ひとりだけなら悪となる
2016年09月06日 (火) | 編集 |
 日本ではまだきっちり法整備がなされたわけではないですがともあれ同性カップルにもある程度の「公的保障」を付与する自治体が現れたりとか、義肢使用の選手がパラリンピックではなくオリンピックに出場するのを認めるか否かの議論中、義肢使用の選手との対戦は健常者に「不利」になるという反対意見が出たとか、別に同性愛の傾向があるわけでもなくファッションとして女性的な服装を好む男性が登場したとか。
 そんな話を聞くと、私、やけに喜びます。

 そんな話——というのはつまり、「今までの常識には反する話」。

 不完全ではあるにしても同性婚の認知、「かわいそう」な障がい者が、健常者より「優位」に立つ、というお話(ここは誤解もあるけど、今までにはないイメージってことで)、「らしい」にこだわる無意味さの喝破。

 そんな話題に、いいですねー♡と喜んでおりましたら、それを見ていた母が、
「あんたはかなり保守的なのに、ねえ」
 と、少々不思議そうに申しました。
 普通、保守派といわれる人は喜ばないことを、喜んでいる。保守派ってわけじゃないよね、と。
 まあ、そうねえ。

 確かに私は、古いもの、伝統というものをけっこう尊重いたします。
 古いものとなりますと、現在ではその由来も意味も、案外忘れ去られていることも多いので、ルーツは何か、いつから始まったのか、由来は何か、ということを調べまくる。

 その一方では、社会通念を疑いもなく受け入れて唯々諾々とする姿勢を嫌い、これまでの社会通念がひっくり返るようなことがあると手を打って喜ぶ。
 その様子を見た人にはたびたび、「革新派」なのかと期待されることもありましたが、実際には、「革命」を気取るようなのは大嫌い。
(私がその存在意義を認めている『革命家』は織田信長さんくらいなもん)
(ことに近代の革命家というのは左巻きと同義なので、その悪口を言いだしたら止まらないですよ私)

 保守派なのかそうではないのか?
 家族制度については革新どころか、多分その発言の背景を知らない人が聞いたらトンデモナイ過激派だと思うだろうくらい、過激なことを口走ったりもする。

 でも、私が思うところは単純です。
 伝統を尊重するのはそれが「現在」の「根」だから。
 根がなくて成長していくものはないから。

 社会通念、常識なんてもんは究極のご都合主義で、「みんなが正しいというのだからそれは正しいのだ」というロジックは、ロジックとしては最低だとも思っていて、その社会通念を疑わないせいで、罪もない人を断罪して殺すということには、私はどうしても我慢できない。
 それだけなんですけどね。

 あんまり善も悪も信じていない。正義と悪なんてもっとそう。

 保守であるというのは多分、「自分の根っこだから大事にして、ちゃんと栄養とって成長できるように『整えておく』」というだけ。
 伝統を守るという建前で、『変えないこと」に固執して自分や他人を生かせない、ダメにするなんてのは本末転倒だと思っているので、保守であるために保守であろうとするわけではない。

 これまでの社会通念がなくなったり、「転換」するのを喜ぶのは、つまりはそれが「選択肢が増えた」ことを意味するから。
 知恵というのは何かや誰かを「生かす」もののこと。
 生き物が相手なんですから、アプローチにしろ方法にしろ、いろんなものがあったほうがいい。つまり、選択肢は多いほうがいい。

 かつての常識や概念が覆されるのを喜ぶのは、何かや誰かを生かすための「知恵」「選択肢」が、ひとつ増えた、ということへの喜び。

 こうしてみると、私はべつに保守でも革新でもなくて、ただただ、「道理」というもの——「誰にとってもいいように」、という方向を向いているだけだという気がします。

 正義と悪、善と悪、白と黒、保守と革新——そういう二元論で人類はこれまでどれほどの人を殺し、どれほどの自由を殺してきたか。(現在なおも続行中)
 その二元論から抜け出せる知恵が増え、選択肢が増えるなら——そりゃ喜んじゃいますよ。ねえ。
 
 私にとっては、歴史や伝統という「根」を大事にすることと、例えば同性カップルが社会的に公的に認められるのを喜ぶということとは、何の対立も矛盾もない。

 自分ではそれこそ、そんなん当たり前、くらいの感覚でいますが、どうしても二元論で「裁く」のが「常識」になっている現在の状況では——珍しいとか変わってるとか意味わからないとかって言われてしまうんですかね。(^^;)
 まあ、慣れているのでいいですけど。

衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ」(坂本龍馬)——という言葉を思い出すのはこんなとき。
 いえ、そんなゴタイソーなことはしてませんが、気持ちです。気持ち。(^^;)

 
 
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