ロジックの読み方
2016年03月26日 (土) | 編集 |
 昨夜はBS-TBS「THE 歴史列伝」で明智玉(あけち・たま)、細川ガラシャをとりあげていましたね。

2016年3月25日(金)放送
♯94 戦国キリシタン 細川ガラシャ


 この人の数奇な、あまりにも悲劇的な生涯のお話はご覧の通りで、それはおくとして。
 途中で私が、「あー……それなー…」と、ちょっとげんなりしたのは、例のアレ——神のもとには人は平等である、というアレ、でした。

 どうも一神教とは相性が悪い。出会いからして印象最悪。
 人生最初の出会いは「赤毛のアン」もしくは「ベルサイユのばら」のどちらか——どちらのほうが早かったのかな。
 赤毛のアンでは、神様について疑いを持つな、あれこれ考えさえするな、ということをマリラがいうシーンを読んで子ども心にショックを受けたし。
 ベルばらでは伯爵令嬢のシャルロット嬢が自死したのを家族は隠すのですが、その理由っつーのが「自死した場合は葬式を教会はやらないから」というので衝撃を受けました。

 どちらも、私の元来持っている価値観とは真っ向対立、あんた何言ってんの!? というくらいのもの。
 人は考える葦じゃなかったのか。考えることに人である意味があるのじゃないのか。それをテメエの都合の悪いことをいうかもしれないからものを考えるなとはなにごとか。

 自死というのはいずれにせよたいへんなことで、その方法を選んだ人はすでに十分に苦しんでいるわけですよ。宗教というのはある意味、幸せな人間にはどーでもいいもので、つらい思いをした人を救うことこそ宗教がやるべきことだと思いますが如何。
 それをなんです、「自死するなという言いつけを破ったやつの葬式なんかやらねえよ」というのは。脅迫か懲罰か?

 という具合で、さすがに小学校低学年ではそこまで論理的には考えませんが、当時感じたことを言葉に「翻訳」するなら、そういうことでした。
 もう、一から十までとにかく私とは価値観が違う。
 考え方が絶望的に「合わない」。

 であるにもかかわらず、なにを血迷ったか存じませんが、中学生のときにはこういう人間を入信させようという人と遭遇しちゃいましてねえ。
 最後には大げんかですよ;;

 この「神のもとに平等」という考えも、一見するとたいへんおきれいな教えに見えますが、半歩でいいから足を踏み出せばわかる、とんでもないロジックの「落とし穴」があるんですよね。

 神のもとに平等というのは、この世のありとあらゆる人は平等であるという意味ではない。
 いわば条件付き平等なんですね。
「神のもとに」つまりこの神さまを信じている人間同士には、上下はないよ、ということ。

 その神を奉じない異教徒は、その限りではない。

 そもそも異教徒は人間じゃないわけでね。
(さすがに近代に入ってからはそんなことは建前からは消えましたが)

 このロジックは案外、見落とされがちで——気がついていない人って、今もけっこういるんじゃないですか?

 なにしろ、その同じ神様を奉じているはずなのに、宗派が違うだけで一気にその平等は崩れ去るわけですから、もうね、何をか言わんや、ってことで。(^^;)

 あの超絶しつっこい、そのうえ押し付けがましい入信への勧誘を受けたことは、たぶん軽くPTSDにでもなってんじゃないかと思うほどですが(本当につらかったですよ、あのしつこさは、こちらとしても)、でもまあ、いまから思うと、いい経験はしたんでしょうね。
 一神教と自分との、絶対的な断絶を理解しましたので。

 ただまあ、世の中にはいろんな人がいるわけで、私は怖気(おぞけ)をふるうようなものであっても、玉さんのように、それで魂が救われるという人もいる。それは否定しません。
 
 クリスマスだのバレンタインだの、そりゃ日本人には関係ないだろうとは言いつつも、まあもとはキリスト教とは関係のないお祭りなんだからいいじゃない、といっておりましたら、なんですか最近、じわっとイースター(復活祭)「商戦」、きてるんだそうで(笑)
  
 さすがにイースターはもう、これは本気で異教徒には関係ないだろう? と思うんですが。(^^;)
 もちろんこれも、原型を辿ると、やはりキリスト教以前の民俗上の祭りになりそうではありますが。

 まあ、このいいかげんなところが日本的なのだといえばそのとおりなんで、目くじらをたてるつもりもありませんけども、とうとうイースターもか(笑)と思います。

 誰にとっても、よきものであるように。
 突き詰めれば願うところは、結局はそれだけなんですけどね。
 
  
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