2017年10月 / 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

2017.04.20 (Thu)

信じること

 思わず「そーなんですよねー……」と、心当たりがありすぎでグサグサ突き刺さって痛いなんてーもんじゃない、となりましたツイート。



 ここでは主に対人関係における「信じること」のお話になってますが、でもまあ、他のこと全般に当てはまること。

 何かと出会ったとき、まず疑いから入る、というのも、エゴのなせるわざ。
 エゴなんてろくなもんじゃない、と私も思うところがありますが、しかし本来のエゴの役割は人間を惑わせたり傷つけたりするのではなく、むしろ、その人を「守る」ためのもの。
 過去の経験から、再び「危険なこと」にあわないよう、危険な状況に陥らないための「機能」なんですよね。

 ただ、エゴが過剰に発達した現代人は、自分を守るどころか、逆に、その恐怖反応ゆえに自分を傷つける。
 アレルギー反応と似てますね。
 本来は免疫機能なのに、過剰になって自分を傷つける。

 対人であれ何かの状況についてであれ、とにかく疑い深くてなかなか信じようとしない人は結局、この世で一番何を信じていないか、というと、それは自分自身なんですよね。
 
 他人に簡単に騙されるバカな自分。
 誰でもわかるはずのことを見落として自分で自分を危険な状況に追い込む。
「何をやってもダメ」な、「無能」の自分。
 自分は無力だと感じ、それゆえに、自分は簡単に「殺される」と思い込み、「枯れ尾花」にさえおびえる。
 なんであろうと「ろくなことにならない」自分というものへの、こればかりは絶対的と言いたいくらいの強い不信感。

 他人のことが信用できないとか、世の中の仕組みは不公平だとか、ああだこうだと言いますが、じゃあこの世でいちばん信じられないものって何か? と突き詰めると、結局、「自分自身をいちばん信用できない」。
 他人や世の中のことをああだこうだいうのは「投影」であり、こんな時さえ「自分自身から逃げている」。
 この状態ですからねー。そりゃあ他人を信用なんかできるわけない。

 ということで、そういう不信感を乗り越えるには、「自分に自信を持つこと」以外には対策も何もないんですが、この自信というのも、考えてみると、世間じゃずいぶん誤解があるようで。

 根拠のない自信というのを嗤う人がいますが、自信には根拠なんか必要ない。
 というより、根拠を待っていたら自信なんかいつまでたっても生じない。
「逆」なんですよね。

 根拠を作るためにはなんであれ行動が必要ですが、自信がなくて怯える人は行動できない。怖いから足がすくんで動けない。
 根拠があるから自信が持てるんじゃない。自信があれば行動ができて、たとえそれが失敗してもとにかくなんらかの結果は得られる。
 それがまた次の行動の足がかりになる。

 自信というのは、「自分への希望」。根拠なんかないけどこんな風になると信じてる、期待してる。きっとこういうことになる、過程がどうなるかはもちろんわからないけど、必ず「希望」は叶うと信じている。
 なぜなら——自分はそれに見合っているから。

 自信というのは、そういうもの。

 期待というのは他人にすることじゃなく、自分自身に寄せるもの。
 楽しいと感じること、自分自身にワクワクすること。

 他人には期待しないほうがいいです。期待とは、自分の思い通りになることを押し付けることですが、他人が自分の思い通りになるわけがない。相手にだって自分の自由意志というものがあるんだから、それをどうこうできるわけがない。
 他人には、明るい希望を信じてあげる、くらいの気持ちでいい。
 きっと自分の思うようになるという「期待」は、自分自身に持つもの。

 ………ということに気がつくのにも私も相当の時間をかけたわけですが、気がついて、それでサッと自信が持てるようになるかというと、そうもいかない。
 他人や世の中を恨んでいた時期よりははるかにマシになりましたが、それでもまだまだ、ですね。

 自分はどうしようもないビビリだという自覚はあったんですが、これがもう、自分の予想をさらに超えて、その臆病さは根の深い、頑固な、絶対零度近くまで冷え込んで固まったものだとは、——気がついたのも最近のこと。

 上記ツイ主様は、その、臆病などなたかについては、
「どんな方法で、自信を持たせればいいのかはわからない。でもそれを伝えられることが愛情かもしれない」
 とおっしゃるけれども、やはりこれは——ご本人がどう望むか。それ次第でしょうね。

(ツイ主様のこの案件につきましては、以前から、はるか遠目に、勝手に見守りつつ応援しつつ拝見している次第で;;)(じつはフォローすらしていない;;)(リストにあるけどフォローしてないことにさっき気がつきました;;)(フォローの意味って;;)

 意外に思う人もあるかと思いますが、臆病で怯えるのも極度に至るときは、自分で自分の救いを拒否することがあるんですよね。
 精神分析では「自己破壊衝動」といいます。
 物事がうまくいきそうになると、かえって不安感が出てくる。うまくいきそうだ、ということが「怖い」んです。だから自分で、せっかく積み上げられたものをぶっ壊してしまう。

 例えば、改善された状況はその人にとっては、「馴染みがない」「新しい」「見知らぬ場所」です。
 そういう、「新しいもの」へと進むことの方が恐ろしくてたまらない。だから、ひどい状況でも馴染みのある場所の方が「安心」できる。そこに留まろうとする。

 そんなバカなと思うかもしれませんが、そういう心理も、人にはあります。

 こういうところで誰かからの愛情は意味をなすのか、役に立つのか。——それはわかりません。
 本人が、自分の恐怖や怯えを自分で解消したいと、まず、望むことの方が、「必須」だと言えます。

 こんなときでさえ、「他人には期待するな」なんですよねえ…。
 でも、幸いであれ、という「希望」を、他者は寄せることができる。
 愛情とは、期待ではなく、希望のこと。

 その愛情に恵まれているのなら、幸せですね。
 幸せであることにさえ気づかないことも、ままありますが。

 私もそのへんの「構造」がわかったのはごく最近のことで、いまだ強い恐怖と怯えから自由になったとは言えない状態なので……、ツイートを拝見したときは、「そうなんですよねえ………」と思わず、図星を指されてグサグサきていたんでした;;

 ただ、これが誰かと関わることの「奇跡」だろうな、とも思うのは。



 自分の怯えは自分を傷つけるだけではなく、結局、他の誰かにまで刃をむけることになる。
 自分の傷にはもう慣れっこになってほぼ無感覚になっていても、人の傷を見れば、はっとする。
 巻き添えにされる方はたまったもんじゃないでしょうが、でも、それは、一人では得られない貴重な気づきになる。

 これがきっと、他者と関わることの大事な意味になるんだろうな、と思います。
 
 
関連記事

タグ : 人間

12:26  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |