異端であること
2016年11月16日 (水) | 編集 |
 昨日は「個性的、は褒め言葉だが、変わってるね、というのは褒め言葉ではない」ことについて喋りました。

 私自身は自分のことをそう変わった人間だとは思っておりませんで、平凡でつまらない、別にどってことはない、なんの取り柄があるじゃなし、特技もないし、特徴もない——どうかしたら四角四面で面白味に欠けるくらいだと思っているのです。が。
 友人知人どもからは同意を得られた試しがない。

 なぜ私が、私のどの辺がそうも変わり者だというのか、と聞くと、「自分を変わってるとは思ってないところが変わってる」という回答には、ほんと、参りました。

 そんじゃなにかい、世間一般の「変わってない」人たちは、自分のことを「変わってる」と思ってんのかい。と言ったらば、
「変わってるとは言われないように気をつけてるはず」

 友人どもがいうように私が本当に変わり者であるなら、よくもまああの人間未満のケダモノの時代——思春期とかギャングエイジとか言われる、中学生くらいの年齢の頃——に、いじめられなかったもんだ、と思います。
 が、これを言ったら母には「あんたはいじめられたら、いじめ返したでしょうが」と突っ込まれたんですが記憶にございません。

 くだらない集団によるいじめに加担させられそうになったので、啖呵切って、ぜひ私を被害者もろとも「シカト」しろ、と言ったことがありますが(こっちこそお前らなんかとは付き合いたくナイんだよ、という主旨の発言をした)………あれ、いじめ返したっていうのかな。

 あんな連中とつるむくらいなら一人でいる。一人でいては殺されると言うのなら、それはそれで仕方がないね——。
 そういう感覚はある。
 そのことを「変わってる」と言われているのなら——まあ、変わってんのかなあ、と思います。

 別に気持ちに迷いはないけど、そんなにコレってイケナイことかしら、と、もやもやしていたんですが、それを一気に吹き飛ばしてくれた言葉がありました。

「異端とは、孤独を恐れない勇気です」



 ………いわゆるBL小説の「富士見二丁目交響楽団(ふじみにちょうめこうきょうがくだん)」(秋月こお/角川ルビー文庫)に登場したセリフで。

 ああそうなのか、と、すっと腑に落ちた言葉でした。

 勇気なんてそんなに大した「徳目」じゃない、と言ったのはサン=テグジュペリでしたが——ともあれ、あんなものを勇気と言われると、ちょっとどうでしょう? と首を傾げてしまいますが、それでも、ああなるほど「異端」ね。と。

 異端とは、国語辞典の定義には、

「その時代の大多数の人から,正統と認められているものから外れているか,それに反対する立場であること」


 とあります。

「異端」。
 この言い方の方が、わりとしっくりくるし、「何を言われているか」もわかりやすい。変わってるね、などと言われるよりは。
 ちょっとカッコイイ気もするし(笑)

 とはいえ——四角四面で面白く無いうえに、さらに異端て。
 いいところが無いな。( ̄▽ ̄;) まあいいけど。

 ともあれ、異端と言われれば、どんなふうにネガな印象なのか、よく分かる。
 以後、変わってると言われたときには、脳内で異端という言葉に置き換えてます。
 で、そうですか、と言いながら内心でにやにやしているという(笑)


 他の大勢の人と「同じ」でいて、それで安心を得ようというのも、「他人とは違う」ことで自分を確認しようとするのも、根っこは同じようなもんだと思うので、私としては、変わっていてもいなくても、たいした違いではないように思いますね。
 だから変わってるの異端だのと言われても(わりと)平気でいられるようです。

    ※     ※

 このエントリーを書くにあたって、怪しげな記憶を補強するために「フジミ」の検索をしましたが、——そっかー、今はkindle 版があるんですねえ。時代だなー。
 
 
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