笑うこと
2016年02月21日 (日) | 編集 |


 マスコミの劣化についてはおくとしても、でも、この手のダジャレって、ちゃんと効用はあるようですよ。
 そのへんを評価しないのは不当ではあるまいかと思ったのでちょっとだけ。

 日本語は同音異義語が多いせいもあって、もともとダジャレ文化ですよね。
 あの和歌の世界の、「掛詞」だって、和歌の技巧なんていうと聞こえはいいですが、本質はダジャレですよ。(^^;)
 落語の小噺にも言葉遊びのものが多いですし。
 〜とかけて、〜と解く、というあれも、本来はたんなるダジャレではいけないんだそうですが、でも、言葉あそびですよね。

 同じダジャレのはずが、片や掛詞と称して文学表現との扱いを受け、片やオヤジギャグとことさらに蔑称されるのは、これはどうなのか、と。
 
 もちろん技巧の上手下手で区別されるのはしょーがないですけど。
 オヤジギャグって不当に悪く言われすぎでは?

 オヤジギャグを「言える」人はボケないとも言われます。医学的なきっちりしたデータがあるかどうかは存じませんが。(^^;)

 言葉遊びというのも案外脳みそを使うものですし、なにより大事なのは「笑う」「その気がある」ってこと。
 ユーモアの感覚がある。
 つまらないことをいってうふふと笑うというのは、精神的にはやはり軽やかなもので、面白くなくてもいいのですが冗談ひとつ思いつかない、なんていう「真面目」な精神状態って、あんまり健康的ではないようです。

 江戸川柳にも「真面目になるが人のおとろえ」というのがあります。これは至言だと思う。

 つまらない冗談でも、冗談を言えるというその精神状態が大事。
 メタフィジカルなんていうとまた「似非科学」だつって憎まれるのでしょうが、まあひとつのお話ってことで我慢していただいて——、メタフィジカルでは、「喜びの感情に乏しい」と、認知症等になりやすい、という見解があるそうです。

 じっさい、認知症となった方は表情に乏しい。無表情といってもじっさいにはまたいろんな「感じ」があるものですが、無表情のなかでもさらに、なにかを我慢している、こらえている、耐えている、言いたいことを我慢している——、そんな「感じ」の無表情のかたが多いように思います。

 ユマニチュード(http://www.認知症症状.com/humanitude/)で驚いたのは、そのケアによって患者さんがなんともやわらかい笑みを浮かべたことでした。
 あんなふうに柔らかに嬉しそうに微笑むと、それだけで症状が緩和されていく。

 オヤジギャグですなわち認知症予防というほど単純なことではありませんがただ、ユマニチュードの「効果」を見たときあらためて、つまらないことでもいいんで、ふわっと心が緩んで笑う——小さいけれどもそれは確かに喜びの感覚で、それがどれほど大事かを見ました。
 喜びの感覚はやはり心が柔らかであることが大事で、とするならやはり、ユーモアって大事。

 私の父親というひとは、ほんとに冗談ひとつ「言えない」タイプでしたが——たまにいうとかえって人を怒らせる始末でしたからもう、そのセンスのなさは推して知るべしですが。
 あとから考え直してみると、彼の場合、その前頭葉萎縮による、感情の鈍化は、すでに50歳代から始まっていたようです。
 それはしょーがないとしても、それが病態だと気づくことができなかったのは、もともと、若い頃から、へんなふうに感情が硬化しているタイプだったから、と言えますね。

 昔からああだった。歳をとったらなお悪くなった——としか、家族は思わない。
 あれが病気の症状だったとは思わないほど、その人のもともとの性格に強く結びついていた、と申せましょう。

 ああいうのを目の前で見ているので——私は、オヤジギャグ、大事だなと思っております。

 つまらないことでいいから笑う。これを日常的に行っている人って素晴らしいと思いますよ。思わず真顔になってしまいましたが。(^^;)

 ということで。

 その技巧的なものはともあれ、くだらないことでも人をクスッと笑わせる「気持ち」があるものを、そうまで侮蔑の対象にすることはないでしょ、と。
 思ったのはそんなこと。

 軽い話にするつもりが、思わず真顔になったあたりに妙な敗北感(笑)
 
 
関連記事