愛と勇気
2017年04月03日 (月) | 編集 |
 自分が何かつらいと感じる体験をしたとき、「他人にはこういう思いをさせたくない」人と、「他人にも自分と同じ目に合わせてやりたい」人がいる——世の中は(大雑把には)この2種類の人間のせめぎ合いだ、と昨日、もうしましたが。

 なんでそんなことをふと思いついたかというと、新聞記事中で「放射脳」のエピソードのひとつを読んだから。
 物産展なのか何かわかりませんが、試食用の桃を食べていた女性が、福島県産と聞いた瞬間、吐き出した、という。
 私だったら自分で後片付けをさせたうえ強制退去を命じるところですが、でも、この「パフォーマンスくささ」はなんだろう。
 
 いわゆる放射脳は、冒頭の2種類の人間でいうなら「他人を自分と同じ目に合わせたい」人に分けられます。
 お仲間をやたら欲しがるというのがその根拠となる理由、特徴です。
 自分と同じように不安がっていない人間を見ると、なんとしてでも(自分と同じに)怖がらせ、不安がらせようとする。「他人を自分と同じ目に合わせようとする」わけ。だから、これ見よがしで芝居がかったことを言い、パフォーマンスをしてみせる。

 そのココロは。
 自分が不安なときに、平気な顔をしている人を見ると不安でしょうがないから。
 だから、お前も怖がれ、恐れおののけ、不安がれ、「仲間」になれとそそのかす。そのためのパフォーマンス。
 
「怖がり仲間」を作ることが目的なので、科学的な説明も、調査も、何も彼らには響かない。というより最初からそんなものには用などないのです。

 食の安全というなら、現在福島県は不必要に厳しい基準で検査をしているので、全国でいちばん安全な食品を生産しています。それを、聞いた瞬間吐き出すってねえ——なんのパフォーマンスなの? と思います。
(それ以前に、いきなり公共の場でそんなことをする非礼ぶりを見れば、自分で自分のことをマトモな人間じゃないと証明しているわけですが)

 他人を自分と同じ目に合わせないと気が済まないというのは、つまりは、「自分と同じであること」を他人に求める、というよりは、強要する、と言えますね。
 
 なぜああいう連中はことさらに「お仲間」を求めるのか。放射脳のことは別にしても、他人とつるんで歩くのが好きではない私としては、理解できないというより、迷惑このうえない。
 怖がることもひとりじゃできないのか、怖がるくらいひとりでやってろ、迷惑な! というのは、私の魂の叫びです(笑)

 最近始まったプレミアム・フライデーにしても、まあとにかくやってみようよという声を、「あんなもの」と必死になってかき消そうとしている人々がいる。あれも「他人が自分と同じようでないと気に入らない」「お仲間欲しい」人たちなんだよねえ。

 自分と同じように、と言っても、高所へ人を「引き上げようとする」——高い理想や理念を示して人を導いていく——そういうことなら大いに歓迎なんですが、登っていく人を見ると谷底へ、足を引っ張ってでも引きずり落とそうとする。迷惑ですね。

 昨日、エントリーを投稿してからもなんとなく頭の片隅で、「自分と同じ目に合わせない」ようにと思う人と「他人を苦しめないと気が済まない」人の見分け方について、もうちょっと他に何かないかなと考えていたんですが。

 簡単に言えば、前者の行動原理は「愛」であり、後者は愛の欠如と怨念がすべての起点になっているんですが、これもまた——世の中には偽装が上手な人が多いから、見分けるのが難しいときもある。
 もうちょっと簡単な基準はないか、と考えたとき、ふと思いついたのは「やってみなはれ」という言葉。

 サントリーさんの創業者を主人公にした伊集院静さんの小説が、ただいま日経新聞朝刊で連載中ですが、それでふと思いつきました。

 どんな状況のときでも、人を励まし、力づけるものなら、前者だと思っていい。
 親切ごかしに、あるいはもっともらしい顔をして、あるいは「あなたのため」と言いながら、誰かの足を引っ張り邪魔をするのは、どれほどご立派そうな「理屈」で偽装していても、それは愛じゃない。
 ……うん、この見分け方はいいな(←自画自賛)

 愛と勇気なんていうと漫画のアオリみたいですけど、概ね、愛と勇気はおなじもの。源泉は同じ。
 人を励まし力づけ、「やってみなはれ」とうなずく。
 そういう人なら間違いない。

 原発事故後の、およそ狂気に満ちた放射脳と「風評」のさなか、きちんと科学的に対応しては公表した人々のことを思い出しても、そう思います。

 若い、あるいは幼いひとについて思うのは、——この2種類あるうちの、後者のオトナどもにひどい目に合わされて、「老害」と罵りたくなる気持ちはわかりますが、問題は、ならば自分がオトナになったとき、彼らとは違ったようでいられるか? ということ。

 幼い頃はずいぶんオトナどもを憎み、恨み、嫌っていたのに、気がついたら自分も彼らと同じになっていた——としたら、これは、彼らの、「自分と同じ仲間が欲しい」という思惑に、まんまと載せられていた、罠にハマったということ。
 それでいいのかどうか。

 本当の反骨、反抗、自尊心というのは、そういうところにあるんじゃないだろうか。
「自分はつらい目にあったけれど、後からくるひとには同じ目に合わせない」
 そう思えるだろうか。

 そう思う、と、顔を上げて言ってくれることを、私はひそかに願っております。

 でも、そうではないという人がいても、どうということもない。
 人間なんざ「どうせ」そんなもんさ、——という、冷たいあきらめが私の中にはある。
 私の「課題」は、この冷たいものをもーちょっとどうにかすること。のようです。
 
 
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