人を生かす
2017-02-26(Sun)
・女の子を拘束する「呪い」、親が解かねば / 駒崎弘樹さん
2017年2月24日06時52分 朝日新聞 DIGITAL
女は女らしく男は男らしくという「呪い」をかけるのは通常は親。
であるので、その親御さん自身が、
「女のくせに、などといわれても耳を貸すな。女だからといってできないことは何もないのだ」
と、6歳の娘さんに語るというのは、まさしくその呪いをかけられた身としては、「いいなあこういう人が親だったら楽だったよなー」と思ってしまいます。
と、私はそのままさらっと通過していたのですが、この「耳を貸すな」に反発しているご意見をお見かけして、へー。と思いまして。
本来の、おおもとのフェミニズムは「男性に人権があるなら女性にも人権がある」という概念なのであり「女性であることを放棄する」ことや、「女性には特有の権利がある」とすることではない、というご主旨のようでした。
よう、というのは、やはり行間や、言葉と言葉の間にまだ不足が感じられて、私も、筆者の主張を汲み取り切れていないと思うからです。
だからさー、やっぱりツイートって入り組んだ話の説明や議論には向いてないですって;;
注意して書いていらしゃるんでしょうが、それでもどうしても何か、「抜け」があるようです。
ともあれ。
私は、現行のフェミは従来の男尊女卑のアンチテーゼに過ぎず、つまりは写真のポジとネガの関係であり、そこにある画は同じだからどっちも嫌だ、ともうしてまいりました。
どちらがどちらを嫌っているにしろ、鏡に映った自分の姿を見て、わあわあ怒っているだけですから、話にならない、そう思います。
上記記事で「耳を貸すな」というのは、相手がまだ幼い子供であり、これは発達心理学でもいう通り、このくらいの子供は「催眠状態」にある。
ので、理性の発達した年齢であればいざ知らず、催眠暗示にかかりやすいことを考えて、「あんなものは聞いてはいけない」と教えたのだと思いますね。
対して、反対意見をおっしゃった方は、耳を貸すな=女性性の否定を「与えた」、という解釈もあるようです。
でも、主張の一番の核は「たとえ呪いでも、その呪いもまたひとつの”意見”として、冷静に受け止め、吟味することが必要」ということなんでしょう。
……が、ともあれここでは、6歳の子供にはそれはちょっと;; ということで。
実際、従来の男尊女卑思想にしろ現行のフェミにしろ、なんでそういちいち極端なところへ行くんだろう、とは、私も思うところ。
男女平等とは、男性は男性のままで、女性は女性のままで、あるべき権利はある、という概念。
性を「正義」にすることも、またそれを「放棄」することも、やりすぎいき過ぎ、的外れだ、と思いますね。
性差は健康面を含めても無視できることではないし、そうすべきでもない。
性というものを人が持ち、これが人生ではかなりの重要性を持つことも、否定できることではない。
男尊女卑思想は変に性別を正義にするし、フェミはそれを変に「悪者」扱いするし。
性差というものを語る人がいるかと思えば、その性差を言い訳にして結局は「男女差別」を正当化しようとする。
性差の扱いをどうするかについては私もつらつら考えておりますが、私自身はこのように考えて扱っているなと思うのは。
早い話、その人を「生かす」ことに、性差というものを「使う」。
つまり、男性だからこれをするな、女性だからそれをするな、というのは、その人を「殺す」もの。
逆に、男性ならそれが魅力、女性ならこれが魅力、——同じことを表現するのでも、その肉体ひとつとってもぜんぜん「要素」が違うわけで、その要素をどう「生かす」か、という視点で考えればいい。
あれをするなこれをするなというときは本当に危険で、特に、自分じゃなくて他人に向かって、あれをするなこれをするなというときって、本人が言うのとはぜんぜん違うところに目的や思惑や欲望がある。
人はそう言うものを自分自身にさえ嘘をついてごまかし、もっともらしいような顔をしたり「正義」ぶったりする。
こういうときは、それこそ、「耳を貸すな」でいい。
同じことを——例えば舞踊でも、同じような振り付けで踊っても、男性が踊る時と女性が踊るときでは、「美しく見せる」目的は同じでも体の使い方がぜんぜん違いますよね。
性差というのは、そういう時に考えればいい。そういう(程度の)もの。
私の扱いはそうなります。
性差を語るのは、その人を「生かす」ことを考えるときだけでジューブンです。
人を殺したいがために、もっともらしい言い訳になるから性を持ち出す、というのは、最低とかいうよりも、言語道断だと思いますね。
で、まあ、多くの男性女性にはそういうことで。
いわゆる性的少数派の方々は。
もうそれこそ、「自分を生かす」要素として、考えていけばいいだけ、と考えます。
生かす、というのは基本であり、同時に、完成し難い「課題」でもありますね。
「デカいことをしてやる」と言って何をするかと思えばただの人殺し、というバカは世の中に絶えませんが。
殺すだけなら10歳にもならない子供にだってできる。
人を生かすことは、100歳まで生きたって、身につくかどうか。
そういうわけで、私としては、人を生かす、ということを最優先課題とし、性差もまた、「その人を生かすためにあるもの」と捉えます。
その人の才能のひとつ。そういう捉え方。
何にしても、こういうことでいちいち、あれこれ、考えないといけない、という事態がそもそも情けない。
けれども、考えることすらしなかった時代よりは、マシになったよね、とも言えますね。
