21世紀のカリスマ
 いっときはやたら「カリスマ」という言葉が使われました。
 
 ある種のリーダー的な存在、あるいは新たな試みで注目されている誰か、あるいは業界なり店舗の中でのトップ、人気者、——というのを誇張して「カリスマ〇〇」という言い方をする。
 カリスマ経営者、カリスマ美容師、カリスマ店員、……カリスマも大安売り。

 本来のカリスマは、そういう身近な存在ではなく、むしろ「近寄りがたい」というニュアンスを持つので、そんなご近所にいるご近所での人気者という存在に、カリスマって言われてもなー。と思ってました。

 カリスマ charisma は、元はギリシャ語で、「神から授けられた特別な能力」を意味するものだそう。
 予言者とか(預言者とは違うよ)、あるいは特殊な能力で病気を治すとか、超自然的な能力があって、それゆえに人から崇められるようなもの。

 そういう超自然の能力(者)は、人々に慕われつつもどこかで畏れられるもの。
 だからカリスマというのは「近寄りがたい」存在でもある。
 本来の意味でのカリスマはイエス様とかお釈迦様とか、あれくらいのレベル。
 現代では宗教はある意味、滅びつつあるので、カリスマも大安売りされても仕方がないのかもしれませんねえ……。

 依然として、そのカリスマと信者の関係を色濃く残しているのは、宗教じゃなくて芸術かもしれません。
 なかんずく、音楽。

 私はここまでロックというジャンルには興味がなく過ごして参りまして、最近、そういう世界を垣間見るようになりましたが、あれは——正直、最初はちょっと引きました。(^^;)
 あの熱狂あの興奮、ミョーに統率のとれた一連の「ノリ」は集団催眠のように見えるし、なにか欲求不満でもあるんですか? と言いたくなるような、暴力的でさえある振る舞い。
 強い恍惚感が人々を浸していくのを見て、音楽は宗教に近いものなんだなと感じました。

 そんななかで、
「このバンドのために頑張るとか、このバンドがないと生きていけない、なんて事言うな。一緒に頑張って自分たちの夢叶えろ」
 といった主旨の「カリスマ」からの発言に、戸惑うファンの「感想」を、ここんとこ、いくつか連続でお見かけしました。

 突き放されたように感じたり、あるいは(私もそうですが)べつに夢も希望もない、生活すること、今、この生活を送るだけで精一杯、という人間には、ならば「ファンでいる資格はないのか」と落ち込んだり。
 わかります。——と、私も思わず。(^^;)

 でも、それでいいんじゃないでしょうかね。双方にとって。

 イエス様でもお釈迦様でも、おやさしいことはおやさしいけれど、基本的には「馴れ合わない」。突き放しているように見えることが多い。

「依存」するなと言われて戸惑う人もあったようですが、依存、という言葉の意味は、あの「宗教指導者」の伝記あたりを見ると、わかりやすいと思います。

 その依存状態を野放しにするのは、危険なことなんですよね。
 双方にとって。

 宗教団体を名乗るほどではないけれど、「信者」さんを何十人とか100人くらいとか、持っている宗教者——俗に「拝み屋さん」などと言われる、そういう人って結構いらっしゃいます。
 いわゆる霊能者ですね。そういう方のお話を聞いたことがあります。

「信者さんのいうことを全部が全部、聞いていては、こちらが殺される」
「人の欲にはキリというものがない。何でもかんでも甘い顔をしてハイハイと聞いていたら身が持たない。相手にもよくない」
「信者のいうことなど聞かない、という(冷たい)態度をときどき見せておく。それくらいでちょうどいい」

 私は現代人の中では信仰心というものを比較的、濃厚に持っている方だと思いますが、それゆえに「信心」と、「ご利益信仰」の違いには敏感なところがあります。
 当時は私は中学生でしたが、その拝み屋さんの仰ることに、なるほどその通りだろうな、と納得してました。
 同時に、信者さんを突き放すのも、「ときどき」ってところが、ポイントだろうなとも(笑)


 カリスマと見なされる側は、突き放すくらいでちょうどいいし、「信者」さんも、「ときどき」冷や水を頭から被って、我と我が身を振り返り、人生を振り返り、考えてみる、というのは、いいこと——というより、「必要」だと思います。

 資格があろうがなかろうが、ファンでいるというその人の気持ちは、誰の指図を受けるものじゃないし、指図されたって本人にもどうにもならない。
 これがなければ生きていけない、と思うときも、人生の中にはありますよねそりゃ。
「藁にもすがる」ことで、やっと命を繋いでいける時期もある。そういうものを一概に非難できるものではない。それでやっと、自分で自分を殺す誘惑から逃れている人にとっては、文字通りの「命綱」です。誰がそれを否定できますか。

 でも、そういう「緊急事態」というのは永遠に続くものではない。何年かかるかはともかく、いつかはまた、違う季節へ移っていく。
 そういう辛い時期を乗り越えるためなら、命綱でも生きがいでもなんでも、すがっていればいい。
 自分で自分を大事にできるなら、その命綱を後ろめたく思う必要もない。

 ただ、カリスマさんにはカリスマさんの事情なり大変さなりがあるので、そのあたりを、信者さんも、わかってあげられるといいんでしょうね。(^^;)

 いかな「神の恩寵」といえど生身の人間であることには変わりはないので、このへんはねえ——、紀元前とか紀元ごろの人類よりは、「進化」「進歩」した態度を示してもいいはずだと思います。

 ニーチェが神の死亡宣告を出し、カリスマはそこのショップにいる時代ですからね。(^^;)

 自分がしていることは熱狂なのか、それとも「依存」になってしまっているのか、と、立ち止まって考えることに意味があるのかもしれませんね。

 実際、本当にシャレにならない依存をしている人は、こういう言葉すらまともに聞きゃしない——何を言われても自分を正当化するだけ——そういう姿を、比較的最近、私も見ている。

 カリスマの言葉を聞いて、え、アタシそんななのかな? と戸惑い考えるなら、大丈夫、「健康」ってもんだと思います。
 
 まったくのところ、今日日(きょうび)、カリスマさんも信者さんも、楽じゃないですよねえ。( ̄▽ ̄;) 
 
 
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