生きるために
2016年03月02日 (水) | 編集 |
認知症男性の死亡事故、JRが逆転敗訴 最高裁「家族に監督義務なし」
2016年03月01日  The Huffington Post/安藤健二

 判決それ自体はさほど反対意見もないようですが、たぶん、多くの人が考えてしまったのは、「人はどこまで生きるべきなんだろうか」ということのようで。




 ものすっごい「合理的」な考えを進めた国ではすでに、安楽死についての法律は施行されていますね。
 実施後どんなことになったか、というのは2012年10月時点でこちら。

安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること
児玉真美 / ライター

 正直なところ私もあんまり考えがまとまっていなくて、とするなら、本当は、まだ書くべきではないのかもしれませんが。(^^;)

 安楽死がすでに法律で認められて何年もたっている国でみられる「おぞましい」ことについては、もともと、人間というものにさほど美しい幻想は持たない身としては、まあそんなもんでしょうねと思うだけで、それはいいんですが。(……いいのか)

 人はどこまで生かされるべきだろう、というのは、これはかーなり昔から、頭から離れない疑問なので、またついつい、考えてしまいました。

 上記に引用しましたフィフィさんのツイートも、おっしゃることはよくわかります。誰かの命をつなぐためにだれかが「犠牲」になることが望ましいこととは思えない。
 だからといって、目の前で呼吸しているひとを、先がないからといって殺せるものでしょうか——なんの抵抗もなく?

 きれいごとじゃない、という現実もそのとおりだし。
 でも、なぜか人には、他者に対して、なんとかして助けたいという気持ちが働くのもそのとおりだし。
 生きる希望もないと(他人によって)決めつけてしまうこともまた、傲慢で、「まちがった」態度とも思えるし。

 障害があろうがなかろうが、生まれた以上は死ぬまで生きるのは、権利でもあるでしょうが義務でもあるようにも思えるし。

 だからといってひとりを生かすためにほかの人を(結果的に)殺すのか、という問いかけも、喉元に押し当てられたナイフのよう。

 優生思想には私は賛成しない。
 といって、介護者を「殺す」ことが「まとも」とも思えない。絶対に。

 生きるとはなんだろうか。人はどこまで生きている「べき」だろうか。
 私自身、いわゆる虚弱体質で、昔であれば子供のうちにあっさりどこかで死んでいたはず、というくらいの人間なので——このへんはつい、考えてしまうこと。

 天命というものがあり、人は死ぬまで生きているしかない、というのがいちおうの結論にはなっておりますが——その結論でさえ、現実の過酷さをまえにすると、たちまち揺らいでしまう。

 重篤な病気であることを理由に安楽死を選んだ人とその家族を、バチカンが無慈悲に非難して、世間様から逆に非難されたなんてこともありましたが。

 難しいことだと、あらためて思って聞きました。

 ただ、殺すことは簡単ですが訂正の効くことではないので、どうしても結論の出ないことなら、まずは生きるほうへ足を踏み出していくしかない。そんなふうにも思います。

 よく死ぬためにはよく生きること、とはいいますが。

 よく生きる、というとき、生きるということをどうとらえる「べき」なのか。
 答えはでませんが、答えを得ることをあきらめることもできずに、またつらつら(だらだら;;)、考えております。
 
 
関連記事