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結ぶ情熱



 オタクと言われる人々の大多数は、やっぱりちょっとばかり「好き」のエネルギーが大きくて、また集中力も並ではないところがあり、それゆえに、「みんなとは違う」部分も出てきてしまう。
 みんなとは違う、ということで排斥された経験は多かれ少なかれ、オタクにはあると思われます。

 けれども、オタクの健気なところは排斥されて人を恨むでもなく、と言って自分の好きを放棄するでもなく、ただ、「人から嫌がられるのなら目立たないところにいよう」という、実に平和的な選択をする点にある。………と思っております。

 基本的には争いを好まない。
 他人から嫌われるのは(その理由も)わかるので、だったらお邪魔にならないところで、と言って日陰にいたのに、——遠慮会釈も恥じらいもなくズカズカ踏み込んできて、「内心の自由」を踏みにじってんのはいわゆる「一般人」の方なんですよねえ。

 魔女狩りする連中の方がひどいサディストの人殺しなんだよな、——と思って見ております。

 そういうわけで、オタクというのは、上のツイートにもあるように、自分の妄想と、過剰に冷たい現実とを、身をもって経験している。だから逆に、妄想と現実の区別は厳しくしているところがあります。

 確かに、その辺は理解されないことが多いのかなあ。
 妄想と現実の区別のつかない犯罪者が不幸にして混ざってきたこともあるけれど、実のところ、そういう犯罪者はオタクの中からも排斥されるんですよね当たり前だけど。

 でも、「外部」から見れば、オタクは元から「みんなとは違う」存在なので、「みんなとは違う犯罪者と同じ」だろうという烙印を押され、その烙印が正しいのかどうかなんて検討するほど謙虚な人間は滅多にいない。

 それも徐々に解消されつつあるようで、そのこと自体は嬉しくもありがたくも思いますが。
 ………でも、こういう偏見なりなんなり、消えることはないんでしょうね。

 ことオタクに限ったことではなく、こういう——「人とは違う」ことを咎められて排斥される、ということは、ある程度まで少なくすることはできても、完全に消えることは、——今の人間が人間である限りは、なくならないんだろうな。

 私がこちらのツイートを見てふと思ったのは、「過剰な好きのエネルギーゆえに排斥されるけど、でも、やはり好きということに救われてきたのだ」ということ。

 妄想と現実をきっちり区別する(せざるを得ない)理性の働きは、精神の健全性と無関係ではない。
 好き、というものゆえに排斥されても、好きという情熱があるゆえに、現実に耐えることも(なんとか)できる。

 あまりにも過酷な体験をし、過酷すぎる現実を受け入れきれず、現実から逃げるために、「これは私の身に起きたことではない」として他人格を作り出す、多重人格者のことを思いますと。

 ブツ切れになりそうな自意識を取り結んで、「自分」というものをつなぎとめることができる、そのエネルギーを、やはり「好き」の情熱は可能にしてくれるのかもしれないな、と、脈絡なく思ったのはそんなこと。

 とはいえ、現実から自分を逃すために、「好き」を作って、そこへ逃げ込んでいる、ということではない。この点は誤解されたくないですね。

 好きというのはあくまでも自主的なもので、あれを好きになろうとかそれを好きであろうとか考えても、心がその通りに動くわけじゃないですからねえ……。
 好きになろうと思って好きになることはない。
 こればっかりは心の赴くままのことであって、「考えて」制御できることじゃない。
 とすれば、「好き」があるって、恵まれた、幸せなことだといえますね。

 オタクと言われて排斥されるようなものであっても、「好き」は偉大。
 好きの情熱は、心がバラバラになりそうなときでも、人を人として結び留めてくれさえする。

 たとえ、世間様からは理解してもらえなくても。(^^;)
 好きがあるのは幸せなこと。——排斥されてもそれは忘れず、楽しんでいきたいですね。

 無理解に負けるな、好きの情熱、ってことで(笑)
  
  
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