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2016.11.12 (Sat)

自由のための殺戮

 そろそろ、アメリカ大統領…っていう字面を見ただけで避けたくなってきません?(笑)
 私はそんな感じです(笑)

 それでも今回のことは、いろいろ示唆に富むというか、またひとつ、「人間」というものについての材料になってくれているので、選挙やその結果についてではなく、そこから見えてくる人間というものについて、あれこれ考えて「楽しんで」ます。
 ハタから見ればそれこそ基地外沙汰でしょうが、しょーもないことをひっくり返しひっくり返し考えるのは、私の「趣味」の一つです。( ̄∇ ̄)
 いいよもう、どうせ一種のヘンタイなんだからさ。

”クリントン敗北の要因の一つはポリコレによる言葉狩り” 在米駐在の中小企業サラリーマン、梓弓さんがアメリカの実情を解説。
togetter まとめ
http://togetter.com/li/1046979

 とりあえずここにある一連のツイートや、そこにつけられたコメントツイートは「まともに聞かないでくださいね!」と、それをお願いいたします。
 全てのことは「話半分」で。
 私が興味を持ったのは、これ、まとめじゃなくてその下にある、コメント欄です。
 しかも議論の内容を取り上げる気はゼロなので、何卒よろしくご承知おきください。

 こちらのコメ欄では、「PC ポリティカリーコレクト(ネス)」「リベラル」と「反PC」「反リベラル」の言い争いになってまして、双方で、相手に対してお前はバカだ、お前らは暴力バカだ、と罵り合っております。
 
 クリントン支持派は暴力的だ、トランプ支持者はヘイトクライム真っ最中だ、というのも、双方にある。

 なにこれ。
 と思っていたら、やはり数の中には冷静な方もいらして、次のようなコメントが。
 私はこれが一番腑に落ちました。

スクリーンショット 2016-11-11 21-06-54

「人間、昔から、自由になるためにあまりにも多くの血を流してきた。この話題で出てきてる反PC、反リベラルも、規制しようとしている相手への反発、自由への渇望から、こういう感情が噴出しているんだから過激になるのは当たり前でしょうな。」



 本質を見るってこういうこと。

 主義主張は「枝葉末節」。
 結局、人間が「なにをしているか」という本質は、これ。

 なるほど、世の中にはいろんな「正義」があるけれど、その正義の中でも最大級の正義は「自由」。
 確かに、古代から人が求めてきた「利益」は、自由であることと関係が深いか、あるいは自由そのものが利益となっている。

 人は本来、自由だし、そうである「べき」なので、自由を求めることは、本来は、なにも悪いことじゃない。
 では、なんでこんなことになるのかといえば。
「自分の自由のために、他人を犠牲にする」
 ということに尽きる。

 自分は自由であるべきだ。でも、あいつはそのためには自由であってはならないのだ。——男尊女卑であれリベラルであれ、「問題」になるのはいつもこの精神。

 さて。
 世の中の全ての人が自分の自由を求めてもいいのだとしても、それは実現可能なのか。
 結局、自由を得られるのは「勝者」だけだろう。だから戦って勝たなければならないのだ——と。
 そういう考え方には私は賛成しません。

 70億の人間がいて、それが全員自由であることは可能なはず。
 ——本来は。

 これまでの人類の歴史を見るに、結局、あらゆることは——国という単位のことでも、個人というレベルのことでも、そこに起こるすべてのことは、「バランスをとる」ことを促し続けているんじゃないでしょうかね。

 私は正義も正論も、何かの主張も主義も(屁)理屈も信じない。
 そんなところに自分の価値観の基礎を求めたら必ずどこかで行き詰まる。
 正義よりも、確かな価値観は「道理」だと思ってます。

 いつの時代だろうがどんな社会だろうが、揺るがない絶対法則が、「道理」。

 結局、道理が言っていることってなにかというと、「すべての人にとって、いいように」。

 自分が自由ならあなたも自由だ。それが本来の「道理」というものだ。
 けれどももし、私の自由があなたの自由と「衝突」するのなら、それは、「道理」からは、何か、どこか、ずれている、ということだ。

 すべての人にとっていいこと、というのは、いつでもどこでも、いいよいいよと言って「甘やす」ことじゃない。
 ときには、犯した罪を「適切に」償うことこそが、その人にとっての「いいこと」ってこともあるわけで。

 因果応報、という「法則」に通じるものがあるようです。

 人は自由のために殺しあってきた——という言葉に、あ、ホントだ。と思い。

 でも、あらゆる人は本来、自由だ、というのはそのとおりなのに、なぜ、殺し合いになるのか。

 それは、「自分は自由だが、他人の自由は認めない」——こういうところに落ち込むから。

 自由であるということは「愛」でしょうが、「自分はいい、他人はダメ」は「エゴ」。

 アンチ派は、(いわゆる)リベラルの心の狭さを嗤うけど、それは自分だって同じ。

「正しい」という概念に縛られて、「自分はOK、他人はダメ」のエゴに振り回されていることには違いはない。
 目糞鼻糞を笑うとはこのことですな。

 元から「正義なんてさっさとドブへ捨ててこい」の私でしたが、正義というよりももっと範囲を広げて「正しい」なんてものは捨ててこい、と言ったほうが、よさそうですね。


 なかなかの達見(たっけん)でございました。

 それにしても。
 何かが起こり、何かが揺り戻すその度に、誰かが傷つき殺される、——こんな「学び」は、そろそろやめにしてもらいたい。
 
 つくづく、そう思います。 


 …………なんかいまミョーなストレスが溜まってまして、ただいま、猛烈に、超絶くだらない腐女子の萌えトークを展開したい気分です。
(藤原)頼長さんの「台記」をテキストに、源氏物語に二人登場する「小君(こぎみ)」、平家物語の敦盛最期あたりで、ドン引きされまくりの腐トークをしたい!(すれば)

 ………なんのストレスなんだろ、これ。(^^;)
 
 
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タグ : 人間 腐女子

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