夢よロマンよ
2017年08月14日 (月) | 編集 |
 わからない、ということも、ロマンだと思うんですよね。
 今すぐわからないと困るものなら仕方ありませんが、「人生とは何か」みたいな「わからないこと」なら、わからないなあと言ってずーっと考えていてもいいと思う。

 どうも昨今、安易に人に聞いたりネットで検索したりできるせいか、自分でまず考えるよりは、「正解」を出せ、とすぐにイライラし始める人があるようです。

 まあ、NHKさんのあさイチとか、民放のバラエティ等の番組でも、別にクイズ形式にしなくてもいいのにいちいちクイズにしたり、CMを挟んでCM前にやったことを繰り返し流して、ただ時間を稼いでいるだけなんでは? と疑いたくなるようなものもあって、私もあれは結構いらっときますが。

 これはどういうことなんだろう、どんな意味なんだろう、というのを、自分なりにひっくり返しひっくり返し考えるのは好き。

 それだけに、映画や本の「意味するところ」がわからない、と言ってイラつく人を見ると、わからなくてもいいじゃないですか、今は。——と思います。

 わからないことが「気持ち悪い」「気分が悪い」、というの、わからなくもないですが、結論は必ず今すぐ入手できなくても「困らない」ものなら、わからないものとして、持っていてもいい。

 今はたいていのことならネット検索で「わからないこと」についての情報を得られるせいか、たまに、どこにも参考になりそうなものがないとわかると、「え、なんで?」と戸惑うほどになりました。(^^;)
 この点について、なかば反省しているエッセイ、コラムを見ることもあります。
 わかるわー、なんだかすっかり「便利」が当たり前になってるよねー、と思ったり(笑)

 それに、ネット検索で出て来た情報が「正解」とも限らない。
 料理で言えば情報は「食材」みたいなもの。鮮度はどうか、ちゃんとした品なのか、出どころは確かか、と言った吟味や、その食材で何を作るかってことは、自分がやること。

 AIはレシピの紹介やメニューの「提案」はしてくれるでしょうが、「私は今日、何を食べたいか」は教えてくれない。
 当たり前じゃんというなかれ。「何か楽しいことない?」と他人に聞く人って結構いますが、その質問の意味は、「私は何が食べたいんだと思う?」ってことなんで。
 知らんがな(笑)
 でも、いつのまにかそんな感覚になってることがあるよ、ってことです。

 何でもかんでも、その場ですぐにわかる、正解が手に入る、それができないと「不安」になる、というのは、どれほど情報化が進もうと、それは違う、と思います。

 私も生来、気が短く、単細胞ですから白黒はっきりしないことは苦手で、いつまでーもグレイのままのものがあると、もう自分で真っ黒に塗ってでも「決着」つけるようなところがあるので、「わからない」「正解が見つからない」ことに苛立つ気持ちも、わかります。

 でもそのわからないが、別に誰にも害はないものであり、急ぎのものでもないのなら、「わからない」という箱に入れて、そのまま保留にしていてもいいんじゃないでしょうか。
 その保留箱からときどき取り出して、あれはどういうことだろう、と考えたり、あとからまた参考になりそうな、関連のありそうな情報を見つけたら、照らし合わせつつまとめておいて、また箱へ戻す……というのも、楽しみになるように思います。

 映画「君の名は」を、小学生が見てわかるだろうか、と聞かれた時、わかるとこだけ分かってりゃいいんで、成長途中で、ああそうかとわかる日は来るだろうから大丈夫、と答えました。

 何もかもをわかる必要はない。
 わかんないなあ、と言って持っているのも楽しいもんですよ。

 昔読んでも意味がサッパリだった本が、数年後に再読したら何を言っているかを理解できた、なんてときには自分で自分の成長もわかるし、どこがどう成長したかもわかるし。

 エミリー・ブロンテの「嵐が丘」、14歳の時に初読、意味わかんないけど迫力に圧倒され魅了され、でもなぜ魅了されるかがわからず、登場人物が何を言っているかさえわからない、というところから、自分なりに「読み切れた」と感じる間に、十二支が一周しましたね。
 作者が本作を書いた時と同じ年齢になっていて、年齢によるものもあるのかなあ(時代が全然違うけど)と思ったことを思い出します。

 幼稚園から小学生の頃、熱愛していた「海のトリトン」、社会人になってからビデオ全巻大人買いして見た時、そりゃー子供にこんなもん(失言)わかるわけないわ〜と思いました。
 でも、わからないながらに心惹かれ感動していたってことが、大事だったんだなあとも納得。

