ヒトゲノムの森において
2016年03月05日 (土) | 編集 |


 ミソジニスト(女嫌い)の心理というのはなかなか興味深いものが多いのですが、なかでも、長年—— 10代後半の時にはすでに疑問に思っていたことがひとつありまして。
 女同士の争い、というものを、彼らは異常に喜ぶが、それはなぜか。
 ということ。

 女性同士はいがみあい、陰湿にいじめあう。ゆえに女同士の友情などない——という「イメージ」ですね。
 これ、彼らの大好物だし、「そうであってほしい」ようですが、それはなぜだろう? と、お酒も飲めないような年齢の頃からうっすら疑問に思ってきました。

 女性同士は本質的には仲が悪く友情などないのだという思い込み、というより、そうであってほしいという「願望」。

 私も女性というものに生まれついてそろそろ半世紀近いですが、じつのところ女性同士の友情は、ないどころの話じゃございません。
 私の人付き合いは「狭く深く」だからかもしれませんが、——敬意と厚情のやりとりができる相手はもうほとんどが女性です。

 男性は、これはひとつの性差の話ですが、女性に比べれば共感能力にやや欠けるきらいがあります。
 私の場合はここでつまづく。

 あくまでひとつの「傾向」であり、共感能力ばっちりの殿方も、その能力が完全欠如した女性もいるというのは、私も承知しております。あくまでも「傾向」のお話、ということでご了承ください。

 共感能力のあるひとというのは簡単に言えば、思いやり深いひと。
 こっちがほんとうにつらいとき、真に支えてくれるのは、申し訳ないですがやはり女性だなと私は感じます。

 受容的であり、押し付けがましくなく、わかるよと手を握ってくれるのは——これはやはり、女性の方が「多い」です。
 共感というもので結びつく関係はやはり強固ですよ。
 女性同士には友情などないなどとはとんでもないデマゴギー。

 若い頃にはいちいちそんなデマに腹を立てていましたが、そのうちには、ちょっと不気味に思うようになりました。
 なぜ——そうまでして、女性同士は仲が悪いのだと「思いたい」のだろう。なぜ、「そうであってほしい」と思うんだろう、と。

 それが、女性に振り向いてほしい男性には「都合がいい」「望ましい」状況だからだ、と。
 こっそり教えてくれる殿方がありまして。
 これを聞いたときはなかなか——私も若かったので——衝撃でございました。
 あまりに衝撃すぎて、納得して飲み込むまでに相当年数かかったりして;;

 これはもうミソジニストが聞いたら発狂するようなことなので私もあんまり言いたくないんですが。
 
 たぶん。
 男性がどれほど、女性から認められ、褒められることを「根源的に」求めているか、女性は理解していない。
 モテたいという願望や言葉の底にどんな欲求があるか、女性はわかっていない。
 
 そんな話をこっそりとでもしてくれる殿方というのは貴重な存在。そのうちのおひとりが斎藤一人さんだったりしますが、(^^;) それ以外にもちょいちょい話してくれる方に、遭遇してまいりまして。

 そうであるなら正直に言えば、双方、もーちょっと歩み寄れるんじゃないかとも思いますが、……その根源のお話をなかなかしてもらえないのも、わかる気がするんですよね。
 この話をうかつにすると、女性は——人によっては——かなりの勘違いをする可能性がある。それは望ましいことじゃない。

 ということで、なるほどと納得したいまでさえ私も——あんまり人には話さないことだったりします。

 それをなぜここで、チラ見せ程度でも書いているかと申しますと。
 女性同士は仲が悪く、女性の意識は「つねに」男性へ向いている「べき」だという、男性の「願望」は、これまでの男性優位社会においての、「公認願望」でした。
 昔話に登場する、鬼にさらわれたのに、その鬼の嫁となって生き延びている女性のように——以前には、その願望に適応することが、生き延びていく手段でもあったでしょう。

 が。
 その環境に適応するあまり、じっさいとはちがう自分になってしまう、ということを、そろそろ、やめてもらいたい、と思ったから。

 なかなか、話しても「通じない」話なんですけどねこれ。(^^;)

 いつのまにか受け入れて、他人の思惑どおりの自分になっているということが、必ずしも「不幸」なこととは限らないので、あんまり大上段から振り下ろすような言い方もしたくないんですがでも、そろそろ——誰かの作り出した幻想に付き合うことで生き残る、という発想、やめてもいいんじゃないでしょうかね。
 ありがたいことにそういう時代へむかっているわけですから。

 ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」といいましたが、これは男性にも当てはまること。
 というよりむしろ「生命の基本形態はメス」であることから考えると、そのジェンダーに適応する(せざるをえない)自分の変容の衝撃は、女性よりも本来、男性の方が強いのではないでしょうか。
 
 あまりにも誤解されるリスクが高い話なので、普段は滅多に言わないんですが。
 なんだかあまりにもやりきれない話を聞いて、今日は、つい書いてしまいました。
 
 買うだけ買って未だに読んでいなかった、福岡伸一先生のご本を、ここでちょっと真面目に読もうと思います。
 福岡先生のご本では面白くないわけはない。それは承知していつつどうも気塞(きぶさ)いで、ついつい「積ん読」になっていましたが。
 このさいなので(?)、ちゃんと読んでおこうと思います。



 タイトル、ちょっと誤解されそうですよね。(^^;)
 でも、へたに喋ると女性は勘違いをしそうだという私の懸念の、その根源的な理由にも、さすがにちゃんと触れておいでのようです。

 なんにしても——思い上がらず卑屈にならず、自分であろうというのは、なかなか困難なことでございますね。

 
 
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