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ご縁によって線を引く

ベルギー連続爆破は「テロ」、死者34人で日本人2人も負傷 在京大使館に半旗
2016/3/23 10:25  J-CAST ニュース

 ベルギーでまたも連続爆破事件が。
 昨年のパリの事件以後、とくにベルギーは少々危険レベルが高いようでした。それもなんとか対応できたのかと思っていたところでのこの事件。
 被害に遭われました方、そのご家族には、心からお悔やみ、お見舞いを申し上げます。
 負傷なさいましたかたの1日もはやいご回復をお祈りします。

 ……などと言っていると、他地域や、国、あるいは宗教関係の方面からは、「我々はもっとひどい目に遭っているしそれも日常的だ。なのに我々のことは無視して、先進国・ヨーロッパ等であれば『たった』これだけのことでそんなに騒ぐのか」という、非難がかならず飛んで参ります。

 こういうことをいわれると本気で気にして落ち込んでしまうナイーブな方々も数多くおいでのようなので、そのあたりについて少し。

 こちらは神様じゃないんで、現在70億人ともいう、すべての人間について、関心を持つことはできない。
 同じようなことで、ある人については騒ぎ、ある人については無視をする、などというのは、それは「言いがかり」というものです。
(言いがかり→「① 難癖をつけること。また,その難癖」(大辞泉))
(念のため注釈を。(^^;))

 昔の人は何かと言うと「ご縁がある/ない」ということを言っていたような印象があります。見合い話のみならず、「袖振り合うも多生の縁」、ありとあらゆることがご縁。
 近藤麻理恵さんの「片付け」法則のなかにも、「縁」というものが登場しますね。
 自分の身の回りにあるもの、手に触れるものはすべて、「ご縁」というものによってそこに存在する。
 この考え方には無理がないように思うので、私もよく、ご縁があるとかないとか申します。
 元来、人間は、そういうご縁のあったものを「すら」、きっちり大事にできないくらい、だらしのない生き物なんですよね。
 まして本来は関係のないことに関われるほどの能力はない。
 誰にそのことを責める「権利」があるというのでしょう。

 メディアや情報発信の技術が向上したのはいいけれど、どうもいかんなと思うのは、本来の処理能力をはるかに超えたものを、私どもは見聞きしてしまうこと。
 東日本大震災のあと、直接被災していないにもかかわらず、被災者同様の精神的なショックを受ける人が続出してしまったのも、ひとえに、「人間のもつ、処理能力を超えた過剰な情報」のせい。

 人間にはこの世のすべてに関わることは不可能だし、ある意味、それは「やってはならない」ことかもしれません。
 本来人は、自分の持ち場できっちり生きることがもっとも重要なことであるはず。

 でも、世界ではこんなことが、あんなことが起きているのに、放っておいていいのか、と。
 焦れてくる気持ちもわかりますが、もし、そのことについてできることは何もないなら、静かに目を閉じるべきです。

 そこに関わる人たちが、その件については、責任を負って精一杯やっているはず。
 それぞれが、それぞれの持ち場で、それぞれの責務を果たす。
 これができれば世の中、変わるでしょうね。
 いまは、それ「すら」できていないから、このありさまなのだとも言える。

 たぶん、自分が住んでいる町や村のことだけが世界のすべてだった時代は、自分と他人との境界は、曖昧でもやっていけたでしょうが。
 情報過多となり、能力を大きく超えた「世界」が飛び込んでくるようになってしまったいまは、あえて、意識して、「自分と他人との境界線をはっきりさせる」作業が必要になっているのかもしれません。

 世の中のことにひろく関心を持つのはいいことですが。
 遠くにばかり意識を飛ばしてしまい、自分の足元をおろそかにしたり、自分を「壊して」しまっては、身近な人を悲しませるだけではないでしょうか。

 もし見聞きする機会があったならそれもご縁ですから、祈ることができるなら祈ればいい。
 でも、そのために自分の生活をおろそかにしてはならない。

 自分との関わりの程度によって、関心の程度も、できることも、すべきことも変わる。
 本来、「なんの縁もない」ことについてまで、なぜお前はこれを知らないのかと「責める」ほうがどうかしている。そう思います。

 同国人でありながら、遠い外国のできごとに、深く関わる人もあるではないかと言われるかもしれませんが、それはもうそれこそ、その人ご自身のご縁によって、その人はそうするのでしょう。
 同国人としてその人を支援するというご縁にあったなら、できる支援はする。
 そういうことでいいのでは?
 
 自分と他との、境界線を見失わないように。
 そのうえで、祈ることも、寄付行為も、支援も、できることをすればいい。
 感情に振り回されあるいは誰かに責められておろおろして、——自分を見失うことはないように。

 ナイーブって、日本語カタカナ語ではなんとなく、いい意味も含まれてますが(繊細とか純粋とかってイメージで)、本来はこれ、あんまり褒められたことじゃありません。(^^;) 幼稚だとか、すぐおろおろするとか、世間知らずとか、そんな感じ。
(ちなみに、英語じゃなくてフランス語)

 この件についてはそんなにいうのに、こっちのことは無視かよ、という罵言を聞いて思わず動揺し、自分を責めてしまうひとって、「いい人」なんだと思います。お気持ちの優しい方なんですよね。
 でも、それでも、自分の持ち場を放棄しろとそそのかすような言葉を、受け入れてはいけません、と。
 私は申し上げます。

 情報が広く、また大量に流れるようになって日が浅くて、人類もまだまだ、対処法がわかっていないところがあるのかもしれません。
 情報というのも、やりようによっては暴力になる。
 やさしいことは素晴らしいこと。そのことをふくめて、自分の体と心を、まずは守っていただきたい。
 そう思います。
 
 
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