 わからないことを、そのまま持っていくのも、「ロマン」だと思いますね。

 自分でそうかと分かったことは、ちょっとやそっとじゃ揺らがないような、頑丈な「根」になってもくれますし。

 仏典の、やはり「空(くう)」を説明した、「ミリンダ王の問い」、そうか、と理解するのに10年かかりましたが、おかげさまで、量子宇宙論に、なんとなくでもついていけるようになりました(笑)
(その二つになんの関係が? と言われそうですが、量子の概念はまさしく空の概念)
(まだ量子論が新しいものだったとき、従来の物理学者の中に、かえって、量子論を理解しない人があったと聞いたときは、無理もないと思いました。「物質」の概念が全然違うから、既存の概念に縛られていたらまずイメージできないと思われます)

 わからないことはロマンであり、自分がなんでも知っているような勘違いをする、のぼせ上がるのを防いでくれる要素であるようにも思います。

 ということでUFOでもUMAでもネッシーでもなんでも、実在、非実在を問わずムキになって追跡し証明しようとする人を見ると、ロマンがないのう、と思ったり(笑)
 あくまでも余裕を持って、いるかいないかを「楽しむ」のは面白くていいと思いますが、いるにしろ、いないにしろ、絶対確実にしてやろうという態度は、ちょっとオトナげない気がする。

 わかんないよねえ、不思議だよねえ、というものを、ちょっとくらいは持っている方が、この世も楽しくなるんじゃないでしょうか。

 ……なんていうのも、怪談聞くのが好きなどという、ヘンタイの言い訳か自己弁護かもしれない(笑)
  
 
聖と卑は同じ
2017年08月11日 (金) | 編集 |
 本日、山の日で祝日でございます。
 が、私にとっては今日から3日間、東京ビッグサイトにおきまして開催されます「コミックマーケット92」の方が重大事。
 ということで、明日は私も「祭典」参加のため、こちら、お休み致します。m(_ _)m

 会場からツイートはしているかもしれません……が、現場に行ってしまうと意外と時間が取れなかったりするんですよね…。RTは簡単ですが。

 また明後日、8月13日にお目にかかります。m(_ _)m

        ●


 二村ヒトシさんについては、「名言」ツイートでお名前、ご著書はお見かけしていたのですが、本をちゃんと読んだことはなくて。

 ツイッターアカウント(https://twitter.com/nimurahitoshi?lang=ja)もお持ちなので、ちょっと拝見しましたが、なかなか興味深い。
「なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」からの引用でしたが、結局、自分で自分の幸せを否定していたり、人に愛されることを怖がって拒否している、という心理状態が(無意識のうちに)あり、それがために「愛してなどくれない人」を、わざわざ自分で選んでいる、というご指摘でした。

 これは全くそのとおり。本人の表面的意識はそんな自覚はないでしょうけど、いわゆる「だめんずウォーカー」はこの典型と言えます。

 それはともかく。
 ツイート主さまは、二村さんと信田さよ子さん(心理学者、臨床心理士)の対談中の言葉にいたく感動なさってのツイートですね。ぜひこの部分を読んでくれ、と。

 ツイートを表示できないこともあるかと思いますので、その部分、抜書きいたしますね。

二村 女性の中には、菩薩とか母性じゃないけど「揺るぎないもの」があるような気がしていて……。
信田 ストレートに言ってください。
二村 すみません。女性がしっかりしていてくれれば、男がその女性に恋をしても女も狂わないし、というか、男に狂わされている場合じゃなくて、女は男とか恋愛に対しては、どっしり構えていてほしくて。男が女に右往左往させられているほうがいいのになって。
信田 わかった、わかりました。
二村 女を美化しすぎですかね。
信田 美化じゃないですよ、バカにしてるんですよ。「女性は人間じゃない」ってことの裏返しの表現。自分を美化しているんですよ。
二村 女を崇めてるんじゃなくて、むしろ自分を安全圏において自分を崇めてる?
信田 「菩薩」っていい表現に聞こえるけど、実際には「女性には頭脳がない」ってことを言ってるんですよ。





 私もこれを読んで、ヘーエ、と思ったのは、ここまで聞きかじりよりも頼りない状態とは言え、二村さんのご発言から、もう少し「わかっている」人なのかと思っていたので——、女性に「こうであってほしい」というその願望を聞いて、あら意外、と。

 頭か何かでわかっている、というのと、もっと深い場所にある欲動は別のものだということかもしれませんね。

 このツイートについたレスに、「菩薩=バカにしている、というのがわからない」というのがありまして。
 そうですか、わかりませんか…と思ったのでちょっと私も考えてみました。

 菩薩というの、確かに一見、崇めているようではありますが(そういう感情もないことはないんでしょう)、その菩薩に、人間らしいイメージはあるのか? ってことですね。
 男尊女卑思想では、女性にはおよそ人間性など認められていません。女性にも感情があり、痛覚もあるということを、まるっきり無視しているのが男尊女卑。なんせ「卑」ですから、少なくとも自分と「同等」ではない。

 菩薩もまた、人間のイメージではないはずです。
 これは、芸能人、アイドルなどと、そのファンの関係と同じ。そう言えばイメージしやすいかな?

