「都々逸読本」
2016年05月09日 (月) | 編集 |


 読本は「とくほん」と読みまして、まあ、「簡単な解説書」くらいの意味でしょうか。
 最近はおみかけしない日本語なので念のため解釈を。(^^;)

 俳句・川柳は(現在は)五七五、短歌・狂歌は五七五七七ですが、都々逸は七七七五。
 都々逸(どどいつ)もまた大衆芸術の——芸術っていうとなんだか大袈裟なようですがでも芸術——ひとつでしょうね。
 三味線の伴奏で節をつけて歌われるもの。

 都々逸という名称になじみはなくても、その文句——作品群はけっこう聞いたことがあったり身近にあったりします。
 民謡は五七五調より圧倒的にこの七七七五のほうが多いそうですね。「土佐の高知のはりまや橋で…」「伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ…」いわれてみて私も、ああなるほどと思いました。

 こちらの本は、出先で待ち時間ができてしまったので本屋さんをぶらぶらしているときに見つけたもの。
 
 著者の柳家紫文さんは音曲師、邦楽演奏家——三味線がご専門のご様子。落語協会所属。
 
 都々逸はそういうわけでまったくの民間の、というより大衆のものなので、まじめに研究されることもほぼないし、大仰な作品集もない。
 いい作品があってもあくまでも口伝え、作者名も残らないようなもの。

 でも、川柳からことわざになったものが多いように、この都々逸もけっこう知ってる、聞いたことがある、そういうものが多いです。
信州信濃の新そばよりも あたしゃあなたのそばがいい
 これも都々逸。(^^) 身近なんですよ。じつは。

 私が好きでよく引用もする「丸い卵も切りようで四角 ものはいいよで角が立つ」も都々逸でした。気がつかなかった;;
 それくらい、身近にあるものなんですね。

 俗謡といわれるもののなかでも、とくに色っぽいものが多いのも都々逸の特徴でしょうか。(^^;)
 お三味線に乗せるものなので、とくにお座敷で歌われることが多かったからなのかな。そのへんはわかりませんが。

 ということで色っぽいというか下ネタというかで、ちょっとここではご紹介しにくいものが多かったり。
 でも、世間知(せけんち)というような、なるほどなー、と思わず感心するようなものも。
世間渡らば豆腐のように 豆で四角で やわらかで
 「自分」というものをなくしもせず、だからって角目(つのめ)立ちもせず、ってことでしょうか。めざしたい境地です。

 高杉晋作によるといわれる有名な「三千世界の鴉(からす)を殺し 主(ぬし)と朝寝がしてみたい」、これも都々逸。
 これは解説いりますかどうでしょうか。

「明烏(あけがらす)」というのが落語にも芝居にもありまして、鶏がいない都心部では——遊郭・岡場所にもいませんかね——、朝を告げる鳥は鶏より烏だったもよう。
 夜が明けるのは鳥のせいじゃないっつーのに(笑)
 
 サラリーマン川柳もすっかりおなじみになり、毎年作品を拝見すると、こういう遊びが好きな精神、あるいは文化というのはちゃんと生きてるんだなと感心しますけども。
 都々逸もそんなふうになったら面白いかな。なにしろこちらは節がつくので(私は音痴なので唄えませんが;;)、読んで楽しむより、聴いて楽しめる。

 即興で歌っていくものでもありましたし、そうなると古代の「歌垣」のことも思い出され、なかなかその民族性ってしぶとく形を変えても生き残っていくのかな、などとも考えてしまいます。

 都々逸は色っぽいものが多いと申しましたが——このへん、作品を作ろうとしたら、無粋な現代人には難しいでしょうか。
 同じことを言うのでもストレートに言ったらおもしろくない。聞いた一瞬だけ「?」と思ってすぐにそうかと気がつき、素知らぬ顔でふうんといいながらちょっとだけにやっとする。そんな感じで。
 露骨にやっては下品になる。さじ加減が難しいですね。

 本書のなかでも、なるほど巧いなと感心するものも、あざとくて引いちゃうものも、「これ作ったときって絶対酔っ払ってたでしょ?!」といいたくなるようなものもある。面白い。

 歌は歌えずとも七七七五の「歌詞」は、じょうずに作ってしまう人はけっこういる気がする。
 ここであらためて人気が出てくれたら面白いなと思いながら読了しました。


 完全に余談として。
 小野小町の夢の歌の話はちょこちょこしておりますが、アンチテーゼとなる都々逸がありまして。

 ——夢に見るようじゃ惚れようが薄い 真に惚れたら眠られぬ

 忘れねばこそ思い出さずってことですかね。
 これなら小野小町さんも笑ってなるほどと言ってくれそうな気がする(笑)
 
 
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