批判は暴力
2017年06月06日 (火) | 編集 |
 ただの悪口、陰口、誹謗中傷でしかないものを「批判」という看板をくっつけてごまかす、批判と「自称」してりゃ何でも許されると思っている心得違いを、以前から不快に思っておりました。

 批判と悪口は違う。厳密には前者には相応の正当性があり、立場の違い、ということであり、ゆえに感情的になる要素はほぼない。情より理、というのが批判。
 けれどもそうではなく、言っている内容を要約すれば「それでは自分は気に入らない、自分の気にいるようにしろ」というだけの罵倒なのに、そのあたりを指摘されれば「これは批判ですから」と言い逃れをする。
 ほんっとにサイテーなメンタリティだな、と思いつつも。
 たとえ情より理にたち、整然とした理屈によるものだとしても、——つまり、ちゃんとした、本来の意味での批判だとしても、それですら、取り扱いには気を配るべきものだし、聞いた他人を心地よくさせるようなものではない、んだよなー。
 批判ですら、やっぱりやたらに言っていいことじゃない。
 ………と思ってきたことを、あっさり言語化しているものがあったので、その部分だけ引っ張ってきました。

連載コラム「で、私の彼氏はどこにいるの?」
彼氏いるけど「コレジャナイ感」別れず解決できる?
(6ページ目)

2017年6月2日 日経WOMAN Online

 日経ウーマンオンライン版にある、恋愛相談のコラムですがこの際、内容の方はいい。
 読んでいて、ある小見出しと一節が目に止まり、「ああ、それだ」と思ったので。

■ダメ出しという暴力
 先ほどから銃弾のたとえを出していますが、好き嫌いを表明する感想とは異なり、ダメ出しなどの「批判」は必ず暴力性を伴います。したがってそれに対して「悲しい」「怖い」といった気持ちになるのは、ごく普通の反応といえます。彼の暴力的な批判に、真由さんが我慢する必要はありません。「気になること」として自分の中に出てきた違和感や嫌悪感を、やり過ごさずに言語化して彼に伝えることをお勧めします。
(下線、引用者)



 基本的に、目に見えたもの耳に聞こえたものにはとにかく悪口から入る人のことを、私はシンプルに「文句たれ」とお呼びしています。
 その悪口の対象は小さいことばかりなので、最初のうちは、ふーんと聞き流すんですが、あまりにもそれが続くとうんざりするし、いい加減にしろとこっちが怒りたくなりますよね。

 しかし私は知っている。こういう「文句たれ」は自分がそんなに細かいことにグチグチ言っているという自覚がないのだ;;
 なぜ知っているかというと、10代の頃の私がその文句垂れだったからです。
 自分で言うんだから間違いないです。……お恥ずかしいことですが。(^^;)

 あと、こちら、コラムの今回のテーマに小さく「男の人って、なんで手当たり次第ダメ出しするの?」と添え書きされていますが——、や、わかってますわかってます、これ「男の人って」って不当ですよね。女性にももちろんいますよね。困ったもんですよこういう言い回しって。
 私は自分が激烈文句たれだったし、文句たれに囲まれて育ったので(ホント最低ですよあの環境)、この言い方は実に不当だということは承知しております。

 しかしなぜ、そういう小さい文句から、ちょっと高尚っぽい批判まで、いずれにしても聴いて気分が悪いのか。
 理があろうとなかろうと、何かや誰かを否定するのは、所詮「悪口」の域を出ることはないからだろう、と思っていたのですが。

 引用部分を読んで、ああ確かに、と。

 ——暴力性。

 誰かを殴りつける、誰かの自由意志を踏みつけることを暴力とするなら、暴力に正当性もクソもないってことなんだろうな。

 ただの悪口を批判と言ってりゃ許されると思ってるのもいいかげんアサハカですが、そもそもその批判だって暴力であることには違いないよ、と。
 そりゃそうだ——と、腑に落ちました。

 引用部分にもありますが、自分の好き嫌いを伝えるのは、暴力性にはさほど繋がらない。
「納豆が嫌い」というのは、そうですか、というだけですが、「納豆嫌い。あんなの人間が食うもんじゃない」とまで言ってしまっては、後半は悪口ですから(批判じゃない)、それで頭にくるんですね。
 いきなり頭を殴られれば腹が立つくらいはしますよね。(←納豆と納豆を食す人の悪口を言った人と一ヶ月口を利かなかったヤツ)

 好きはいいけど、嫌いということを伝えるのすら、実際には気を使う。食事中に、あれが嫌いこれが嫌いと言い続ける人と同席して、お高いディナーも全く美味しくなかった、という経験がある私としてはつくづく思います。

 まして、故意に悪口言っといて、悪口を言ったことを非難されると「これは批判です」で逃げようとするなんざ、論外としか言いようがないですね。

 そんなもんは批判じゃない、と言いながらも、でも批判だっていいものじゃないけど……とうっすら感じてきた、その理由を教えてもらった、と思いました。

 まあ難しいところはありますね——、いっさい、完全に「暴力性」を振るわずにいられる人間などはいない。
 どうしても批判は表明しなければならないときもありますし。
 でも、そういうときでも、今自分は人さまに拳を振り上げて殴ろうとしているのだ、ということを、わずかにでも意識しておく方がいいんだろうな。

 ストッパーをある程度かけていてもこのザマなら、ストッパーすら無かったらどうなるんだ。
 ………こうなる、というのは、目の前にありますから説明不要ですね。(^^;)

 よく、誰かや何かの悪口を言ってストレス発散、みたいなことをいう人がいますが、あれ、ホントですかねえ? いわれのない暴力を振るい続けて、自分が気持ちよくなることなんてあるんでしょうか。
 それはもうそういう「地獄」に自分が慣れきっていて鈍感になっているだけなんでは?

 私も昔はかなりの文句たれでした。ちょっと思うところあって現在はかなりよくなっていますが(これでも!)、昔を思い出すと、文句たれていた日々というのは、自分だって決して気分が良くは無かった、と思いますね。これは自分の経験として、そう思います。


 どういうものであれ「否定」には暴力性がともなう、ということを、あらためて、肝に銘じておこうと思ったコラムでした。
 
  
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