 ファンはときに、好きな芸能人やアイドルが恋愛したと聞いただけで文字通り「発狂」しますが、あれは、対象となる人を、トイレにもいかず飯も食わない、ただひたすらに美しく輝かしく、自分の思い描く美しい「像」として、崇めているんですね。
 けれども、わずかでもその「像」から外れると(そりゃトイレくらい行くでしょうよ誰だって、というレベルのことでも)たちまち、その「愛」は逆回転を始め、信じられないくらいの憎悪になる。

 つまりは、「信仰」もまた、対象を人間扱いしていないわけです。

 歴史の中でも心理学の世界でも、この「聖」と「俗/卑」の関連性はよく言われることでして。
 表現は全く正反対ですが、根は同じ。「本質」は同じ。

 二村さんはそういうあたり、すでにご承知のはずと(もんのすんごく漠然と)思っていたので、あら意外、となったわけですね。(^^;)

 2014年にお亡くなりになりましたが、作家の渡辺淳一さん、その作品に、ものすごい勢いで反発していた女性たちを思い出します。
 渡辺作品の女性像もまた、現実の、生身の女ではない、渡辺淳一さんの思い描く願望の女性像ですね。
 しかし、その像に対する反発が、私もびっくりするくらいのものがあり——あのとき、世の女性は、自分が誰かの願望のもとに自分の姿を歪められている、現実ではなく誰かの願望の中に「閉じ込められている」と感じ、怒りを溜め込んでいるんだなあ、と思いました。

 ただ。
 
 私としてはこういう話、あんまり、男女差別の話にはしたくないんですよねえ……。

 女性の側にも、それこそ私などはビビるくらいのもんのすごい願望「像」があるし、男性を求めているようでいて、実際には「現実の」「生身の」「人間」ではない何かを求めているだけ、ということは少なからずある。

 私はかなり露骨な男嫌いですが、女嫌いの男性の気持ちは、じつは、結構わかります;;
 主張されることそれ自体が問題じゃなくて、その「感情」「気持ち」の部分ではまったく同じなんですよね。
 
 こういう話になると意外と私が困ったように黙り込むのは、そういうわけで、「問題なのは、実際には、性別ではない」ことがわかっているから。

 二村さんのその願望も、それは彼が男性だからそういう形をとっているだけで、もし二村さんが女性なら、やはり「男性を人間扱いしない」願望を持つはずです。

 問題は性別ではない。それは「表現方法」の違いでしかない。
 問題の本質は、——二村さんがご自分で書いていらっしゃるとおり、自分自身をきちんと愛していない、というところにある。

 背中が痛い、と言って湿布を貼ったりマッサージに行ったりするけどいっこうに良くならない。
 ……と思っていたらじつは狭心症の発作が起きていた、みたいなものです。

 痛みがある局所にばかり気を取られていては、心臓病という重大な病気を見逃してしまう。

 私にはどうしても、この種の「議論」は、背中が痛いからって湿布を貼って、マッサージして、整形外科へ行って、でも、どれも全然効果がない、とぼやいているようにしか見えないんですよね。

 背中が痛いと言っても、なぜ左側だけが痛むのか、ちっとも治らないのはなぜか、と、そういうことにちゃんと目を向けていると思われた人さえ、じつは本質を見ていなかった、というのが私には意外でした。

 菩薩と「バカにしている」の関係性も、もう少し理解されるといいな。

 私が、何のファンになるにしろ、どうしても頭の隅っこに冷たい氷の塊を置いてしまうのは、「カリスマに熱狂するのは、奴隷を虐待することと同じ」という認識があるから。

 それが誰であれ、生身の人間を「信仰」する「趣味」はない、とたびたび私が申しますのは、こういう理由によります。

 でもこういう態度の奴って、消費経済にはあんまり貢献しない傾向があるんで、それは申し訳ないなと思うんですが(笑)
  
 
本日、茶飲み話
2017年08月10日 (木) | 編集 |
 明日は山の日で祝日となっております。
 明日からそのままお盆休業に突入する会社も多いですね〜。ということでうちもその煽りを受けて先週からドタバタ続きでしたが、それも幸い昨日まででなんとかなりまして……、今日は、また厄介ごとが持ち込まれない限りはのんびりできそうです。

 休み前に片付けておきたい、という、あの心理もけっこうなトラップですよね…。
 冷静に考えるとべつに休み明けでもまっっったく! 問題ないのに、ただ「気分」的なものだけで、休みに入る前に片付けて、返事して、これ寄越して、ということに。

