死んでも命があるように
2016年09月12日 (月) | 編集 |
 年齢というか、若さと老いとの関係は、どんな人にも必ず訪れることであるゆえに、なかなか深遠なものを見せてくれるようです。

 カルチャースクールで一緒になる、とある現役高校生、某ちゃんが、ずいぶん大きなマスクをつけてきたので、「おや、どうした?」と聞いたら、「風邪をひきました」と。
 そしたら私の横にいた何某さんが、思わずといった様子で、
「まあ。若いのに」
 無理もありませんが某ちゃん、ちょっとムッとしたように
「若くたって風邪は引きます」
 そりゃそうだ、と思わず笑ってしまいました。

 多分、こういうわけのわからんことを年上連中から言われて「はあ?」となったという経験は、大抵に人にあるんじゃないかと思います。
 なんだそれ、と思うこともあるでしょうが、お若い方。これ、単なる「年寄りのひがみ」に近いものがあるので、聞き流していいですから(笑)

 ただ若いというだけで、すべての価値に勝(まさ)っていく、という、そんな幻想または錯覚に陥ることがあるんですよ。
 でも、思い返せばわかるように、若いからって風邪をひかないなんてあるはずもなく——むしろまだ、厳密には成長途中であるゆえに骨格は完成しておらず、体力も不十分なところさえある。
 ……私などはむしろそれくらいの年齢のときのほうが現在よりはるかに虚弱状態だったんで。この辺は実感しますね。

 でも、老いというものを実感したとき、確かにもう自分は若くはないのだと思ったとき。
 若い、ということが、ただそれだけで何よりも素晴らしい、価値のあるものに思えてしまう。
 そういうときがある、ということ。
 あんまり気にしないでやってください。深い意味があってのことじゃない。ただ、若いっていいなあ、と思っていることが、そんな風に「うっかり」表現されてしまっただけです。

 若いということの価値は確かにあるものだし、不可逆(元に戻れない)だからなおさら、そんな風に思えるんでしょう。

 でも、肉体的には例えば20歳くらいに戻りたいという人でも、知識なり知能なり、今の自分が持っているものの考え方とか技能とか、そういうものも20歳時点の状態に「リセット」されるのは嫌だって言うんですよね。(^^;)
 肉体だけは若くありたいけれども、中身———若くはない(少なくとも20歳ではない)現在の自分が持っている、経験なり知見なり、知識なり技能なりは、「そのまま」持っていたい、と。
 これはいささか図々しい。

 今の自分が、ちゃんと20歳当時の自分よりも成長して成熟もして、その点についてはそれなりに自分で認めているってことですよね——中身はそのままで、と願うのは。

 だったら、今20歳の人を、羨んだり妬んだりする理由はないでしょうよ、と思うわけです。

 ……そういえばそんな戯れ唄がありましたっけね。

「いつも3月花の頃
 女房十八、わしゃ二十歳
 死なぬ子3人みな孝行 
 使って減らぬ金百両
 死んでもいのちがあるように」



 無茶言うなっていう、ね(笑)

 成立年代、作者、ともに不明の戯れ唄ですが、人間の、ある意味究極の「理想」ではあるんでしょう。
 まあ、これを聞いて笑っているようなら健全でしょうね。
 真顔になられたらちょっと困ります(笑)

 若いというだけで何もかもに勝るという思いにかられることも、たぶん、たいていの人にはあること。
 今は、オトナどもに変なこと言われて「はあ?」と思うだけでしょうが、そのうち自分にも分かることだろうとだけお考えになって、——そういうものは聞き流してやってください。

 結局、人は自分自身に復讐されることがあるんですよね——甥っ子姪っ子にすら、おじさんおばさんと呼ばせない、という同級生を不思議に思い(だってコレ、世間一般の小父さん小母さんじゃなくて、続き柄じゃん)、詳しく話を聞いてわかったんですが。

 自分が若いときに、そういう、おじさんおばさんという言葉に、ものすっっごいマイナスイメージを持っていた——マイナスというより、「若くない」人を「見下していた」人ほど、自分がその場所にいるということを、認められなくなる。

 かつて自分が他人に向けていた悪意が、自分自身に向くようになってしまう。
 そりゃ必死になって抵抗するわけだわなと納得しました。

 他人に向けた悪意は自分に返ってくるというのを——ああいうことなのか、と思って納得してました。

 なかなか年をとらない化け物めいた人ももちろんいますが、それにしたって不老不死ってわけではない。
 自分もいずれはあの場所へ行く、とわかっていることなら、「ふーん」くらいで聞き流して、あまり悪意は持たないようにしてやってください。
 自分自身のためと思って。(^^)
 
  
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