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複雑さに耐える

 新進気鋭と言っていいのでしょうお若い女優さんが、宗教団体の信者であり、この度「出家」することになって芸能界引退——とのこと。

 私は例によって芸能界等のお話には疎いんですが、入信も出家も構わないけど、それがどーして芸能界引退ということにまで結びつくのか、不思議にも思います。
 信仰は「内心の自由」ってことになるんだし、それだけならべつに仕事に支障があるようにも思えないなあ、ってことで不思議に思っております。

 この話題をきっかけに、例によっての井戸端会議では、「宗教はなぜでしゃばるのか」というお題になりまして。

 別に何を信じていようとかまわないよねえ、「人に迷惑をかけないなら」——という一言が出たあたりで、この発想が日本人的なんだろうな、と思ってひとりでニヤニヤしてました(笑)

 人に迷惑をかけなければ、という条件付、一見、いいようでありますが、でも実際にはなぜ揉めることが多いかというと「何を持って迷惑とするか」の基準が、かなり人によって違うから、でしょうね。

 私は先般にも申しましたように、「一神教はどれも平等に嫌い」ではありますが、だからって別に、人さまがそちらの信者であったとしても気にしません。
 ツイッターの方ではとあるキリスト教の教会をフォローしているほどで(笑)

 私はああいう原理が嫌いだけれど、それを信じるという人、それで救われたという人を否定する気も全くない。
 要は誰かがその苦しみから救われればそれでいいんで、その人がそうだったというのなら、それはまことに結構なこと。よかったですねえ、つって聞いてます。
 
 さりながら、その人にはそれが救いとなったからって、そこで私に押し付けてこられれば、これはもうね……喧嘩になりますね。(^^;)

 自分にとってよかったものを、他人にも良かれと思う、それも人の親切心というものであり、善意というものであり、広い意味では愛情ですよね。それはそれで、美しいことだと思います。
 が。
 小さな親切大きなお世話という言葉もある。
 自分にとっていいからって、他人にもいいことか、と言ったら、それは違う。

 価値観の多様性、みたいなことがよく言われますがでも結局——多様性の共存のためには、例えばこんなふうに、
「自分にとっていいものが他人にとってもいいこととは限らない」
「価値観の押し付けはいけない」
 という価値観、考え方は、共有される必要がある。

 いろんな価値観があってもいいよね、と言えるためには「いろんな価値観があっていい」という価値観を、前提にする必要がある。

 いろんな価値観など必要ない、「正しい」もの以外はあってはならない、というのも例えば一つの価値観なんですが、これは明らかに「いろんな価値観を是とする」価値観とは対立する。せざるを得ない。

 こういうところが、結局、宗教と人と社会の「共存」の、難しいところなんだろうなあ。

 先だっては、ムスリムのハラールについて、ムスリム自身は別に何も言わないのに、なんかよくわからないムスリムでもない奴が勝手に行政にハラールを「定めよ」と騒いで、かえってムスリムには迷惑をかけている、というお話もありました。

 ややこしいことになるよねえ、というのが、井戸端会議での一応の結論。(^^;)

 個人的に、でも、えらいなと思ったのは、そういうわけで価値観の多様性、とくに宗教には「信念」がついてくるので、そのややこしさも倍増される、とは認めつつも、だからって、宗教なんかくだらないよやめたらいいよ、という話にはならなかったこと。

 面倒だからってすぐに切り捨てる、大雑把なご意見がネットには多く見られますが、この井戸端会議ではそういうこともなく、「まあ、宗教も難しいよね」と、難しいことを丸ごと認めているところは、エライ。

 今すぐに「片付ける」ことはできない難しさを、「そのまま」、ひとまず受け入れておく。

 これ、案外、できそうでできない態度だと思うんですよね——ことに、すっごい些細なことで激怒するような人が目につく、今の社会では。

 宗教も人生も、どこかに複雑なものがある。
 それを、そんなものと切り捨てずにそのまま持っている——、これも、大事な姿勢じゃないかしらと思った次第。

 その昔、私をキリスト教に帰依させようなどと無謀なことをした人も——最後には本当に大げんかになりましたが——、こういう姿勢を持ってくれていたらよかったのになあ、と、変なところでしみじみしてみたり。(^^;)
 
 
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