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不滅にも近く

 本日は222(にゃんにゃんにゃん)で猫の日でございます。
 だから何をすることもないのですが、ねえやっぱり可愛いよねえと呟いておこうかなと。(^^ゞ
 私は単なる猫バカでして、この上にある「猫キチ」様には叶いません。でもって、その猫キチさえもひれ伏すのが、岩合光昭さんという、「猫の神様」という存在。(^^;)

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ペットの生前の姿、ずっと そっくり人形が飼い主癒やす
2017年2月21日07時54分 朝日新聞 DIGITAL / 祝迫勝之

 これは動物でも人間でも同じことなんですが、「形」に執着する人ってあるんだなあ。と。
 形、あるいは物質。

 可愛がっていたペットのクローンを作る、というのは実際すでにあることで、あれは、私には不思議な気がしました。
 たとえ遺伝子情報は「完コピ」されたものであっても、命というのはひとつそれ限りですから、以前にいた子と今いる子は、別の存在。
 その辺についての「整合性」ってどう取ってるんだろうと思ったら、以前、テレビ番組のインタビューで聞いた答えは、「とにかく”形”が同じであること」が大事で、これが満足されているならいい、ということでした。

 この「ペットの生前の姿そっくりの人形」も、それと同じなんでしょうか。

 私は仏教的世界観・価値観が骨髄まで行き渡っているようで、こういうあたり、ちょっと理解が及ばない。

 肉体を持って存在している、その奇跡と重大性はよくよくわかってはおりますが、でも、物質面さえ満足されれば満足だという感覚はない。

 むしろ、クローンでは、「別の個体の”身代わり”にされ、その子自身としては愛されない」ことに、なんとも寂しい気持ちになる。
 人形であればその辺の配慮は不要になるので、まあ、クローンよりはいいか。と思ったり。

 これは動物のみならず人間にありますよね、ご遺骨を加工してダイヤモンドにし、それを手元に残したり実際、身につけたりする、という。

 物質って、そこまで大事なものだろうか? というのが私の疑問。
 
 物質に執着することを非難してるんじゃなくて、物質に執着しすぎることで、すでに世に無い「本人」を、置き去りにしているように思えるから。

 脳死に至った方について考えても、全く、この世の存在というのは、物質と、物質「以外」が揃ってこそ、であり、双方が揃うことは本来は凄まじいほどの低い確率であり、その微小な確率を獲得した存在はすべてが「奇跡の存在」なのだ——と実感されます。

 いろんな別れかたがあって、その別れかたによってはあまりにも心残りで、もういない、ということが受け入れがたく、物質への執着になってしまう、というお気持ちは、わかる、と思います。

 でも、物質に「だけ」固執するのは、物質「以外」の部分を、かえって置き去りにしているように思えるんですよね、私には。

 私はお墓にはいません、という歌もありますが、どこか違う場所なり、ものになりして、存在している——そちらの方へ、意識を向けてあげた方がいいんじゃ無いかなと思います。
 と申しますのは、物質「以外」のものの方が、その存在の「本質」に近いだろうと思うゆえです。

「本質」はあくまでも、物質と物質以外のものの融合ですが、それが解けた状態であるなら、物質「以外」の方が根元に近い。
 物質はいずれ必ず滅びるけれど、物質「以外」のほうは、不滅の存在によほど近いところにいるから。

 物質が滅んだときの別れが辛かったのに、クローンなり人形なりで、またその別れを繰り返す(その可能性を引き込む)のは、——自分がつらくなるだけでは?

 物質が滅ぶときの別れは仕方がない。そのあとは、物質「以外」の、不滅に近いところにあるものに目を移せば、もう、別れは二度とない。

 こっちの方が相手にも自分にも、幸いなんじゃないだろうか? ——と思うわけです。

 死は2度訪れる。まずは肉体の死。そうして人々から忘れられていくという「2度目の死」。
 ………なんてことを言いますが、物質に執着すると、この1度目の死の別れを何度も自分の経験として繰り返しかねないわけで。

 自分が生きて覚えている限り、2度目の死はなく、別れは2度とない。

 私がこの手の「物質に執着する」人を見るとなんとなく落ち着かない気持ちになるのは、もちろんご本人の精神衛生が気になることもありますが、どっちかつーと、物質にこだわる間に放置されている存在の方が、気の毒になってしまうから。

 ……でもまあ、どっちにしても大きなお世話なんですけどね。(^^;)
 
 
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