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忘れられる権利

「スーザン・ソンタグの『ローリングストーン』インタヴュー」をゆっくり読んでいるところですが。



 面白い。
 じっさい、ものをあれこれ考えることは、私にとっては、最大の楽しみとなる「遊び」なんだなと思います。
 スーザン・ソンタグさんもそんなことをおっしゃっていて——思考するということは、もちろん真面目は真面目なんだけれど、それは他人が思うよりもずっと深い「快楽」だ、というあたり。
 そーなんですよねー、と思わず。

 ここまでのところ、ファシズムとはなんぞや、「性」とはなんぞや、というお話が私には興味深く驚きでもあります。
 ファシズムのこういう解釈は、まあ通常の、社会学なり政治学なりのなかからは現れてこないだろうな、と。
 学術的な知識もありつつ歴史も踏まえつつ芸術と呼ばれるものからも解釈する、という、ジャンルをまたいで縦横に広がっていく「思考」が面白い。
 なにかひとつの断面だけでものごとは語れないし理解もできない。面白いな。と。

 ファシズムを性衝動やSMの「魅力」から語られることがあるとは思わなかった(笑)
 このへんはウィリアム・ライヒ『ファシズムの大衆心理』を読めばいいようですが——ファシズムと性的抑圧を結びつけて語っているとのことで、「へー」という感じ。
 ファシズムが性衝動と結びつくとは思わなかったなあ。(^^;)

 私はこのへん詳細を知らないのですが、「SM」イコール「ネクロフィリア的感性」というお話が、また興味深い。
 知らなかったなあ。——SMってネクロフィリア(屍姦)的な「感性」なんですか?
(ですか? って誰に聞けばいいんでしょ?;;)

 なにやらそれは、当たり前の定義とされているふうでお話がそのまま進んでいってしまい、その後に解説もないので——あれ、それってわりと当たり前の概念ですか? と首を傾げております。……しょーがないのであとで調べる。

 ともあれそのお話のなかで、大島渚監督の「愛のコリーダ」が語られ、「人間の性的能力は誤った設計に基づいている」ことを説明あるいは表現することに「成功している」という太鼓判が押され、へーえ、と。
 じっさい「愛のコリーダ」については日本人よりも外国からの評価の方が高い印象があったんですが、そういう「絵解き」があるからでしょうか。

 で。
 私の思考はここからまたあさっての方向へズレてしまって、考えていたのは「忘れられる権利」のこと。

 映画「愛のコリーダ」(1976年)は、先日ちょこっと書きました、阿部定事件(1936年、昭和11年)がモチーフになっておりまして。
 私は意気地がないので簡単に説明を聞いただけで怖気(おじけ)づき、映画、見たことはありません。(^^;)
 ただ、この映画はたぶん、ポルノとか猥褻物とか、そんなことを強調されるばかりで、本質そのものはほとんどだれも(少なくとも日本では)見ちゃいないな、という印象があったのも確か。

 あの事件の、警察の調書を読んだ限りでは、こんなに面白おかしく、下卑た嗤いにさらされる「べき」ものではないはず、と思いました。
 同情する気はありませんが、でもこんな扱いを受けるべきとも思わない。

 本人たちにしてみれば、こうやって——もう80年もたっているのに、まだ、こうして思い出したように蒸し返されるのは嫌だろうな、と、ふと思ってしまいました。

 どんなことがあるにしろ、自分とは関係のないことなら静かに時間の流れに流してしまうことがあってもいいんじゃないだろうか。
 ……おそらくはすでに不帰の客となっているだろう人のこととはいえ、ようやく忘れてもらえたかと思ったとたんに蒸し返されるというのは、気分のいいもんじゃないだろう。そう思います。

 インターネットではその「情報の蒸し返し」がほんとうに深刻で、「忘れられる権利」という、ちょっと奇妙に聞こえるものも出てきました。
 忘れてあげるべきではないのかといいつつ、でも、やっぱり熟熟(つらつら)考えてしまうというのは——残酷なことをしてんのかな私も。

 芸術は、人の社会のあらゆるタブーを超越する、という主張を聞くこともありますが、私はあれにはあんまり賛成していませんいまのところ。
 芸術に罪はなくてもその製作者は生臭い人間じゃん。——というところで、みょーに冷めてしまうんですよねこの主張。

 でもたとえば、本人が希望すれば「忘れてもらえる」と設定すると、歴史ってもんが消えてしまう——とも言える。

 大河ドラマでもただいま、いろんな人が、いろんなことをいうけれど、いかに当人はとっくにお亡くなりとはいえ、こうも他人のプライバシーに踏み込んで、また勝手な「妄想」でものをいうのって、考えてみたらたいそう失礼なことだよなあ——とも思うわけで。

 歴史上の人物について好き嫌いはあんまり言わず、その業績や「じっさいにあったものとして残されている記録」についてのみ考え、「評価」していればいいんだという私の態度はこのへんからきているのかもしえません。

 一次史料とされるものでも、それがほんとうにほんとうのたしかにあった「事実」かホンモノかどうかって、考え出したらどこまででも疑える。
 それが事実かどうかなんてだれにもわからないというのが、実際のところ。

 まして、その人の個人的な感情や考えやプライベートな「関係」についてなんてね。
 わかるかっつーの。
 
 それを、そう思うこう思うと勝手なことをいっているそれは、後世の人間の勝手な妄想じゃんね。
 自分の妄想をもとに、歴史上の人物のだれが好きかれが嫌いというのは、あんまり——いいことにも思えない。
 妄想は妄想でしょーがないけど、それが妄想だということはわきまえておくべきで、自分の妄想をあたかも事実であるかのように語ることには感心しないし賛成しない。

 忘れてあげること。

 あるいはその人の「領域」を侵さないこと。

 どうしても不可能なところもあるけれど、そのこと自体はもうちょっと考えてもいいような気がする。

 
 ………ともあれ、あんまり評価されてないようですがウィリアム・ライヒ、当たってみます。
 
 
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