隗より始めよ
 相模原(殺傷)事件、という名前になったようです。
 口にすることさえ恐ろしいことに思えるような事件となりました。

 昨年暮れからおよそテレビでニュース番組というものを見なくなっておりますが、先日はちょっと用件がごたつき、入浴時間も遅くなり、うっかり居間でNHKの午後11時台のニュース番組なぞを久しぶりにみてしまいました。

 正直なところ、画面に視聴者からのツイートが表示されるという方式がどうも好きになれませんで。
 べつにどうしてもイヤということでもないけど、なんとなくうっとうしい。(^^;)
 
 この相模原事件を報じた日のことで、ツイートもにぎわっているようでしたが、ちょっと目に止まったツイート。
「差別や偏見なんて世の中からなくなればいいのに」
 ………なんか他人事だね? と思いました。

 なにやらこの言い方だと、世の中にある差別偏見がご自身からはちょっと離れている、そういう人のお言葉のように聞こえるけど、それはうがちすぎ?
 差別偏見がなくなればいいのに。か。
 そう思うならやってごらん。まず自分が。

 なんかこう、言ってることのいちいちが、高みの見物、自分とは関係ない、というところから出てきているように感じるんですよね。
 差別偏見、自分にはない、と思っているのかな。
 とんでもない。

 差別や偏見というのは、セメントで固めたブロックみたいな「固体」でごろごろ転がっているわけじゃない。
 日常のなかや自分の感情の中に当たり前にあるもので、それはふだんはなんの支障もなく存在していて、そのときには、それは、差別意識や偏見とは呼ばれない。

 同じものなのに、あるときには無害、むしろ有益、でもあるときにはこれ以上ない猛毒になる——。
 そういうものは多いと思いますが、差別意識や偏見も同じなんですよね。

 不審者ではないかと「察知」することや、笑顔の下の害意に気づくこと、トラブルになる予感、事故が起きそうな危険性を「察知する」能力というものが、いきる上では必要な能力ですが——危険や危機を可能な限り回避して自分の身を守るためにはそんな「警戒心」は必要。
 でも、それが、ある場面では差別意識になるわけで。

 差別や偏見というのは、固定して存在してるんじゃなく、ある場面ではそう呼ばれる——そういうもの。
 だから差別意識や偏見をなくすということは、事実上、不可能だと言えますね。
 危険回避の「分別」能力を欠いたら、その人は独り立ちして生きていくのは不可能ということにもなるので。

 じゃあどうするかって。
 その危険回避の場面では「それ」を使い、必要がないときはひっこめて「偏見」は収める、という具合に、自分でコントロールする。
 大体の人はそうやっているはず。

 差別や偏見がなくなればいいのに、とは、——自分自身が持っているそれらをなくそう、という試みをしたことがない人の言葉だ。——私にはそう思えまして。
 なくそうと思ったらまず自分がやってみたら?
 そういう意識がないってあたりで、どーにも「他人事」意識だよねえ、と思えました。

 なぜ、なにもかもが、そうやって「自分とは関係ない」ところにあるという感覚になるんだろうな——と、ちらりと思ったこと。

 
 もうひとつ気になったツイートは、「この怒りをどこへぶつければいいのか」というもの。
 ………どこへもぶつけなくていいいんじゃない。
 そもそも、その怒りってなくてもいいんじゃない。
 なにかあったら必ず「怒ろう」としなくてもいいんだよ? 

 以前にも書きましたが、なにかあったときにどう反応するかは、ほとんど「習慣」なんですね。
 で、今の世の中ってなぜか、なにかあったらとにかく怒らなきゃいけないと思ってる人が多すぎるように思います。

 なにかを見かけたら怒る。人の顔を見たら怒る。なにか聞こえたら怒る。不機嫌になる。いやな顔をしてみせる。
 そうしなければならない、と決めている。

 決めてない、とおっしゃるかもしれませんが、それはいちいち考えてそうしているわけではないのは当然で、梅干しを見るとじわっと唾液が口の中に出てくるのとおなじ——パブロフさんちのわんこちゃんと同じメカニズム、ってことです。

 こんな事件を聞いて怒るなというのか、といわれるでしょうが——こんな事件を聞いてもです。
 怒るな、というよりも、その怒りに「自分を乗っ取られる」な、というほうが正確ですけど。

 まして、怒りをぶつけるって、そりゃぶつけられたほうにご迷惑ってもんです。
 
 世界を見渡しますと、とある地域では、お葬式だというのに銃を撃ちまくって(しかも空砲ではなく、空に向けてとはいえ実弾なんだよね……)、大の男どもが集まってわあわあわめきちらし、挙げ句の果てには(なぜか)喧嘩になりそれが連鎖し、暴動みたいな騒ぎになる——という光景を見ることがあります。

 悲しみや怒りを「ぶつける」って、ああいうことでしょう。(例としては極端ですが)
 怒りや悲しみを感じるのは仕方ないこととしても、それをひとやものにぶつける——当たり散らすのは、どのみち迷惑なのでおやめください。
 と思いました。

 どうもね——なにかが「ずれている」気がするんですよね。
 世間様がずれているのか、私がずれているのか。(^^;)

 いやな事件を聞けば心が乱れるのも、仕方のないことではありますが。
 必要以上に、自分や他人を傷つける、損なうことのないように願いたいと思います。

 そういう点から考えても、その「いやな気分」を撒き散らすことになる、ツイートの表示っていうのは感心できないことのほうが多いんだよなあ……。
 たまには、ああいいことをおっしゃる、というものがあるのも確かなんで、そういうときはいいんじゃないとは思いますが——むしろこっちのほうがレアケースってあたりがなんとも。

 つまらない愚痴になりました。(^^;) すみません。
 他人に撒き散らすなって、私もですね;;

 こういう場合のこととは少しずれるでしょうが、でも、村上春樹さんのお言葉だというこちら↓、肝に銘じます;;
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