 やれやれです。(^^;)

        ●

 今日はのんびり茶飲み話。
 
 民法によれば、配偶者が死亡した場合も、名乗る姓を旧姓に戻せるんだそうですね。

 私の父が身まかりましてもうじき7年。
 うちの母も、そういうわけで考えてみれば花の独身でございます。

 まあ、再婚するかどうかはともかく可能なんだし、彼氏がいたっていいんじゃないの、誰かいないの? と申しましたら、……いや驚きましたねえ、そういうの嫌がるかと思いきや、ちょっと心に秘めたお方はあったらしい。( *´艸`)ウフフ♪

 べつに恋愛どーたらってことではないそうですが、その昔、ずいぶん気もあう、いい人がいたんだそうです。
 母は若い頃には登山をよくしていましたが、その登山仲間のお一人ですね。私もお名前は聞いたことがあります。

 ただし。
「え、……山木さん(仮名)って……、ずいぶん前に…」
「そう、交通事故で死んじゃった人ね。覚えてた?」
「覚えてるよ、私がまだ中学生くらいだったんだから…(亡くなった時には)まだ若かったんだねえ…」

 他にもちょっと思いつく人はあるそうですが、あいにく、どなたもこなたも鬼籍の人だという。
 70代、男性だってお元気な方はお元気ですが、そうは言っても、やはりこのへんで同年齢だと、男女の平均寿命の差がくっきり感じられるというかなんというか;;

「あー、そりゃ残念でしたねえ…」
「ねえ。男の人もやっぱり健康には気をつけてほしいよ」

 ……実感こもってますね母上。(^^;)

 まあそういうわけですので、現在お若い世代から、健康には気を配っていただいて、男性の平均(健康)寿命も延びていただけるとよろしいかと。

 個人的には、配偶者死亡で旧姓に戻しても構わない、というのは思いつかなかったことで——、ああそれも可能なのか、と思いました。
 実際にはそれで旧姓に戻す人もあんまりないかなとは思いますが。

 以前、井戸端会議的に喋っているとき、どうもその人自身の「イメージ」には、旧姓の方がしっくりくるね、という話になりました。
 私どもの付き合いは、〇〇ちゃんのママ、何々さんの奥さんとしてではない、趣味の仲間(有り体にいえばオタク)同士の集まりなんで、「その人個人」が前面に出てくる感じですかね。

 私自身は独り身なので旦那さんを介したおつきあいとか子供を介したおつきあいというのは経験がない。ので、そういう付き合いのときと、個人同士、仲間同士、という付き合いのときとで、それほど変わるかどうかも、正直なところ、わからないのですが。

 なんの話がきっかけだったか、集まったうちの一人について旧姓は何々、と言われ、なんだかそっちの方がイメージに「合う」なあ、という話になり。
 それぞれが旧姓を名乗り合ってみたら、どうも旧姓の方がその人の個性には「しっくりくる」気がする、という人の方が多かった(集まった人数はその時は15人ほど)。

 この話には深い意味はありませんので、どうぞ気楽に聞き流してください。夫婦同姓か別姓かってことじゃないし、夫婦円満ではないからとか何か不満があるとか、そういうことでも全くありません(笑)

 人の名前もまた強力な「言霊(ことだま)」だという、無意識の「信仰」が、影響しているのかもしれませんね。

 私もその後、付き合いが始まった時点で既に既婚者だったかたの場合、旧姓があるなら、その旧姓を聞いてみてお名前と合わせて、口に出してみると、なんとなくイメージが「くっきりする」なあ、と思うことが結構あって、面白いもんだ、と思ったり。

 もっとも強い「呪(しゅ)」は、人の名前である——とは、岡野玲子さんの「陰陽師」に出てきますね。じっさい、その昔は女性の本名は他人に明かされることはなかったわけで、そういう「ことだま」の力は今も生きているとも、言えるのかもしれません。


 今日のところは、本当にどーでもいい雑談でございました。(^^)


(えっ。kindle 版、0円…?!)
 
