I wish Love
2017年01月13日 (金) | 編集 |
 13日の金曜日ということで。
 私は仏教徒なんで関係ありませんが、ただ、やっぱりチェーンソーを振り回すヘンな人は脳裏をよぎっていきます(笑)
 子供の頃の刷り込み(に近いこと)ってなかなか、しつこいもんですね。

 で、実際クリスチャンの方々は気になさるのか?
 私個人はそういうのを見たことはありませんが、上司がアメリカ人女性だったことがあるうちの母によりますと、その上司の方も、13日の金曜日というとなーんとなく大人しく…というか、静かにお過ごしだったとのこと。

 チェーンソー男を怖がるんじゃなくて、宗教的な祈りとか、そういう日になるんでしょうか。
 不吉な日だからおとなしくていよう…と。
 まあ、たまにはそういう日があってもいいんじゃないでしょうか。

       ●


 塩野七生さんの人間観察眼、何かの事象からものを読み取る力には敬服するばかり。
 人間の本質を語る言葉にはいくつも印象的なものがありますが、一番印象的なもののひとつが、マレーネ・ディートリッヒのこと。

 映画エッセイ「人びとのかたち」の「自由な女」から。

「現実的で論理的で非感傷的で孤独も死も恐れないマレーネ・ディートリッヒは、しかし、ラヴやリーベという言葉はよく口にする。すばらしい人や作品や演技を、なぜすばらしいかではなくて、アイ・ラヴ…で括ってしまう。………この女(ひと)は、理解されたいと願うよりも愛されたいと望む人に思えた。」


「この頃の頭の良い日本の女たちは、愛されるよりも理解されたいと願っているのではないだろうか。だからこそあれほども、そろいもそろって饒舌になれるのではないか。」


「反対にマレーネは、話すことなんてないのよ、と平然という。理解を求めるよりも愛されることを望む方が、度胸がいるのである」



 理解されたいというよりも愛されたいと願う方が度胸がいる、というお言葉に、まあそうですよねとは言いつつ、イマイチ「意味」を掴みきれていませんでしたが、上のツイートを見たときに、あ、これだ。と腑に落ちたんでした。

 理解とは所詮は理屈であり、具体的には「情報」だけれど、ラブとかリーベとかいうとき、そういうものはあんまり意味をなさない。ラブなりリーベなりは、存在「そのもの」へ向けられる「感情」だから。
 理屈じゃない。

 理屈や情報で自分を語ろうとすれば、自分の「クズ」のところはできるだけ隠そうとするか、あるいは別のもので「偽装」するのが人間というもの。
 いいか悪いかで言ったらいいわけがない。でも、他人のそれを非難する人でも、実際には自分だってその偽装をしてる。

 理解されたい、ではなく、愛されたい、と堂々と願う人は、理屈を語らない。当然、その「クズ」の部分をも偽装しない。
 だからってこれが私のクズのところですと言ってわざわざディスプレイもしないでしょうけどね。(^^;)
 偽装も陳列も、故意にするのではただ嫌らしいだけで、そんなのは正直でもなんでもない。

 愛されたいと願うことが「できる」人は、良くても悪くても、自分を表現することを恐れない、ということなんだろう——と。

 理解されたい、というのはなるほど確かに、みみっちい感覚です。愛されたいという気持ちはあるけれど、だからって「クズ」の部分を含めて自分をそこに、「そのまま」置いておく勇気はない。
 愛されたいけど愛されたいと口にする勇気はない、だからせめて、「理解されたい」という。

 けれども、理解は所詮、理屈であり情報であり、理屈は実際の姿を「偽装」するだけ。

 とにかく臆病で、勇気などというものは私の人生の中では最大に欠けているもので、欠けたあまりに、「もういいですそういうの」と、変な方向へ開き直っておりまして。
 理解されたい、ということすら——というより、まずはこれを真っ先に放棄して生きてきた気がしないでもない。

 もういい、と、ずいぶん昔、まだ子供のころに、怯えるあまりに居直ってシャッターを下ろしてしまって「店じまい」していたので。

 愛されたいと願うことは、度胸、つまりは勇気のいること、という指摘にも、もっともな、とは思いつつ、どうもイマイチ、感覚的にしっくりきませんでしたが。

 ああなるほど、自分の一番クズのところを、ねえ——、と。
 それこそ、「理屈」ではなく「感覚」として、ようやく、(おぼろげに)わかった、気がします。

 でも、面白いことに、自分の一番クズなところって、これもまた、人との関わりで知らされることでもあるんですね。
 一人で壁に向かって座禅をしていても、あんまり、自分の一番ダメなところって、わからないかもしれない。

 それでも、愛することや愛されることは、永遠に変わらない願いでしょうし、それはもう遠慮なくどんどん願うべきことかもしれませんね。ま、個人差も、いろんな事情もあるので、無理することはないとは思うけど。

 愛されたいと願うことは勇気のいること、という「感覚」が、「勇気」の感覚が、腑に落ちました。

 愛されたいと堂々と願うことができる人であり、当然、自分が愛することにも恐れを持たなかったマレーネさんの場合、30歳(以上?)年下の、バート・バカラックとは30年以上も「一緒」だったというから恐れ入ります。

 バートバカラックはマレーネのコンサートに同行するうちに注目されるようになっていった(当時30歳前後)そうですが、マレーネは彼を聴衆に紹介するのに「私の愛する、編曲者で指揮者のバート・バカラック!」と言っていたとのことで、堂々たるもの。

 恐れず、勇気がある——とは、誰もが憧れるところであり、自分もそうでありたいと願うところでしょう。

 理屈や理解は、それはそれで大事なものだけれど、でも、本当に度胸のいる、勇気のいることは、そこにはないということ。

 マレーネを取材したドキュメンタリーの中で、彼女はこういっているそうです。

 —— I wish love. This is Marlene Dietrich.

 
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