諸行無常のニュートラル
2016年09月13日 (火) | 編集 |
 春や秋は、季節の変わり目のせいか、真夏や真冬よりも訃報を聞くことが増えますが、私もちょっと。
 もう御歳90歳という方なので、これという病気をしたとかではなく、限りなく大往生に近い老衰、とのこと。
 逆におめでたさにあやかりたいくらいではありますが、私にしてみると、ある部分、実の親よりも頼りにしていたくらいの方なので。
 ………ちょっとがっくりきております。

 謡曲「兼平」にも、老少もって前後不同、夢幻泡影(むげん・ほうよう)いずれならんと言いますが(この世のことは夢まぼろしのようなもの、年上のものから順番に死ぬとは限らない、くらいの意味)——「いちばんの何よりの親孝行は、親より後に死ぬこと」と言われたこともあるし、そう考え得れば、……まあ、これでいいんだよねえ、とも思ったり。

 父の年忌法要が終わった直後の訃報ってことで——ちょっとだけ、ああどうしよう、という気持ちがあります。………動揺してんだよーするに;;


——見し夢を 忘るる時はなけれども 
   秋の寝覚めは げにぞ かなしき

(新古今和歌集 巻第八 哀傷歌 七九一)
http://www.karuta.ca/koten/koten-kan8.html

——春の夜の夢のごとき悲しみを忘れる時はありませんが、秋の寝覚めは本当に悲しいものです。


       ●

 こんな場面に出会うと「諸行無常の世の中ですねえ」みたいなことが言われます。
 確かなものなどない、この世は儚いものだ、人の命も同様である、という感じで、ずいぶん寂しげな、ちょっと空虚な雰囲気を醸し出す言葉として使用されますね。

 でも、諸行無常というのは「この世はそういうものだ」と言っているだけのことで、別に、ネガでもポジでもないんですよねえ。
 ただ淡々と「事実」を指摘しているだけなんだけどな〜。(^^;)

 それをネガティブな方に「だけ」解釈するのは、言葉の使用者、人間の勝手な思惑。

 諸行無常——あらゆることは「常」に同じではない、変わらないものなどない、ということは、そりゃまあ、いいことが長続きしないと思えばがっかりでしょうが、今、ものすごく苦しくてつらい、という立場や環境にある人にしてみれば、「この苦しみも永遠ではない=無常」というのは、希望となり得ることですよね。

 諸行無常はもちろん仏教からきている言葉ですが、そういうわけで、この言葉はただ事実を指摘しているだけのことで、本来は、いいも悪いもございません。
 なのに、長いことネガティブなイメージにばかりさらされてきちゃったんだなあ、と、ちょっと気の毒に思っております。(^^;)
 もちろんそれだけ平家物語が優れた詞章だということでもありますね。

 つらい立場や環境にある人には希望となり得るだろう、とは言っても。
 なかなか、そういう状況にあるときは、そんなことも思いつかないものですよね。

 明けない夜はない、などと他人に言われると、猛然と腹が立ってくることさえある。
 そうなってくると、諸行無常という言葉も希望の言葉として聞くことはできず、「すべてが無常であるなら、自分もまた無常であって何が悪い」という心持ちになることもあるもので。

 無常といいながら、なぜ自死は「ならぬこと」か。
 ずいぶん淡々と、けれども決然とした口調で、聞かされたことを思い出す。

 その人自身もまた、いざとなれば自ら無常となればよいと思っていたのに、何をどうやっても死にきれない、という——絶望のうえにさらなる絶望を味わったご経験のある方だったので。
 いかにひねくれ者といえども、その言葉は聞くしかないものでした。(^^;)
 もう聞くしかないんだけど、納得しているわけでもない、ってところが、我ながら強情ではございました;;


 今日はそんな具合で、静かに故人を偲びながら過ごしたいと思います。
 
 
関連記事