  
世界陸上
2017年08月09日 (水) | 編集 |
 見よう見ようと思っていても、今年はついつい見逃している「世界陸上」。
 それでも主だったところのニュースは耳に入ってくるもんですね。
 今大会をもってご引退と言われる、ウサイン・ボルト選手まわりのことは特に。

男子100m王者ガトリンの扱いは「無慈悲」、代理人が国際陸連に激怒
2017年8月9日 10時5分 AFPBB News

 ドーピング違反で出場停止処分を受けていたガトリン選手ですが、まあいろいろあって処分の期間も短縮されて、2010年に競技復帰。

 この大会もとにかく観衆からブーイングを食い続けていたというのは私は気の毒に思いますし、男子100mでは、ボルト選手に勝ったからって尚更ひどいブーイングを浴びたそうで。
 その上、国際陸上競技連盟(IAAF)のセバスチャン・コー(Sebastian Coe)会長がまたなんだか言ったそうですね。

 これは英語で聞くとニュアンスが違うのかもしれませんが、日本語での伝聞では会長は、ガトリン選手の優勝、金メダル獲得について「完璧な筋書きではない」とコメントしたとあります。
 これを聞いたときに思ったのは
「つまりなんですか? 『筋書き』は常に用意されており、あなた方はその筋書きをコントロールすることがかなりあるということですか?」
 有り体に言えば、ルールづくりやその運用において、かなり小細工や「仕掛け」をしてるんじゃないの? という疑惑を覚えた次第。

 そのコー会長さんてどんな人なの、と思ったら、イギリス人で、元陸上選手、政治家、とのことで。
 へーえ。ふーん。

 私はいろいろありましてスポーツマンシップなんて鼻毛の先端ほどにも信じてないし、国際スポーツにおける「政治」なんてド最低だという偏見をもっているので、この会長さんのお言葉の方にかなりピリピリと反応してしまいます。(^^;)

 ドーピングについてもあんまり、白黒はっきり言えるものではないと思ってますし。
 もう相当昔から、オリンピックではドーピングしないでは勝てない、と聞いてましたしね。見つかった選手がむしろ「運が悪い」という感じで同情することもあります。

 また、この薬物反応というのは難しいところがありまして——風邪薬でもその「成分」が引っかかることがある。ドーピングを避けようと思うと市販の風邪薬すら飲めない、というのは、いいことではないように思います。

 それに、ガトリン選手の場合はそのクスリも、(自身の主張によれば)注意欠陥障害の治療薬が原因とのこと。
 陸上競技をしたかったら、注意欠陥障害の治療を「するな」と、そこまでいうんでしょうかね国際陸連は。

 もっと気に入らないのは、処分を科し、その処分を終えた人に対する態度なのかこれが? ということ。
 これは会長のみならず、ロンドンにおいでの観衆に向けてこそ、問いたいことではありますが。
 コー会長さんがものの見方に偏りがある人だとしても、こういう発言をする気になったのは、観衆の態度を見ることで「助長」されたんじゃないかと私は勘ぐっておりますが如何。

 ちなみに。

 ボルト選手の引退を惜しむ気持ちはわかりますが、彼に勝ったからってブーイング、というのはどういう考えなんでしょうね?
 わざと負けろ、ってこと?
 ボルトさんも衰えましたよね、お気の毒ですよね、今までずっと英雄できたんだから、つって、英雄に敬意を表してわざと負ける方が良かったってこと?
 あのウサイン・ボルト選手に、「お情けで」金メダルを「あげる」べきだと?

 わざと負けるとしたら、私はそちらの方がずいぶん、ボルト選手に対して敬意にかけた、というより「バカにしている」態度だと思うんですけどね。

 どうもこんなゴタゴタを聞かされると、もともとスポーツマンシップをいう「嘘つき」が嫌い、という感覚があるだけに、なんのためにこんなことやってんの? と言いたくもなりますね。馬鹿らしい。

 ただ選手たちはそれぞれ一生懸命やってる、それだけは間違いのないところ。
 観衆なんてただの「部外者」ですよ。……どうも私はこういう「勘違い」には、態度が厳しくなってしまいます。(^^;)
 
 選手たちがそれぞれに精一杯、競技に没頭できるように。そう願います。

 ただいま私も夜更かしができなくて、なかなかリアルタイムでは見られないのが残念ですけども。
 
 
「べき」論の裏側
2017年08月08日 (火) | 編集 |
 元はこちらのお話から。


 つまり「だらしなくない妻」たるには、きれいにアイロンがけすること、弁当はきっちり作ること(こういうことを言う人は冷食利用なんて弁当のうちにカウントしないと思われる)、ご夫君の革靴はピカピカに磨くものである、と言う主張ですね。
 一体いつの時代の認識だよ、と言うのは、よくわかります。

 この手のことはよく聞くことで、この過酷な現代社会において子育てに奮闘する人、あるいはロールモデルを持たないまま、「女性の社会進出」なんてもんを肩に載せられたちゃって、自分の業務以外のところでまで悩める人が、愚痴の一つも言いたくなるのはそりゃ当然なんで、そう言う愚痴も、そうかそうかと聞いてあげればいいのに、
「私らの若い頃はあーだったこーだった」」
「今の若い人は(以下セッキョー)」
 となる。

