルト的とかそーゆー「非科学的」なことはバカにして終わりだわ、というかた、いらっしゃいましたら、ここで本日の話は終わりです(笑)
 ごきげんよう。(←美輪明宏さん風で、脳内再生していただければ幸いです)
(そういうの信じない、という『科学教信者』にはさんざんイジメられたので、すっかりひねくれているのです。ご寛恕)

 ただ、私にとってはどのみち永遠なんてもんは、呪詛に近いもので、おめでたくも幸いでも何でもない。
 極端に臆病なので、存在しているということ自体が、怖くてイヤでしょーがない——そういうところがあります。

 その永遠、肉体があってもなくても、私には大した違いではない。

 一神教も、この世界が滅んだあと、最後の審判によって良きものだけが再生し、この地上は天国になって、良き人々だけが存在するようになるという発想がありますが(興味深いことに、共産主義は宗教を否定しながら、思想としては明らかにこの終末思想を根として発生しているんですよね)………まあ、私からみると正気の沙汰ではない。

 この世という場所を、最初から「良きもの」としているからこういう話になっていくんで、前提が違う場合——天国という場所であっても、とにかく存在すること自体がイヤだという人間からしますと、あまり楽しそうにも思えませんね、「永遠の生」は。

 この世界を良きものと思うから、永遠は良きものという話になるんであって、私の場合は、その前提自体をまず全否定する。

 とある映画では、「罰」として、魂の死を——もう二度と再生されない「完全な」死を、主人公にもたらしていますが(ネタバレと叱られるのも困るので一切の詳細は伏せますね)。
 あれをみたときの私の感想は「それのドコが罰なの? 最高じゃないの」「私だったらむしろその罰を受けたい」と思いました。

 無ということすら存在しないくらいの「完全な無」が選べるなら、それがベスト——というのが私の思うところ。
 
 …なんて言ってるとドン引きされることもあります(そりゃそうですよね💦)。
 絶句してしまった相手には、「いや、どっちにしたってあくまで仮定の話でしょ」と言っておきます(笑)
 そもそも永遠なんてものが実現可能かわからない、というところでの、あくまで「思考の遊び」なんですから。
 そこで真顔になっちゃいけません(笑)
 
 でもまあ、この世にあることを「良きこと」とするのが、一般的な発想ですよねえそりゃねえ、と思って眺めておりました。

「完全な無」があるなら、これ以上の安寧はない——というのが、何かとひねくれている私の発想だというだけのこと。

 永遠を良きものとするのも、完全な無を良きものとするのも、安寧を求めるというところは共通している、ってことで、「ふーん」と言っていただければありがたいです。(^^ゞ


 さても、永遠。
 もしも「実在」するとしたら。
 それはどんな景色になるんでしょうね。
 
 
11:45  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑
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