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小さきもの


 だいぶ以前のことですが、いわゆるバラエティといわれるテレビ番組中で、出演者数人で、「涙をながす」競争をしてまして。
 あれはお芝居の話の流れだったのかな。暗めの照明、数人が黙って椅子に座って、まじめーな顔をして、ふと涙を見せる瞬間を待ってる。
 芝居でやれと言われたら無理でしょうが、泣けと言われたらわりと簡単に泣けるなあ私。
 と思って見てました。(^^;)

 すでに去っていった猫の、だれかれを思い出していれば、ま、いつでもどこでも泣けてきますね。
 自分で気をつけていないと、へんなときにひとりで涙ぐんで周囲に誤解されるくらいのもので。(^^;)

 身内や、友人、知人……すでに鬼籍に入った人たちのことを思い出しても、こうまで泣けるということはない。
 なぜ、猫を思い出していると(簡単に)泣けてしまうのか。
 
 べつに、家族などより猫のほうに思い入れが深いということではございません、もちろん。
 情の深さ浅さのことではなくて、「ちいさきもの」には、痛々しさがあるからかな。と思ってます。

 私の場合はたまたま猫ですが、犬でも鳥でもハムスターでも———「小さきもの」は、人間以上にこちらの保護が必要なので、彼らを慈しむと同時に守ろうという気持ちが、まだ残っている。
 守ろうとする気持ちが、痛々しさを感じる、というものになってくるのかも。
 自分が守ってやらなければ、手を出さなければ、この小さな存在は苦痛にまみれて死んでしまう、そうはさせまい、という、いってみれば「保護欲」ですね。

 死というものでお互いが隔てられてしまえば、たいていの感情も変化していきますが(変化しないと、いわゆるペットロスというような状態になる)、あの保護欲というものは、幽明境を異(こと)にしても、変化のしようがないものかもしれません。
 守ってあげたいけれどもうその必要はない。それはわかっているのに感情は消えず、生者と死者に分かれたもの同士の関係の中にも溶け込めない。そういうモノを持て余す。
 行き場のない保護欲が、痛々しい、という感覚につながっているのかも。

 とはいえ。
 これは猫でも人間でも同じで、——存在というのはそれだけで尊いもの。こちらが守ってあげましょうなんていうのは、おこがましいというものでしょうね。
 
 これはお信じにならないかたには大笑いでしょうが、私は真顔で信じますよ、という前提で申しますが——とある猫又(ねこまた)は、近づいてくる自分の死を静かに受け入れながら、それを悲しむ人間にむかって、
「俺らはかわいそうなんかじゃない」
 と言い放ったんだそうで。

 そうだろうねえ、と思いました。

 存在には、尊厳というモノがある。
 どんなに無力に見えてもあわれに思えても、かわいそうだなんて思うのは、こちらの思い上がりであり、相手へのこのうえない侮辱。
「かわいそう」な存在などどこにもない。
 ときに人間よりもそんな誇り高さを見せつける。
 彼らは誇り高い。
 ——だからこそ痛々しい。
 そう言うと、結局わかってないじゃんかと叱られるんだなーと思いつつ(笑)、その痛々しいという気持ちは許してもらいたい。

 去っていったそれぞれの状況、息をひきとるときの様子はつぶさに覚えている。
 ただ別れの悲しさというだけではない、痛々しいという気持ちが、簡単に涙腺を刺戟する。

 私がなにもいわずにぼーっとしていたと思ったらいきなり涙ぐんだなんてときは、だいたい猫の事を思い出しているときなので、そう言う場合は見て見ぬ振りをするか、……そうだなあ、「作麼生(そもさん)何の所為(しょい)ぞ」(※)とでも言ってやってください(笑)


(※)
「雨月物語」の「青頭巾」。
阿闍梨(あじゃり)と呼ばれる身でありながら稚児に恋着したあげく、稚児が亡くなると嘆きのあまりに迷妄のカタマリとなった僧侶。
快庵禅師は阿闍梨に禅の公案を授け、最後にこの一喝で阿闍梨を迷妄から救う——という、そんなお話。
  
 
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