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2016.04.28 (Thu)

多数決の不正義


 昨日は話のついでに坂本龍馬さんの備忘録にあった言葉をちょこっと引用しておりましたが、確認しましたところ正確には、
衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ。天下のこと皆然り
 でした。

 みんなが「善きこと」を行うなら、自分ひとりは「悪いこと」を行え。天下国家のことも同様である——といったところでしょうか。

 これはなにも、破落戸(ごろつき)やチンピラみたいなことをしろというのではなくて、「みんなと同じになるな」ということ、と解釈しております。
 
 ほかにも、「恥ということを打ち捨てて世のことは成るべし」「薄情の道、不人情の道、忘るることなかれ。これをかえって人の悦ぶようにすることを大智という」なんてこともありまして。
 人とは違うことをする、これまでの「常識」ではないことを行う、——そんなチャレンジを重ねている人には、深く頷かれるものがある言葉ではないでしょうか。

 そんなの簡単だと思う? 自分もできると思う? ——果たしてそうかな。

 べつに龍馬さんみたいに天下国家を論じるわけじゃなくても。
 上記ツイートにあるような場合。

 ひとりが「ささいな」いじめを行ったとき、それを「全体が共有」したとき。
 そこにいる全員で、そのいじめを行うとき。
 これが「衆人皆善を為」していることになる。

 あきらかに間違ったこと、道理に背くこと、「悪いこと」であるはずのことが、「大多数に共有されると善になる」わけで。
 どんなに間違ったことでも、みんなが、それがいい、それでいい、それが「正義」だ、「善」なのだ、と思っているなら、それは「善」になる。

 龍馬さんのいう善とはそういうもののこと。
 ひとり悪を為せというのは、そんなハリボテの善につきあっちゃいられない。本当の意味で良きことを行え——たとえ自分ひとりだけでも——。そういうことですね。

 いじめを是認する「空気」の気持ち悪さは私も経験済みで、「ひとり悪を為」した経験もございます。
 こういう場合、「おまえも善であれ」という圧力を加えられるし、この圧力に逆らっていると、自分までもが命を奪われることさえある。

 すばらしい善の道、徳業を説いたその人が、「おまえは悪だ」といって簡単に人を殺す。
 人を殺すこと以上の悪行ってありますかね?
 善を説きながら自分は最大のタブーを犯して、平然としてる。この矛盾。
 でもだれも、それが矛盾だなんて思わない。
 それが「善」だと思ってる。
 善なるもののためなら人を殺してもいい——殺すことこそが正義だと思ってる。

 善と悪の概念なんて、そんな程度のもんだってことです。
 常識なんて、名前があるだけでなにも実体がないってこと。

 それでも。
「みんなが善をなす」とき、「自分ひとりが悪をなす」ことが、どれほど難しいことか。

 ということで、この龍馬さんのメモ書きを見たときは、感動もし、彼が生涯手放せなかった孤独を思って、涙もしたんでした。

 薄情の道、不人情の道を忘れるなというのも面白いですね。
 これ、心当たりがあるかたも多いんじゃないでしょうか。

 誰かが自分に勝手な期待を寄せてくる。それが自分の好きな人だったりすると、「えー……」と思いつつも、その期待に沿うてあげたくなるのが人情というもの。一般には「やさしい」人でしょうね。
 不人情というのは、その人情に背く、ということ。

 誰かの期待に背き、悲しませたりがっかりされたり、それはそれでちょっと悲しいことだけど、でも、そんな勝手な期待に沿っていたら、自分が自分ではなくなる。
 自分が自分であることをちゃんとつかんで、自分の人生で充実している姿って、最終的には、その誰かを真に喜ばせることになる。

 いっときの、ちいさな「同情」にふりまわされて、自分がすべきことを捨てたり我慢したりしてしまうと、結局、あとあと相手に対する恨みになるんですよね。
 あいつのせいで自分は自分ではなくなってしまったという気持ちになる。
 
 その場では、期待に背いて、いやがられても。
 人情って不思議なもので、たとえ自分の期待通りにしてくれなくても、結局は生き生きとしている姿を見ると納得もするし嬉しくもなるもんなんで。
 ——本当の意味で、誰にとっても「幸い」となる。
 これが「大智」ってもんだよ、と、彼はメモ書きを残している。

 こういうことをいちいち、誰に見せるわけでもないメモ帳に書いているということは——しかも、こういうことをじつに数多く書いている——、ほんとうは龍馬さん自身も、人に背き、期待に背き、「悪」を為していくのは、悲しい、つらい、孤独なことだったんだろうな、と思います。
 芯から薄情なひとが、薄情であること(のメリット)を忘れるな、なんて自分に言い聞かせるわけはない。
 
 天下国家のことではなくても、市井の人の日常も、同じ重さで、こんなことが起こっている。そう思います。

 集団責任、同調圧力——あるいはミルグラム(アイヒマン)実験——、本来なら従ってはならないものなのに、「これが善だ」といって強要される場面は、人生の中でいくらでもある。
 自分はそのとき、ちゃんと「悪人」でいられるだろうか。

 いられるだろうかじゃなくて、いなけりゃならないのですけどね。本来は。

 有名人をくだらないことで叩く人たちは、ゴタイソウな「正義」を振り回すことが多いわけで、困ったことには、ああいうアジテーションにあっさり同意してしまう人たちが少なくない。
 自分はそういう「誤ち」を犯したくないと思うなら、善と悪の関係について、いちど考えてみることは、おすすめしたいと思います。

 私どもの社会では現在、幼い頃から「多数決」ってことをやっているので、多数=正義(善)という概念が、いつのまにやら根を張っていると思いますが。
 多数だから正しいってわけじゃない。

 人は、「善」でさえあれば、どこまでも残忍でいられる。
 そのことを、いちどは、ご確認願いたいと思っております。
 
 
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