 私も最初のうち、ことに、なんだそりゃと思ったのは、なぜかこういうことを言う人たちは、ミョーにエラそうなんですよね。上から目線てんですか、たいそう居丈高にものを言う。

 いたわりの態度も見せず、だからと言ってアドバイスをするわけでもなく(とはいえ時代も状況も違う人にやたらアドバイスされても困るだけ、というのも多いんですが;;)、むしろ相手を威嚇し、けなす、というのはどういう了見か。

 ………と、私も昔には思っていたんですが、途中で気がついたのは、
「よーするに自慢なんだわこれ」
 ってことでした。

 自分たちがした苦労、泣いたこと、耐えたこと、そういうことを自分は「立派に」果たしてきたぞ、という、自慢であり、同時に、「認めろ讃えろ、さあ褒めろ」という欲求でもある。

 なるほどねえ……、とわかって以後は、私も、スルーできるようになりました(笑)



 元に引用させていただきましたツイートではまずは女性同士のすれ違いを取り上げていますが、でも、他人に、〇〇たるものは〇〇であるべし、〇〇すべし、と押し付け、それができないと人間失格のようにいう人というのは、そりゃもうそこら中にいますから、私としてはもーちょっと範囲を広げて「一般化」して眺めてみたい。

 〇〇すべしという人は、それが「当たり前」「常識」という認識でもあるわけですが、でも、何を常識とするかは実際は、かなり各人で異なるものです。
 生まれ育ちのこともあるし、現在の生活状況もあるし、その他もろもろ、個々人で異なる条件下にあるわけですから、これが常識、これ以外は人間失格なんていえるものではないんですよね。

 それに、私がとにかく気になったのは「なんでそうエラそうなの?」ってことでした。
 どーみても相手の立場に立つとか相手の身になって考えている発言ではない。無用に居丈高(いたけだか)な態度には、どんな「理由」または「目的」があるのか? と考えていて。

 で、得られた結論は、上記の通り、「自分はそういうことができる」「ちゃんとやってる」という、自慢なり自負なりであり、無関係の他人にわざわざそんなことを披露するのは「褒めて欲しいから」。

 相手に自分と同じことをせよと言っているというよりは、「そういうことがちゃんとできている自分、えらい」と言いたいのであり、さらに、それを他人からも、すごいですね偉いですねと言われたいんですね。心のどこかで。

 多分、あなたは自慢したいんですね褒めて欲しいんですねなんて言ったら張っ倒されるでしょうから、私も言いませんが。(^^;)

 強いていうなら考えられることはもう一つあって、自分のやっていることにいまいち自信がないとき、「自分と同じ」人を見ると安心する、自分だけじゃない、と思い、自分は間違ってない、と思ってほっとするわけですが、そういうものを求めている、というパターンも考えられますね。

 まあなんにしろ、その目的は「自分」であり、現在なんらかの問題に直面して苦闘している誰か、に、意識が向いているわけじゃない。
 
 なるほどねえ、と思って以来、私も「そーですかー」でスルーすることにしました。

 まあ、一番親切な態度は、「〇〇たるものは〇〇すべきである」と言われたら、「それじゃあご自分は〇〇なさるんですか」と水を向け、ここぞとばかりに「自分はちゃんとやってる(やってきた)」と胸を張ったら、「素晴らしいですね」と褒めてあげることなんですが。

 あいにく私もそこまでベタ甘な性格はしていないので、まあ、「そーですかー(にっこり)」くらいでスルー。
 〇〇すべき、と押し付けられるのはうっとーしーのですが、それでも、その〇〇ということができている、自分に課したことをちゃんとこなしている、ということ自体は、そりゃ立派なことです。それを否定することもないのです。

 だから、褒めもせず、反発もせず、そうですか(にっこり)で終わらせるのがよろしかろう、と思っております。
 この「そうですか」は意訳すれば「へー」くらいの意味しかありません。でも、「誰かの立派さ」を否定もしていない。
 これくらいでいいんじゃないかな、と。

 ただ、その押し付けを、口先ばかりのことではなく、なんらかの拘束や「実力」で実現させようとするなら、これはもうこちらのテリトリーを侵害されることですから、それなりの対応は必要ですね。
 でもそういうこともあんまりないので……、と言える私は、やはり呑気で恵まれているのでしょうね。

 いちばんいいのは、こんな風にこじれる前に、もっと日常的に、誰かから認めてもらったり褒めてもらえる機会があることだと思うので。
 やっぱり、人を褒める、って大事だなあとも、思います。

 ありがとうと並んで、褒める、ということは、それがどんなに小さいことでもいいので、心がけたいと思います。
 何かを当たり前だと思い込んで感謝しないのも、やっぱり、傲慢な態度なんでしょう。そう思うので。
 