2017年2月24日06時52分 朝日新聞 DIGITAL
女は女らしく男は男らしくという「呪い」をかけるのは通常は親。
であるので、その親御さん自身が、
「女のくせに、などといわれても耳を貸すな。女だからといってできないことは何もないのだ」
と、6歳の娘さんに語るというのは、まさしくその呪いをかけられた身としては、「いいなあこういう人が親だったら楽だったよなー」と思ってしまいます。
と、私はそのままさらっと通過していたのですが、この「耳を貸すな」に反発しているご意見をお見かけして、へー。と思いまして。
本来の、おおもとのフェミニズムは「男性に人権があるなら女性にも人権がある」という概念なのであり「女性であることを放棄する」ことや、「女性には特有の権利がある」とすることではない、というご主旨のようでした。
よう、というのは、やはり行間や、言葉と言葉の間にまだ不足が感じられて、私も、筆者の主張を汲み取り切れていないと思うからです。
だからさー、やっぱりツイートって入り組んだ話の説明や議論には向いてないですって;;
注意して書いていらしゃるんでしょうが、それでもどうしても何か、「抜け」があるようです。
ともあれ。
私は、現行のフェミは従来の男尊女卑のアンチテーゼに過ぎず、つまりは写真のポジとネガの関係であり、そこにある画は同じだからどっちも嫌だ、ともうしてまいりました。
どちらがどちらを嫌っているにしろ、鏡に映った自分の姿を見て、わあわあ怒っているだけですから、話にならない、そう思います。
上記記事で「耳を貸すな」というのは、相手がまだ幼い子供であり、これは発達心理学でもいう通り、このくらいの子供は「催眠状態」にある。
ので、理性の発達した年齢であればいざ知らず、催眠暗示にかかりやすいことを考えて、「あんなものは聞いてはいけない」と教えたのだと思いますね。
対して、反対意見をおっしゃった方は、耳を貸すな=女性性の否定を「与えた」、という解釈もあるようです。
でも、主張の一番の核は「たとえ呪いでも、その呪いもまたひとつの”意見”として、冷静に受け止め、吟味することが必要」ということなんでしょう。
……が、ともあれここでは、6歳の子供にはそれはちょっと;; ということで。
実際、従来の男尊女卑思想にしろ現行のフェミにしろ、なんでそういちいち極端なところへ行くんだろう、とは、私も思うところ。
男女平等とは、男性は男性のままで、女性は女性のままで、あるべき権利はある、という概念。
性を「正義」にすることも、またそれを「放棄」することも、やりすぎいき過ぎ、的外れだ、と思いますね。
性差は健康面を含めても無視できることではないし、そうすべきでもない。
性というものを人が持ち、これが人生ではかなりの重要性を持つことも、否定できることではない。
男尊女卑思想は変に性別を正義にするし、フェミはそれを変に「悪者」扱いするし。
性差というものを語る人がいるかと思えば、その性差を言い訳にして結局は「男女差別」を正当化しようとする。
性差の扱いをどうするかについては私もつらつら考えておりますが、私自身はこのように考えて扱っているなと思うのは。
早い話、その人を「生かす」ことに、性差というものを「使う」。
つまり、男性だからこれをするな、女性だからそれをするな、というのは、その人を「殺す」もの。
逆に、男性ならそれが魅力、女性ならこれが魅力、——同じことを表現するのでも、その肉体ひとつとってもぜんぜん「要素」が違うわけで、その要素をどう「生かす」か、という視点で考えればいい。
あれをするなこれをするなというときは本当に危険で、特に、自分じゃなくて他人に向かって、あれをするなこれをするなというときって、本人が言うのとはぜんぜん違うところに目的や思惑や欲望がある。
人はそう言うものを自分自身にさえ嘘をついてごまかし、もっともらしいような顔をしたり「正義」ぶったりする。
こういうときは、それこそ、「耳を貸すな」でいい。
同じことを——例えば舞踊でも、同じような振り付けで踊っても、男性が踊る時と女性が踊るときでは、「美しく見せる」目的は同じでも体の使い方がぜんぜん違いますよね。
性差というのは、そういう時に考えればいい。そういう(程度の)もの。
私の扱いはそうなります。
性差を語るのは、その人を「生かす」ことを考えるときだけでジューブンです。
人を殺したいがために、もっともらしい言い訳になるから性を持ち出す、というのは、最低とかいうよりも、言語道断だと思いますね。
で、まあ、多くの男性女性にはそういうことで。
いわゆる性的少数派の方々は。
もうそれこそ、「自分を生かす」要素として、考えていけばいいだけ、と考えます。
生かす、というのは基本であり、同時に、完成し難い「課題」でもありますね。
「デカいことをしてやる」と言って何をするかと思えばただの人殺し、というバカは世の中に絶えませんが。
殺すだけなら10歳にもならない子供にだってできる。
人を生かすことは、100歳まで生きたって、身につくかどうか。
そういうわけで、私としては、人を生かす、ということを最優先課題とし、性差もまた、「その人を生かすためにあるもの」と捉えます。
その人の才能のひとつ。そういう捉え方。
何にしても、こういうことでいちいち、あれこれ、考えないといけない、という事態がそもそも情けない。
けれども、考えることすらしなかった時代よりは、マシになったよね、とも言えますね。
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