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桜の本分

 けっこうHDDには桜の画像が溜まっておりまして、いつかどこかで使おう、と思っているうち、あっさり桜の季節も過ぎてしまいました。(^^;)
 山桜も先日の風で散り急ぎ、枝垂れも同様、残すところは八重ですがこれはどうも、花がぼってりしていて、きれいなことはきれいですが、ちょっと華美にも思える。

 ということで、ツイッターでは「使いたかったけど使えなかった桜の画像」に、好きな和歌をくっつけてツイートしてみたり。
 ここで無理に流さなくてもまた来年使えばいいじゃないとは思いつつ——来年には来年の花があるでしょうからねー。
「年年歳歳 花相似」(ねんねんさいさい・はな・あいにたり)——毎年同じように花は咲く、とはいえ、今年の花と来年の花は「似て」はいてもじっさいは違うもの。
「歳歳年年 人不同(さいさいねんねん・ひと・おなじからず)」と詩はつづきますが、ま、正確には「年年歳歳 花不同」ですね。

「年年歳歳花相似たり」 劉 廷芝
花と詩と音楽と」様より

 桜の花を歌った和歌をあらためて眺めていて、意外と私がいいなと思うものが少ないのは、なにかっつーと、「春に桜がなければいいのに」という、みょーな恨み言が多いからのようです。

 しづこころなく花の散るらんにしたって、絶えてなかりせば春の心はのどけからましだって、そんなん、桜の知ったことか、つーんですよ。ねえ。

 花が落ち着かなく咲き急いでは散ってしまうと思うのも、花のようすにこころ乱れてしまうのも、そりゃアンタの勝手だろうというお話。
 じっさい、だーれも見ていない、ひとの姿なんかカケラも見えないような場所でも、桜は咲き、散って、葉桜になる。

 それを勝手な解釈をするのは人間のほう。
 であるにもかかわらず、「桜がなければ春ももっとこころ穏やかに過ごせるのに」とはなにごとか。

 もちろんこれは文学上の修辞とでもいうべき「表現」ということは承知していますが、なんかもうねえ。ひとりが口走ったひとことが、やけにウケたもんだから、みんなが我も我もと真似をして、大勢さんが同じ事をいうのを聞くとうんざりしてくる、そういう感じですね。(^^;)

 だれかひとりくらいが、散る花を見て、「花がなければこころ穏やかに過ごせるのに」といえば、まあそれほど桜がお好きですか、と思うくらいですが、これが、何人も何人も同じ事をいっていると、いーかげんにしろよと思ってしまいます。(^^;)

 桜はただ、自分自身の自然の営みとして咲いて散って豊かに葉を茂らせるだけ。
 それで人間のこころを惑わせようなんて思っているはずもない。
 こころ惑うというのなら、そんなことでいちいち惑っているテメエの責任だろうよ、というお話。

 でも、この手のことを口走るひとは多いですね。
 女性に惑わされる殿方の愚痴はみんなこのパターンなので私としてはもううんざりしてます。
 昔はいちいち腹を立てていましたが、最近ではそれにも飽きてきて「またですか」と思って終わり。(^^;)

 責任転嫁は、どうしたってやらかしてしまうひとの心の「癖」でしょうが、あまりにも、なんでもかんでも他人任せなことをいうのも、どうなのかと思いますね。

 花に惑わされる側の不心得というとどうしてもそんな話を思い出してしまいますが、これ、女性もおなじことですから、ひとごとみたいにお考えになりませんように(笑)
 ただ、男性の場合、惑わされるオノレの不見識をかえりみず100%を他人のせいにするこのいいぐさは、伝統的に「社会正義」にされてきた、という点だけが、女性の場合よりも特徴的だな、というだけのことなんで。

 自分の心の惑いを、他者のせいにしてはいけません、というのは、どちらでも同じこと。

 これを裏返しにしているのが、「勇気をもらった」「元気をもらった」という言い方。
 過去にも何度か書いていますが、これ、ほどほどにしたほうがいいです。

 元気も勇気も自分が持っているものですよ。他人から貰わないとならないようなものじゃない。
 たぶんもともとは、誰某さんから勇気をもらった、というのは、それくらい誰某さんに励まされたよ、ということを、強調した表現だったと思うんですが。

 もらった、という言い方のイメージの強さがウケたのか、これが当たり前に広まってしまい。
 いまとなっては、それは他人から貰わないとならないものだという認識すら、持っているひとがいるんじゃないかと疑われるくらいになってきました。

 心は言葉をつくるけど、言葉もこころを作り出す。

 もらったもらったって乞食じゃないんだからさ——と、いじましいくらいの人が、ちょっと気になるこのごろです。

 勇気も元気も、ちゃんと誰でも持ってますよ。ただ、それを見失ったり忘れ果ててしまうことはあって、そういうときに、誰かが背中を押してくれれば、はっとすることがある。
 それを「もらった」と表現することには、感心しない。

 私もこのへん、ひとさまのことをとやかく言えた義理ではないので、あんまり言いたくないんですが。(^^;)

 桜は誰のためにも咲かないし散らない。
 桜は桜として自分の本分を守って生きているだけ。

 その美しさ、はかなさを見たときの自分の心の動きを、桜の責任として押しつけるなぞ言語道断。
 美しさに喜び儚さに惑っているのは自分です。桜じゃない。
 自分をしっかり見つめることのほうが、「本筋」なんじゃないでしょうか。


 ということで。
 これと思う桜の和歌って、意外とないもんだなー……と思っていた昨夜のこと。

shidare-sakura.jpg

 
 
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