 
夏の恵方巻き
2017年08月07日 (月) | 編集 |
 本日は、二十四節気のひとつ、立秋でございます。
 今日からもうご挨拶は「残暑見舞い」になるんですねー。(^^;)

 他の暦もそうだけど、このクソ暑い最中に、なんで「秋の訪れ」だよ! と、暑さが苦手の方の中にはキレ気味の人もいるようですが(心中、お察しいたします。私は寒いのが苦手なので立春の時にそれをやってます)、この暦は日本で誕生したものではなくて、「からわたり」、シナの黄河流域の気候によって成立したものなので、日本の季節とはズレがあるのはしょーがないみたいです。

 実は今年は梅雨明け宣言があってもスカッとした夏の雰囲気がなく、「本当の」梅雨明けはいつなんだーと言っているうちに今回の大型台風5号が来ているということで……夏がないまま、秋が来る気がしてます;;

 私は暑いのは割と平気ですが、湿気に弱いのです;; 暑いのはいい。でもこのジメジメがあるうちは夏という気がしない。
 ジメジメは蒸し暑いというのとも厳密には違う、……などと言ってもちょっと通じないかな;; 皮膚感覚の話だしな;;

 立春、立夏、立秋、立冬の、それぞれの前にある18日間の「土用」。今年はこの夏の土用は丑の日が2回ありました。うなぎを2回とも召し上がったという方も多かったでしょうか。
 本来は土用丑の日に「う」がつく食べ物を食べる、というのですが、これも考えてみると面白い風習ですね。

 土用の間にはそういうわけであれこれ食べ物についての習慣がありますが、肝心の立秋の日はどうなのかというと……べつに決まりはないようで。ナンダツマンナイ。(^^;) 

 季節の行事には、ダジャレや縁起担ぎ、語呂合わせとは言え、何かしら食べるものが絡んでくることが多い。
 なぜかそういうことに文句を言う人もいますが(………なんの文句なのかは謎だ…)、私としては食べることは楽しみになる。
 食べもので季節感を味わうのも、「イベント」の楽しみの一つです。(*^_^*)

 立春のときには「節分」だ〜と言って盛り上がるのに、立秋って、そういう意味では影が薄いですよねえ…。
 挨拶文が暑中見舞いから残暑見舞いに変わるということがなかったら、そのままなんの認識もされずにスルーされるだけ、という気がする;;
 暑さか。暑さが悪いのかこれ;; 暑くてみんな頭がぼーっとするからそれどころじゃないとか?

 そう。今日が立秋なら昨日は節分だったのですよ…節分は2月にあるだけじゃないんですよ…。季節の変わり目って意味なので、あれ。

 立秋で何か目立つことないのかな。特に食べ物で。
 ——と思ったのは私だけではないようで、今年はとうとう、「夏の恵方巻き」が登場したそう。

news_20170720201507-thumb-645xauto-117300.jpg

 最初に聞いたときはひっくり返って大笑いしてしまいました。
 恵方は1年の間変わりませんから、あんまりこう…、なんというか、目新しい感じもめでたい感じもしないんですけど。無理やりきたなコンビニ業界! と思って大笑い。

「夏の恵方巻き」は定着できるか コンビニ各社が熱をあげるのはナゼ
2017/7/23 11:00 J-CAST

 私はふだん、あまりコンビニには立ち寄らないのでわかりませんでしたが、日常的に利用なさる方、恵方巻きってどの程度、推されてました? あんまり販促もなかったという印象ですが、店頭ではそうでもなかったかな。

 恵方巻きがいろんな陰謀の果てにあると知りつつも定着したのは、「今晩の夕食メニュー」に悩む人々からの支持が得られたからだと私は思っておりますが——どうでしょうか、ローソンさんは年4回の恵方巻きで行くとのことですが、これ、定着するかな?

 季節行事をバカにする向きもありますが、季節季節のけじめをつけたり、季節を意識して、食べることで「新しい季節を取り入れる」のも、また新陳代謝を促すことなので私としてはオススメなんですが、——恵方巻きはどうなるでしょうか。

 逆に年4回が定着すると、2月節分の「新年おめでとう」気分が薄らいじゃうかな、どうかな…、ちょっと面白そうです。

 私としては、美味しいものは1年中いつでも大歓迎、ってことで。(●´ω`●)
 
 
幽霊差別
2017年08月06日 (日) | 編集 |
 どうも基本的には呑気なたちで、昨日も出かけた先で
「お盆ですね♡ 怪談シーズンですね♡ 怪談好きで♡」
 と、馬鹿面さげて喋っていたら、
「え、もしかして、『見えちゃう』人ですか?」
 と聞かれてしまいました……。( ̄▽ ̄;)

