下級民こそ知性主義

 今日は日曜日だし、息抜きさえもおやすみにしてダラダラしようかなと思ってましたが、先ほどこちらのツイートが目についたので、ちょっとだけ。



 こちらの麻生さんのご発言はどちらからの引用かはわかりませんが、そのあたり(つまりソース)のことはともあれ。
 私ももう新聞をまともに読まなくなっているので、「あー……わかりますー……」と思わず。

 まったく読まないことはないです。さすがに。
 ただ、同じ件についての、他からのニュースがあれば、どこが違うかどこが同じかと言ったことは、ざっくりとですが「検証」するクセがついてきたようです。

 日本ではマスメディアの「虚構化」は進む一方。困ったもんですね。
 アメリカでは大統領閣下や報道官には、ちょっとばかりの虚言癖や妄想癖、何かを大げさにいう傾向があるせいで、メディアによる「ファクト・チェック」と呼ばれる報道が出てきているそうです。
 日本の場合はメディアに対するファクト・チェックが必要ですね。(*`^´)=3
 社会の木鐸と呼ばれたのも、今は昔といった風情です。

 日本のメディアは自分たちの思惑——政治的な考えによるものか、特定の人々を利するようにと熱中するあまりか、「売れればいい」の執念かは存じませんが、ともあれ、何かの思惑のとおりにシナリオを書いて、実際そのように動かしたい、という気持ちが強すぎるようです。

 とはいえ、そういうことを抜きにしても、人には主観があり、この主観から完全に自由な人はいない(いたら成仏した仏さまだと言える)。
 メディアでもなんでも、「誰かが言うこと」に、バイアス(偏見)のないものはない、という前提に立つのが、正しい「読み方」への第一歩。

 発信する側はもちろんだし、受け取る側にも主観、偏見、バイアスはある。
 自分が公明正大な人間だなんて思わないことですね。
 自分は必ず正しい、自分は絶対、自分が言うことは「正論」だなんてことは「ありえない」。

 そう言うことを承知したうえで読み、自分の受け止め方を、自分で検証する。
 新聞等との付き合い方の、基本的な態度はそんなところでしょう。

 今、スーザン・ソンタグさん(故人)の本を読み返してますけども、自分の主観や自分の主張、考え方を、自分で検証する、「知性的な」態度を見るにつけ、しみじみ感じ入っているところです。

 彼女の「反知性主義」、つまり人々を安易な方へ連れて行こうとするものへの指摘は厳しい。

 面白いことに馬鹿ってのはお仲間を欲しがるんですよね。「反・知性」主義の人々は、他の人間も皆同じような「白痴」にしたがっている、と考えていい。だからメディアはあれほどぎゃあぎゃあ大声で騒ぐんでしょう。
 大声で騒ぐというのは「脅迫」の意味もある。あの連中は、自分たちのシナリオを通りにしろとこっちを脅してくる。
 新聞記者は品性下劣で有名ですが、当然のことと言えます。

 知性とはつまりは「メタ認知」だと喝破する言葉を聞いたのは、私はごく最近何ですが、なるほど本当にそうなんだなーと思います。
 主観も立場も主張もある。それはそれでいい。でもそういう自分を、冷たいほど冷静な目で検証する、自分を突き放して見ることが知性というもの。
 ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)を、図々しくも「自称」する以上、人間にはそれはできるはず。
 
 ということで、——安易に流されない態度が、まずは最初の一歩かな、と思いました。

 権威はあっていいが、権威主義はいけない。
 楽をしようとしないこと。——それが、「知性」がまず私どもに求めているものなのかもしれない。

 エライ先生や有名人が言ったことにすぐにそうだそうだと乗らないこと。よく「影響力がある人は発言に気をつけろ」などと、それこそえらっそうにいう人がいますが、そんなことより、自分自身が、安易に他人に影響されないようにしっかりしろよってことなんですよね。知性が求めるのは。

「病牀六尺」で正岡子規は「国というのは上級層がどれほどダメでも、下級層がしっかりしていれば大丈夫なんだ」と書いてますが、実際、それくらいの気概がなくて庶民をやってられますか。ねえ。

 マスコミが「反知性主義」なら、私どもは「知性主義」でいく。
 それくらいのつもりでありたいものだと思います。
  
 
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