山桜花日並べて
2017年04月17日 (月) | 編集 |
 土日の方がハードスケジュールで、月曜日の方がまったりしてる(ように思える)というのもスゴイもんですわ;;
 ということでなんとなく頭がぼーっとしているので、ぼーっとしまま参ります;;




 インスタで見つけて、いいな、と思ったポスト。
 綺麗な色のおうす(薄茶。お抹茶のことですね)と、これは………あの季節限定ミニおたべシリーズの「こたべ」ですね…! わあ、いいなあ♡
 2月に私が見つけて買ったこたべはチョコレートだったんですが、今回は…桜の葉を練りこんであるとか、かなあ。

「おたべ」オンラインショップ
http://www.otabe.jp/shopbrand/ct46/
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 歌は山部赤人のもので、キャプションにもありますが、
山桜の花が、何日ものあいだ美しく咲いているのだったら、これほど愛しいと思うものでしょうか

 花は儚く、すぐ、数日のうちには散ってしまうからこそ、開花を待ちわび、ほころび始めれば胸をときめかせ、雨や風を心配して、満開になれば心から愛でるのであり——、毎日でも見られるようなものなら、こんなに大事にはしないかもね、ということですね。

 人間にとってのものの価値って、そういうものだよねえ、と思ったり。

 お宝鑑定の番組でも、本物でもあるし文化財級の、本当の「お宝」なのに、価格として鑑定すると、「え? そんなもん?」と驚くくらい値がつかないものがあります。
 文化財、あるいは歴史の史料としての価値は凄まじくても、それを欲しがる人が多くなければお値段というものには結びつかない。

 もしそれを売ったとしても二束三文ということにしかならないから、「価値がない」と言って捨ててしまうのは、でもこれは、歴史文化の上ではとんでもない犯罪行為とすら言える——という事態は結構ある。

 人の世におけるものの価値はつまりは「欲しがる人に対して数が少ない」ことによって生じる。
 どれほどのお宝でも、欲しがる人がいなければ、お金という価値には結びつかない。
 でも、お宝であることには違いない。

 人の世の価値はいわば「相対的価値」であり、金額が千円でも一千万円でも関係なくお宝だというのは「絶対的価値」と言える。

 どちらも価値であることには変わりなく、どちらもそれぞれに大事に扱うルールなり方法なりがあるわけですね。どちらが正しくてどちらかがどーでもいい、ということではない。

 桜の花も、一気に咲いて一気に散る、1年もかけてその美しさを見ることができるのは数日しかない、というところに価値がある——というのは人間の都合によるもの。「相対的価値」と言える。
 しかしこれさえも、数日うちに散ってしまう花を愛でる、という人があんまりいない(そういう文化ではない)のなら、やはり、価値として認められることはない。

 そう考えると、ものの価値って面白いもんだなぁ、と思いまして。

 ただ、花が3日で終わろうと、1年中咲いている花であろうと、あの花の美しさには変わりはない。
 であるにもかかわらず、いつでも見られると思えばぞんざいに扱い、3日そこそこの「珍しい」花だからと過剰にちやほやする——ということをやってしまいがち。

 3日の花も永遠の花も同じ花なのに、いつでもそこにあると思うとありがたみも感じなくなる、というのは、よろしくございません。
 どうも私はそういうところで、「毎日そこにある」ものをないがしろにするという、感謝の念が足りないところがある。

 小さなことを喜べない人に、本当の意味での感謝も喜びもない、ということは、亀の甲より年の劫でかなり身にしみているので。(^^;)
 3日の桜を毎日そこにあるもののように思い、貨幣価値など微塵もない、それどころか雑草扱いで除草剤を撒かれてしまうような花を桜のように愛でる——それくらいの気持ちでいた方がいいな、と、思わぬところで反省モード(笑)

 山部赤人さんのこの歌は、いわば「平常心」を見つめているけれど、思わず、平常心平常心、と自分に言い聞かせてしまうほど、桜に心乱されているんだなあ、ということがわかる。
 1000年以上たっても、あんまりそのへんは変わらないな〜と、なんとなくにやにやしてしまいます(笑)

 千年たってもボンノーはボンノーのまま。(*´ー`*)
 
 
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