2017年10月 / 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

2017.05.05 (Fri)

そらごととまこと

 爽やかな5月の祝日にするような話題じゃないなと思いつつ、思い出したことがあるのと、他に思いついたこともないので。
 またしても、とある有名人の離婚のお話がありまして、それを見た人が、
「円満に話し合って離婚が決まりました、みたいにいうけど、そんなの信じない」
 というのを拝見して。

 実際、離婚というのはその結論を得るまでの方がたいへんなようです。その過程においてはさまざま、葛藤も迷いも諍いもあるし、人様にも話すことはできないし。
 そっちの方がはるかにたいへんなんで、話が決まって手続きに入った頃の方が、公表もできるということで、一番たいへんな山は越えた状態にある——という話を、私も聞いたことがありまして。

 まあ、そうなんだろうなあ。と。

 何事でも結論を得るまでの過程というのは、本当にもー、それがなんであっても葛藤しますしね…。まして、近しい人間同士のことであれば、相手のこともあるから、なおさら苦悩は深まるのでしょう。
 そのあたりを思えば、世間に公表する頃というのは、「円満」という言葉を使いたくなるくらいには、ホッとしている、という部分はあるんでしょうね。
 ゆえに、私としては、「円満」という言葉にそこまで引っ掛かりを覚えることもありません。

 この話題に触発されたのか、TLでは浮気に関するツイートや考察をお見かけして、私も、ふーん、つって思い出すことがちらほら。

 口が固いところだけは自分でも保証できるんですが、それはただ口が固いというより、「あんまり他人のことには興味がない」という、薄情の表れだと自分では思っているので、美点とも思ってはいない。
 美点であろうがなかろうが、ともあれ、何かの秘密を抱え、人には言えないでも言いたい、という葛藤のある人には、こういう人間は便利なもののようで、若い頃にはそりゃもう、そういう話を聞かされました。男女ともに。

 浮気症というと男性というイメージが強いでしょうが、なかなかどうして女性も負けてはいません。
 ただやっぱりそこには性差と思しきものはあるなーと思ってました。

 女性の場合は最大のキーワードは「寂しい」ということ。
 いろいろ話を聞きながら本人には言ったことはありませんがしかし、寂しさから浮気というのは意味ないですねえ。
 ある人との関係における寂しさなら、その人との間でしかどうにかすることはできない。
 当事者だけでどうにかするしかないものなので、それを浮気の理由にするのはチガウなあ、と思ってました。
 実際、そんなことをしても根本の寂しさは揺るぎもしない。

 男性の場合は、お悩みの愚痴を聞くというより、なぜか「許可」を求められることが多かったですね。
 私も一応女性の身ではありますので——、それがどういう女でも、とりあえず女性から「男性の浮気はしょーがない」というような、「言質」を取ろうという感じ。

 なんでそんなことにアタシの「許可」「同意」「まあしょーがないよね」という「お墨付き」が要るのさ、と思うと、まったく、馬鹿らしいの一言。
 私が、そういうものに、しょーがないよねなどと本気でいうとでも思ってんだろうか?

 男性の浮気の「妥当性」「正当性」を、何やら一生懸命説明するもしくは、なぜかエラそうに「解説」する奴もいましたが、………私自身はそんなものに同意したことはありません。ただ黙って聞いただけ。
 なのに、その沈黙を、実に自分勝手に都合よく解釈するんですよねえ……。いやもう、本気でアホだと思ったこともありますよそりゃ。
 私が言ったのは「こういうことは他人が止めて止められることではないので、そういう意味ではしょーがない、と思う。でも、バレた時のことは覚悟しとけよ」。

 私の言いたいことの「核」は後半にあります。でも、彼らはそんなところは聞いてない。女性から「しょうがない」の言質が取れたと思って喜んで帰る。
 バレて泣きついてきた大阿呆もいましたが、知ったことか、私はちゃんと言っておいたはずだ、という以外にはございません。

 どちらを見ても思うのは、結局、嘘つきなんだよなーということ。

 寂しいから、というのも、私には理解できない理由から「しょうがない」ことだというのも。
 どちらも違う。

 実際、寂しさなどないはずの円満な愛情関係があるのに、やめられないという人がいる。
 私の見るところ、浮気というのは「ビョーキ」。病んでる。

 それが何かのトラウマによるものか、本人も気づかない葛藤があるせいか、単純なストレスによるものかは存じませんが、「分かっちゃいるけどやめられない」のは、それはもう、「中毒症」——現在の言葉では「依存症」というもの。

 人はいろんな嘘をつく。
 自分に正直なつもりで自分こそが最大の嘘つきだったりする。

 明らかにセックス依存症の知人女性すら、私に向かって「愛」だと言やがりましたからねえ……。あれはびっくりだったな。
 その症状からすれば典型的な依存症だけれど、本人はそれを頑として認めない。
 自分は病気だと認識することを病識(びょうしき)と言いますが、これがない。

 セックス依存症というほどではないにしろ、「分かっちゃいるけどやめられない」浮気も、同じだと思いますね。そこまで「症状」が深刻ではないだけで。

 まず自分の異常さを自分でちゃんと自覚する、というのが難しい。それはわかる。私自身、ここまでどれほど自分で自分に「目隠し」してきたか、と思うと、ボーゼンとしますからね。
 だから、そういう人たちをむやみに否定、非難もしません。
 それで苦しいのは本人だから、その苦しさをどうするかは本人次第。他人があれこれ言うことじゃない、と思ってます。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
「わたしもあなたを罪に定めない」
(ヨハネ福音書8章)



 まさしくそういうこと。

 だからって、「みんながやっているなら自分がやったっていいよね、仕方ないよね、正当なことだよね」なんて馬鹿面下げて同意を求めてくんな、ってこともありますが。(^^;)

 じつのところ、そのセックス依存症の知人の抱えた傷には、私のそれと似通ったものがある。
 同じようなものを抱えながら、でも、ずいぶん違った選択をお互いにしたもんだな、とも、思っていたのでした。密かに。

 この知人については途中で消息不明になり、以後のことは何も聞いていません。
 ときどき、その後どうしたんだろうか、と思うだけになっています。

 不倫とか浮気とか、そういうことをむやみに攻撃する気もないし、当然、正当化に手を貸す気もない。

 ただ、どちらにしろ、本来の意味での幸せというものに目覚めることがないものだろうか、と祈る想いがあるだけですねー……。
 
 
関連記事

タグ : 人間

11:43  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |