そういう問題じゃないこと
2017年06月29日 (木) | 編集 |


 元の話題は、「物理学では、単位が異なるもの同士を足したり引いたりしない」というルールがある、というお話ですね。
 ツイ主さまによれば、「8cm−5人、とか意味わかんないでしょ?」、つまり例えるなら「これは仕事と私どっちが大事って聞く彼女と同じ」だ、とのこと。
 
 科学の考え方では異なる単位のものをごっちゃに混ぜないことは当たり前だけれど、これがことば、文字のことになると、そういうことを平気でやっちゃうんだよね、というお話。
 前後のツイートから察しますに、たぶん、ある話題に対して論理として成立しないリプ(いわゆるクソリプ)をした人についてのツイートのようです。

 ですが。こちらのツイート、ちょっと開いて見てリプ欄をご覧いただけるとまた面白いと思うんですが、「仕事と私どっちが大事」という問いかけについてのご意見が集まっているんですね。なかなか面白い(笑)
 それだけこのセリフか同種の「行き違い」に悩む人は多いんだろうなあ、と思いまして。

「仕事と私」の比較が「異なる単位同士の(無理な)計算なのか」という考察も面白いんですが、私としましては
「論理破綻になるのも無理はない。本当に言いたいことはそーゆーことじゃないもんね、大抵」
 と思いまして。

 ちなみにこれ、元のツイートではこのセリフを言うのを「彼女」だと想定していますが、おかげさまで女性もふつーに仕事をするようになっております昨今、これを言う「彼氏」さんもそれなりにいる、と言うことは小さく書き添えておきたいと思います。
 つまるところ、感情の行き違いには性差はないということ。思わずそう言ってしまう彼氏さんの数は今後は増えていくかもしれませんね。



 実際の言動や行動は、その人本来の目的に適(かな)っているとは限らない。
 特に、感情というのは本人も正しく「理解」していないことが多い。
 感情は人にとっては大事な「信号」ですが、この信号、見方や扱い方を間違えると深刻な状況をもたらすことになる。

 怒りや悲しみという感情は、自分が何を大事にしているかを表す信号。
 本当に見るべきなのは「大事にしているもの」であって、怒りや悲しみという感情そのものではない。
 でも、つい、この感情に引きずられて、「私はこれを大事にしています」というのではなく、周囲の人に「なんて酷いことをするんだ」と当たり散らしてしまう。

 怒られた方は、正直なところ「意味不明」ってことが多いでしょう。何を大事にしているか、は、その人の内面のことであり、外から見ている他人に分かることではない。
 何もないはずのところからいきなり「酷い!」と攻撃されるのですから、攻撃された方としては、びっくりしつつ、その理不尽さにまた腹を立てて、自分を守るためにやはり攻撃に出るでしょう。

 ということで上記、アドラー心理学から。

「ケーキ、食べちゃったの?ひどい!」などと怒り、睨みつけてはいけない。「食べたかったなぁ。残念だなぁ」と伝えるのだ。



 ケーキ食べたかった、と言われば、そうか気がつかなくてごめんね、また買ってくるね、——ということに(たぶん)なるんじゃないかな。この辺は相手の性格や関係にもよるでしょうけども。
 少なくとも、怒られた側が「なぜ怒られたかわからない」ことにはならない。

「仕事と私どっちが大事なの」というのも、まあ、そういうことでしょう。

 仕事と私というのが「同じ単位」か「異なる単位」かはどうであれ、本当に言いたいことは、「あなたと一緒にいられないので、私は寂しい」ということなんですよね。
 でも、言っている本人すら、自分は寂しいと思っているのだと認められないことも多い。

 面白いもんですね。
 自分で自分の、言いたいことや求めるものが何か、見落としている。
 ただ、自分が不快になっているのは「誰か」のせいだ、と、それしか考えない。

 自分は寂しいのだと伝えたら、状況はよくなるか、と言われたら、それは、「さあ」としか言えませんけども。(^^;)

 でも、寂しいんだよ、と「伝える」ことはできるでしょう。

 いきなり「どっちが大事なのか」と相手を詰(なじ)っても、その寂しさは伝わらない。何より、誰かを責めても自分だって傷つく。
 ましてそこから相手からの反撃があれば、もう救いようのない泥沼。

 そんなふうになるよりは、寂しいです、と、自分の気持ちを、自分で認めているぶん、少なくとも、自分自身に対してはやさしくできている。誰かを理不尽に責めるなんて気分の悪いことをしないですむ。

 怒りだったり悲しみだったり、そういうものにどうしても私どもは振り回されてしまいますが、決して怒りや悲しみが「本音」なのではなく、本音はさらにその奥にある。
 そのことを知るだけでも、ちょっとは変わっていくものがあるんじゃないでしょうか。

 
 ………まあ、私も、人さまにはそんなふうに話せても、自分自身がどうなのかと言われると、そりゃもう、——たいへん申し訳ございません!!! と言ってひたすら平伏するしかなかったりしますが。(^^;)

 でも、感情は本音ではない、ということを知って、ならば自分の本音は何か、と探る——探って、ああこれかと納得する——これを訓練として繰り返すうちには、素直に自分の「本当の気持ち」に、さっとアクセスできるようになっていくんじゃないか、と、かように思う次第でございます。
 
 お釈迦さまのおっしゃる「自分をよく制御せよ」というのは、そういうことなんだろうと思い、あの「止観」と訳される(らしい)ヴィパッサナー瞑想は(浅くは)そういう訓練なのだろうなと、最近にやってよーやく、思いついたところです。(遅い)
 
 
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