「ヒト未満」たちの欺瞞
2016年07月04日 (月) | 編集 |
 バングラデシュでまたISによって邦人が殺害された事件。
 被害者、そのご家族やご関係者には、申し上げる言葉も見つからない状況です。

 それで、ツイッター上でもいくつか、イスラム教とアレは異なるものだ、というツイートをお見かけしまして、それはもっともなことだと思います。
 私は一神教はどれも平等に嫌いですが(男性原理だから)、しかしさすがに、宗教とされるものとテロリストをごっちゃにするほどには血迷ってはおりません。

 でも、なぜいちいちこうして部外者がイスラム教を「擁護」するはめになるかというと、肝心のイスラム教自身が、あのテロリズムと自分たちとの切り離しをしないからなんですよね。
 テロリストはイスラムを口実にしているだけのことで、厳密に——厳密に考えなくても、彼らの論理破綻ぶりはすぐにわかること。

 ムスリムのイメージの低下を恐れ、異教徒からの「誤解」を恐れ、あるいは憤るなら、なぜ、宗教指導者たちは率先して、あのテロリストたちを非難しないのか。
 この点については私はまったくもって納得できておりません。

 私の見るところではイスラム教は宗教とも言い難いと思っております。
 宗教の「性質」はあるけれども、どちらかというと「掟(おきて)」であり、ゆえにあまりにも生活や習慣、習俗の中に溶け込み「すぎ」ている。
 なにしろ改宗という概念はイスラムには(厳密に言うなら)なくて、ムスリムではなくなるということは、「人間ではなくなる」ことを意味するそうで。

 まあ、異教徒は人間ではないつって動物以下の扱いをするのは、ほかの一神教も同じですから、驚きはありませんけども。
 
 いちばん歯がゆいのは宗教指導者が、テロリストとのイメージを混同されることを嫌う一方で、はっきりとした非難も、たとえば破門をするなどのはっきりした姿勢を、みせていないこと。

 ただ在外の組織だけが、ひそやかに、「ISはイスラムではない」「イスラムの教えに反する」「混同しないで」というのがせいぜい。
 見るに見かねた異教徒が、今回のように、「ISはイスラムではない。混同してはいけない」などと擁護しているわけですね。

 そういう宗教上の切り離しをみずから、なぜやらないのか、とムカつきますが、でも、なにしろその宗教指導者がじっさい、他者を殺害することを「指示」していることがあるのも事実なので——切り離しをしたくても、できないんでしょうね。
 であるなら、テロリストと混同されても反論はやりにくいでしょう。

 まあじっさい、テロリストというのは理屈はなんでもいいんで、今回はイスラムの名前がかたられているだけだ、というのは、理解しております。
 その程度まででお許し願いたい。

 フランス革命、ロシア革命、カンボジアのクメールルージュ、中国共産党の文化大革命、日本赤軍、……理屈はそれぞれ違ってもやってることは同じ。
 理屈についてあれこれ言っても無意味なので、問うことがあるとしたら、「なぜ」ではなく、「何をしているのか」、それだけ。

 破壊衝動がある人の気持ちは私にはわからない。
 怒りと怨念と憎悪と破壊衝動、殺人衝動がある——わかるのはそこまで。
 ただ、人間てのは面白いなと思うのは、——自分がそういう「しょうもない」衝動に駆られていることはわかっていても、「自分はいい人だ、と思いたい」気持ちは消えていないこと。
 
 どれほど悪どいことをしても、自分は善なるものだと信じていたいんですね。
 現生人類の脳(新皮質)には、「よりよく生きる」という指向性が組み込まれている。
 殺人衝動は「よりよく」生きたいという目標からは大きく外れている、それもわかっているので、衝動と目標との絶望的な違いに、人は葛藤する。

 その葛藤に悩んだすえ、衝動と理想とを矛盾なく同時に成立させる理屈を考え出す。
 矛盾はどこまでいっても矛盾なので、人はそれを「欺瞞」と呼ぶのですが、彼らはそんなことは認めない。
 認めてしまったら自分の愚劣さも——よりよく生きるという人類としての指向からは「脱落」したことを認めなきゃいけないから。

 で、ISが見つけた「衝動と理想の両立を実現させるもの」がイスラム、ってことです。
 それは彼らの思い込みにすぎない。

 狂人の妄想に付き合う義理など、毫(ごう)もありません。

 それだけのことなんですけどね。
 でも、これも案外、理解されないことのようです。
 
 
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