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2016.05.31 (Tue)

小さな子供

 北海道で、7歳の男の子が山中で行方不明になっている件。
 昨日の捜索でも見つからなかったとのことで、……なんとか無事に見つかってほしいものですが。

 このニュースを聞いているあいだ、ほんの子供のころ、こういう状況をどれほど恐れていたかを、ふと思い出しました。
 家に帰りたいと思って外へ飛び出しても、自分が歩けるのはほんの数歩のこと。目の前の角を曲がっただけで世界は一変し、見知らぬ冷たい石の街になって行き手を塞ぐばかり。
 家に帰るどころか、さっきいた場所さえわからなくなりそうで恐怖に震え上がり、ほんの数歩を戻って立ち尽くす。

 これに類似の経験や恐れは、たいていの人には覚えがあることではないかと。

 多少、迷子になったとしても、結局、その恐れは恐れにすぎず、じっさいには、親なり、年上のいとこたちなり、親戚のだれかなりが迎えに来るなどして無事を得まして。
 あの恐怖が実現しなかったときの安堵感。無事に「いつもの」世界に帰ったときに感じる強い愛着感。

 けれどもその結果を得ず、じっさいにほんとうに現実に、あの山の中にひとりでいる子がいる、と思うと、こちらが身が震えます。

 現在ジョン・グレイ博士の本を同時並行で読んでいるところですが、「心の傷を癒す」プロセスの解説の中にも、「家に帰れない小さい子供」のエピソードがありまして——ああこれ、たいていの人が経験することだなと思いました。



 博士の場合はご両親から離れて、叔母さんの家に何日かいたときの記憶とのことですが——ああそう、この感覚、同じだ、と。

「世界は急に広大な場所になり、わたしはとても小さかった。まわりの人たちはいったい誰なのだろう、どこへ行くのだろう、何をするのだろうと考えた。この世界で、自分の道を切り開いていくことなどできるのだろうかと」



 私の場合はさらに「身から離れる」感じが強かった。
 これは迷子というようなことでは全くなくて、近所の友達の家から自宅へ帰る途中、夕焼けの光の空を見たとき、ものすごい違和感と、「知らない」という感覚におそわれまして。
 自宅さえ、じつは「帰る」「なつかしい」場所ではなく、両親は、見ず知らずの他人でした。——あの人たちはだれだろう? ここはどこだろう? 私はどうしたんだろう?
 私は、こんなところに来てしまった。
 次に死ぬまで、私はここで、私でいるしかない——

 そう感じたときの、あの絶望感はいまだに忘れられない。

 世界はなにもかもが冷たく、見知らぬものと人ばかり。そこに小さな「自分」という箱がぽつねんと置かれ、その中にぎゅうぎゅう押し込まれて途方に暮れている。

 それが私の「感情の記憶」。

 博士のお話を聞いて、まるでフラッシュバックのように思い出され、うひゃー……と思いました。

 博士もまた、こんな感情は大人になれば消えると思っていたそうですが、あいにく、30代になってもまだ、「自分は小さくて力ない」という感覚はわずかにでも残っていた、とのこと。
 
 こういう記憶ってふだんは「封印」されているんですね。そんなことがあったということさえ、きれいさっぱり忘れている。
 そのくせ、「見捨てられて家に帰れない小さい男の子」の「気持ち」は残ったまま。

 そこで、もう小さい子供ではない今、あらためてその過去の記憶を辿ったり「旅」をすることで——忘れていたものを思い出して、そのときの感情を味わい、きちんと自分の感情と「向き合って」、その存在を認める(見ないふりをしたり、なかったことにしたり、そんなことなんでもないと自分に無理に言い聞かせたりはナシってこと)、——というお話がつづいていくようですがいまはまだそこまで読んでません。
 世界に対するあの恐怖と、「自分が無力だと感じる」感覚が、あまりにも「わかる!!」だったので書いてしまいました。


 そんなことを考えていたら、行方不明の男の子のニュース。
 彼は、妄想が現実になってしまったのだ、と思ったらもう——どうにも、いたたまれないような気持ちです。



 たぶん、どんな人にもそんな「感情の記憶」があるんだろうなと思いつつ。
 いつか、その小さな子供が、重い記憶から、逃げるのでも押しつぶされるのでもなく、ただ、静かに向き合って受け入れ、心が癒されるように——自分で、道を見つけて家に帰れるように。
 
 そう願うばかりです。
  
 
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