 いいえ全然。

 動物的な勘のようなものはありますが、いわゆる霊感はなく、見えてしまうということはありません。
 たぶん本当に見えてしまう人たちは怪談なんかうんざりじゃないですかね……、私にとっては怪談は「非日常」だから面白がれるので、あれが日常、またはそれに近い人にとっては、なんでそんなもんにわざわざ触らにゃならん、というところじゃないでしょうか。

 その昔、友人(♀)が住んでいたアパート、「出る」のは確実で、誰が泊まってもそれぞれがなんとなくゾッとしていたのに、私は何も感じなくて、平気でぐーぐー熟睡してましたから。
 ただ、誰が泊まってもゾッとするポイントである台所だけは、私もちょっとだけ、あれ? と思うことはありました。でもそれだけ。(もちろんその時点では、台所がポイントだとは知りませんでした)

 あそこでぐーぐー寝るなんてあんた凄いねと言われましたが、いちばん凄いのは、出ると承知で住み続けたその友人でしょうよ、と。(^^;)
 だいぶ時間が経ってから、その住人である友人に、じつは出るのよと教えられましたが、友人が言うには、別に出るからといって何があるわけでもないから、とのことでした。

 でしょうねえ。私も、危険性をまったく感じないから熟睡していたと言う気がする。
 逆に、遠目で見ただけで「ダメだここは…!」と震え上り、近づくことさえせずに逃げ帰った場所もあります。

 私の場合は霊感ではなく、「自分の身にとって危険か、そうでないか」、というカンがあるみたいです。

 ちなみに遠目に見ただけで震え上がったのは、イタリアはローマにある、サンタンジェロ城です;;
 当時はまったく不勉強の身で、それがどんな場所でどんな歴史が刻まれてるかなどまったく知りませんでしたが、「これはヤバイ」と思って逃げ帰りました。ただのカンですから根拠はありません。

 あと、私はまったく気が進まなかったのはローマの骸骨寺(サンタマリア・デッラ・コンチェツィオーネ Santa Maria della Concezione)。
 ここもちょっと面白くて、同行の弟がやたら行きたがるので仕方なく付いていったんですが、何度行こうとしても、どうしても辿り着けない。
 通常ではちょっと考えられない事態なので、「これはもう行くなということだと思うよ」と弟に告げたうえ、じゃあもう1回だけ、というのでトライして見ましたが。
 今までとは違う通路があったので今度こそ行けるのかと思ったら、静かな礼拝堂へたどり着きました。

 雰囲気が良くて、ああここならいいんじゃない、と思いました。
 どなたなのかは存じませんが、異邦人、異教徒がやたらに立ち入っていいところではない、という「お知らせ」をくださっているのではないか、と思いました。
 さすがの弟もあきらめ顔になったので、お喜捨をして(……カソリックではなんていうんでしょうかね)、どうもお邪魔しました、とご挨拶して帰ってきまして。

 霊感はありませんが、そういうわけで——危険は避けること、恐れを持つこと、無礼に禁を犯さないこと、というあたりを心がけてやってます。

 実際、自分が、すでにこの世ならぬものを見たことはあるのか、とも聞かれますが——、ありますね。
 霊感はないけど、何かの事故のようにして見聞きしたことは何度かあります。

 でも、こういう話をするときにはよく私もいうんですけど、「死んだ人だからって差別すんな」というのが私の考えです。
 死後の存在などないと目を三角にする人も苦手だけど、他者への敬意を持たず、心霊スポットと呼ばれる場所へ面白がって行くような人も私は苦手。
 今生きている人間もいずれは死ぬのに、なんなのその差別意識。——と思うんですよね。

 いつぞやはツイッターで「幽霊は基本、しろうとですから」という発言があった由、見かけて大笑いしていたのですが、でもまあ、そんな感じ。
 ほとんどの存在は、私どもが日常、街ですれ違う人と同じ。そう思います。


 お盆の8月14日、15日は、NHKさんで「超入門! 落語 THE MOVIE」がございます。
 これは落語を語りつつ、映像を合わせて行くという趣向がなかなか面白い。噺を聞くだけではちょっと退屈に感じてしまうという方にはオススメしたい。

・「超入門! 落語 THE MOVIE」
http://www4.nhk.or.jp/rakumov/

 こちらで、14日に古典落語「死神/茄子娘」、15日に「化物使い」があるとのこと。

 落語ですから本気で怖いことはありません。番町皿屋敷も大笑いにしてしまう落語ですからそのあたりはご心配なく、興味おありでしたらどうぞ。

「死神」は基本的には怖くはないんだけど、最後のオチ(サゲ)がね……、あれをどう演じ解釈するかで、怖さが変わってくる気がする。
 私の結論は、「やっぱり生きてる人間の方が悪いよ」ってことで。