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罪なき人

 ひとさまのプライバシーには首も突っ込まず口も挟まず、というのをひとつのポリシーのようにしております。
 ということで、それがそもそも事実かどうかは私どもには確かめようもないことだし、仮に事実だったとしても、我々になんの関係があるとおっしゃるので? という疑問をまずは「前提」として提示しまして。

 こちらのツイートを拝見して、いろんなことを思い出したり考えたりしました。




 私自身にはそういう面倒な関係の経験は幸いにしてございません。やっかいなことになりかけたときにはさっさと尻に帆掛けて逃げ出すという薄情者でしたので。(^^;)

 ただ、どういうわけかいろんなひとからいろんな話を聞かされることが多くて、すっかり耳年増。
 話をする人というのはようは、誰かから「承認」を得たいという気持ちがあるようで(でもたぶん、本人は無自覚)、そのドリカム式の熱意やら、「愛」のすばらしさやら、さんざん聞かされてきました。

 承認を求められても、それは私が認める認めないというべき話でもないし、べつに、人のことなんだから非難はしないが褒める義理もないわな、ということで、ひたすら、そうかそうかと聞くばかりでした。
 が、たぶん——愛とやらの素晴らしさを語られたときの、もやもやした気持ちは、つまりこれだったんだな、なるほどなあ、と——上記ツイートを見て、思ったんでした。

「自分だけは大丈夫と思うから」か。
 なるほど。

 その元ツイートにある、「誰かを裏切った人には、いずれ自分も裏切られる」という認識。
 これは必要な認識じゃないだろうか。
 でも、これに目隠ししてしまう気持ちを考え、また、私に「愛」とやらを(かつて)説いた人のことを思い出しますとどうにも——胸がふさがる思いがしまして。大きなお世話なんですが。

「そんなもん、好きになっちまったもんはしょうがねえだろう」
 という、当たり前っちゃ当たり前だがなんだか名言に思える、という、とある人のご発言を思い出します。

 いいとか悪いとかではないし、よろしくないとわかっていても、そうなってしまうことはある。

 でも、それでも。
 同じ状況に置かれたときに、いずれ自分も裏切られるだろう、という冷たい「事実」を、たとえ頭のすみにでも置いておけるのと。
 完全に目隠しして見るべきものを横目にも見ず、自分を「だまして」しまうのとでは、あとあとの結果が違うような気がする。

 なんにしても。
 頭ではそうすべきではないとわかることでも、そのままそちらへいってしまうことは、ある。
 これもまた、冷たい「事実」だと思います。

 だから私はそういうことを非難はしません。
 頭ではわかっているのに、わかっているとおりには行動できない、というものが自分にもあるので。
 私の場合はこういうものではない、ほかのことで、というだけのこと。
 すべて自分の理性のとおりにきっちりきっちり、できている人間の方がよほど珍しいんじゃないですかね。(^^;)

 ひとさまに石を投げることができるくらいの人間は、この世にどれくらいいるんだよって話。

 ——身の程知らずに石を投げるひとは、そりゃあ大勢いますけども。


「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
(ヨハネ福音書8:10-11)


  
  
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