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愛は惜しみなく奪う

 今朝午前6時ちょうどを前後にして地震がありました。
 うちの方は震度では大したことはなかったようですが、ただ、時間が長かったのと、あのゆらゆらするミョーな横揺れの感じに覚えがあり、もしや、と思いました。
 思いましたが朝は忙しい。ついそのまま、テレビもつけずツイッターも見ずにいたので震源地その他、1時間ほど何も知らずにおりました。

 今の所は幸い大きな被害の情報もないし、津波警報も注意報になりましたし、このまま、収まってくれることを願うばかり。

 で、これ、気象庁によればやっぱり、2011年のあの地震の「余震」だそうですね;;
 数年にわたって、震度4、5の「余震」はある、と言っていたけど、本当にそうなんだな、と。

 注意報解除まで、どうぞご油断なくお過ごしを。

 あと、ツイッターでもちょいちょいつぶやいているのをお見かけしますが、この地震の影響は直接にはない地域の方々は、必要であれば情報を絶ってくださいね。
 震災でも、テレビなどの情報を見ているだけで精神的ショックは同じなので、避けるように、という注意喚起が出ましたから。

 情報の扱いについてはあらためて考えてしまいますね。
 なんにしても、落ち着いて参りましょう。
 慌てても状況が変わるわけでもないんだし。

        ●

 また抽象的でわけのわからん寝言になって申し訳ない。ので、できるだけ手短に切り上げたいと思いますが。
 いわゆる「芸能人」と呼ばれる人々の、「泉」であることについてぼんやり考え中。

Read Selena Gomez’s Emotional Speech at the American Music Awards
2016/11/21 9:00 AM  TTIME Staff
 
 昨日は American Music Awards 2016 の授賞式がありましたそうで。
 ご病気のためにその活動を休止する旨、すでに発表されています、セレーナ・ゴメスさんは、同賞「the award for Favorite Female Artist — Pop/Rock」(もっともお気に入りの女性アーティスト・ポップ・ロック部門)を受賞なさいまして、そのときのスピーチ。
 翻訳はこちらに。↓

セレーナ・ゴメスがAMAに出席!受賞スピーチで涙ながらにファンに感謝
楽天Woman ニュース

 芸能、芸術というのは概ね、神や天に捧げるものとして始まっていますね。
 歌でも舞踊でも、あるいは演劇、詩……、何かに「捧げる」ということは「無償」の態度です。
 言い方を変えれば「ただ与える」だけのもの。

 実際には、神や天に捧げるのも、人間の希望を叶えてほしいという気持ちはあるけれど(天候の安定とか五穀豊穣とか)、明らかな見返りを期待しているわけでもない。
 わかりませんからね、人間には、神様のお気持ちなどは。(^^;)

 一方的に「与える」もの。
 芸能が持つ「徳」というのは、素晴らしい歌なり舞踊なりで、天のみならず、人の心をも慰め、あるいはエネルギーを上げて、生命力を湧き立たせる。そういうところにある。
 多分これって、やっぱり「愛」ですよね。

 とりあえず現代社会の金銭的なこととや俗世の仕組みのことはすっぱり忘れていただいて、そういうことは取っ払って、私が話しているのはもっと「原始」のもののことだとお考えいただきたいのですが、——本質論、というのかな。

 歌や舞踊、芝居、歌、朗唱、……芸能は人を感動させる。感動すれば「魂(たま)振り」が起こり、人の心ばかりか体にまで「元気」「勇気」「活力」を与えることができる。
 古来、芸能に携わる人々が、特別な——ある種「聖職者」の扱いを受けるのはそんなところに理由がある気がします。

 さて、しかし。

 いかに才能に恵まれ、天上から愛でられた人であるにしても、生身の人間は、生身の人間。
 人が、ただ「与える」だけでは「壊れていく」のは、当然ではないかと思います。

 人間関係の良好さとは「循環」があることだというのが私の考えるところ。

 どちらか一方だけが与え、どちらか一方だけが奪い続ける、というのが健全な人間関係ではありえない。家族でも友人でも、仕事仲間でも。
 互いに与え、互いに受け取るという「循環」があってこそ、人間関係として成立する。

「神子(みこ)」としての芸能人と、そのファン、というのも、広い意味での「人間関係」だとすれば、やはり、そこには循環がなければ成立しないはず。
 そのはずですが、でも。
 ファンという人々が、時にどれほど残酷な略奪者になるかを、私どもは知っている。

 他人の振る舞いを見ても、あるいは自分自身の中にも、その残酷さがあるのを、知っているはず。

 神ならぬ身。人は、与えるだけでは壊れてしまう。
 奪う方も——奪うだけではいずれ、自分の行いの残酷さ(それを自分で認めようと認めまいと)に傷ついていく。

 私が、有名人芸能人と言われる人々に必要以上にわあわあいうのが嫌い、他人の振る舞いであっても見るのも嫌、というのは、この辺が理由ですね。

 私自身はセレーナ・ゴメスさんのファンということではないのですが、ただ、あまりにも、彼女のスピーチを聞いてもこちらの方が胸が苦しくなるほどで、でも、そういう中でもよく抑制の効いた言葉で、——頭のいい、素敵な人だなと思いました。

 そういう人を——そういう人「から」犠牲にしていく現代社会、そこにいる人々——。
 ——ひでえもんだ。
 しみじみ、そう思います。

 愛は惜しみなく奪う、と言ったのは有島武郎でしたね。
 十代の頃の私は、その言い方には大いに不満に思いましたが、今は——なるほどそうかもしれない、と、うなだれています。(年をとったんですかね/笑)

 いわゆる有名人を「同じ人間扱いしない」残酷な人々を、胸焼けがするほど見てきました。
 ……こういう残酷さって、どうしたもんでしょうかね。

 与えるということは素晴らしいことですが。
 誰かが与えるだけ、誰かは奪うだけ、というのではその素晴らしさの意味がなくなってしまう。

 本当は、与え「合う」ことがあってこそ、豊かな人間関係になるんだと思います。

 その素晴らしい泉も、水は無尽蔵ではないし、水を求めてずかずか踏み込めば泉は荒れてしまうということを。
 なんとなく、つらつら、考えております。

 与えるだけでも奪うだけでもない、与え合い、受け取り合う、循環。
 それはあまりに遠い理想論なんでしょうか。

 ………そうは思いたくないんだけどなあ……個人的には。
  
 
 
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