本当に言いたいことは
2016年12月27日 (火) | 編集 |
 映画「羊たちの沈黙」を見てきた友人が、そんなことってあるのか、と言ったのは、レクター博士が、隣の独房にいる男を、指一本触れずに殺したことについてでした。

 レクター博士は隣の独房の男を言葉だけで殺した。
 そんなことが可能なのか、——と、ちょっと納得しがたい、映画とはいえ「盛りすぎ」じゃないのかという感じでした。
 私の返事はあっさりしたものでした。
「できるよ」

 レクター博士は悪魔的に頭がいいし、その頭脳で人間の心理を知り尽くしている。言っちゃなんですが隣にいた男はあまり頭は良くない方で、それゆえに凶暴ではあるけれど、(博士から見れば)自分の弱点をさらけ出して歩いているような男。
 そんな男を「言葉責め」にして自死に追い込むことくらい、博士にはなんの造作もないことでしょう。

 レクター博士ほどの頭脳を持たずとも——私どもも言葉で人を殺すことは、しょっちゅう見ているし聞いているし、気づかないだけで実行もしてる。何も驚くことじゃない。

 レクター博士はその意図を持って的確に言葉で相手の心臓を刺すことができましたが、彼ほど頭の良くない私どもは、意図を「持てない」ことが多い。
 知らないうちに、気づかないうちに、言葉で誰かを刺し殺していることがある——そう思うと、なかなか恐ろしい。私どもはレクター博士よりも残忍な犯罪者ってことになりますんで。

 殺人事件や、未遂事件において、犯人が「殺すつもりはなかった」ということがありますが、馬鹿なことを言ってるなあ、と思って聞いてます。法律が問うているのはつもりがあったかなかったかではない。「やったのかやらなかったのか」だけ。

 日本の裁判はそういう本質を見落として、妙な慣例、ローカルルールで進行するところがオカシイと思ってますが、犯人にああいうことを言わせるのも、そのおかしな慣例の一つだと思ってます。

 言葉で人を殺すことは可能であり、その罪の重さには、つもりがあったかなかったかは関係ない。——と、そのように考えます。

 ツイートや、あるいはこのブログエントリーで、ちょっとばかりネガティブな話題になるとき、とにかく固有名詞は書かない、というのをポリシーにしていますが、それが、理由です。

 何かの事件に関わることなら実名を伏せて、「こういう人がこんなことをしたそうですが」と書くだけで、大抵の人には、ああ、あの話題かとわかるでしょうし、そうではない人にも「何が起きたか」がわかるようには書いている、つもりです。
 してみると、個人名を出す「必要」はないってこと。

 ある話題を聞いて、それについてガーッと「怒って」書いているときには、固有名詞は必要だろうと言われたこともありますが、必要ないですね。
 どうしても、固有名詞を出して特定しないと「話が見えない」なんて事態はまず、ない。

 例えば誰ぞが不倫しました、なんて話を聞いたときに、書きたいことの本題は、その話題の誰かについてじゃない。
 不倫、不貞行為とされるものについての、自分の感情だったり考えだったりのはず。

 何かの話題を耳にして「意見」を言いたくなるとき、「本当に言いたいこと」は、実は自分の感情、自分の考え、自分の経験、そういうものなんですよね。
 芸能人の誰ぞの不倫の話というのは、「言いたいこと」のきっかけに過ぎない。
 だから、固有名詞を出す必要はまったくない。

 それでもどーしても固有名詞を使わなければならない、というのなら。
 その人は単に、他人のことをとやかく言いたいだけ。
 自分とは縁もゆかりもない、これ以上はないほどカンペキに赤の他人のことをいいだの悪いだのと言いたい。——こういうときには、そりゃ、固有名詞、個人の名前を具体的に挙げることになりますね。

 でも、大抵の人が本当に言いたいことは、自分のことのはず。

 芸能人の不倫疑惑なんて話題で、ものスッッゴイ勢いで怒る人がいるんですよ。
 私はあれが不思議で。

 そりゃまあ不倫なんぞいいか悪いかで言ったら、良いことのわけはないけれど、何にしても他人事であり、なんであんたがそんなことで、そこまで「怒る」必要があるのよ、血圧上がると体に悪いよ? と思っておりました。

 が、あるとき、ふと、その人が漏らした言葉から、その人自身に、パートナーにひどく裏切られたことがあるのだ、とわかりまして。
 なーんだ。と思いました。
 あんたが怒っていたのは〇〇さんじゃなくて、自分のパートナーのことだったんかい。
 そんならそうと最初からそう言えばいいのに。——と思ったけど、さすがに本人には言ってません。

 さらりと聞き流すことができず、過剰に、あるいは過激に反応してしまうのは、原因は自分の中にある。
 本当に言いたいことがあることに気づかず、本当のことを言わないまま、他人の悪口というところで終始するからおかしなことになるんだなと思いましたね。

 自分のことを話せばいいのに、と思ったけれど、まあこれも——過酷なことなんでしょう。
 でも、本当に怒っているのは自分のことについてなのに、その怒りを他人の悪口に転嫁する、そればかりか「正義」を振り回して言葉で人を殺そうとする、というのは、卑怯というだけでは収まらない罪深さ——だと思うんですよね。

 ネガな話題で描くときは、「自分が本当にターゲットにしていることは何か」を考え、そちらに意識を向けるようにしています。
 これ、「固有名詞を出さない」というのを実行するだけで、あっさりできてしまいますからオススメ。
 特別な技法、メソッドは要りません。

 何かの話題について話すとき、固有名詞を出す=噂話をすることを「正当化」しようと、あれこれいう人もありますが、今のところ、なるほどそれはもっともなと思ったものはありませんね。

 本当に言いたいことを隠したまま、別のことにかこつけて話すと、どうしてもどこかで無理が生じたり、ゆがんだりするので、「論理的に矛盾」する。
 自分を正当化しようと屁理屈を考え出すのは人間の脳みそ、新皮質脳の得意とするところだそうですが、でも、何をどうしようと屁理屈は屁理屈ですから、「無理」が生じるんですよねえ。

 私が願いとするのは「世の中からゴシップが消えてなくなること」ですが、それもなかなかないでしょうから——ともあれ、私自身は、ネガな話題なら個人名などは書かない、というポリシーで、今後も続けていきたいと思います。

 逆に「いいこと」「おめでたいこと」「褒め倒すこと」は、そりゃもーがんがん固有名詞でいきたいと思います。

 呪いは小さく祝福は大きく。

 言葉を過たず使っていけるように。
 あらためて、そんなことを願う年の暮れ。

(何かあったか、とは聞かないでやってください。(^^;))
(それは「私の言いたいこと」ではないので/笑)
 
 
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