被害者意識中毒
 被害妄想の根強さに、正直なところ、辟易(へきえき)しているところがあります。
 
 世の中にはびこる男女論というもの、もうどれもこれも私は嫌いなんで、ああいう話を聞かされるのもうんざりなんですが。
 ただ、男女の別を問わず、被害者意識の強さには、ここまでくると感心したほうがいいのかも、と思うようにもなってきました。

 自分が何かの被害者で、異性はその加害者だと思い込み、あるいは、決めつける。

 そんな暗くて重い意識に根ざした考えで、生産的なものが出てきたらかえってオカシイくらいでしょうね。(^^;)

 なにかを語るとき判断するとき——自分は被害者で相対する側は加害者である、という認識。
 まずはこれを、「本当にそうか?」と疑ってもらいたいと思います。

 とはいえ。
 アンタそりゃ被害妄想ってもんだよと指摘してまともに聞いてもらった経験はほぼないからなあ。
 私自身がまた、そういう意識を持っていたころのことを思い出すと、そんな言葉に耳を貸すことはなかっただろうということも、容易に想像がつく。

 それでも。
 被害者意識は、たとえじっさいに被害を受けたとしても、そんなものは持たないほうがいい。
 ほうがいい、というより、持つべきではない。
 なぜというに、被害者意識、自分は被害者だ、という「イメージ」自体が、自分を傷つけ萎縮させるからです。

 二次災害ならぬ二次被害ということはじっさいにあるものでしょうが、でも、その二次被害の最大の「加害者」は自分自身でしょう。
 自分で自分を、自分は力がなくて弱くて「ダメ」な人間で、なにもできなくて他人からいいようにされてしまうくらい無能なんだと決めつける。

 じっさい、これ以上の「害」はない。そう思います。

 体を丸めてうずくまり、震えているしかない時期はあるし、回復過程のなかではそれもまた、あるていどは必要なことではあるのですが、そうそういつまでも、そんなところにいるわけにはいきません。
 通常であれば、それはひとつの過程として、回復へ向かって次の段階へ進んでいくもの。

 それなのに、自分で自分をその「防御」姿勢のままにおくというのは、自分の回復を自分で妨げてしまう。

 そのへんがわかれば、あるていどの力が回復できたら防御姿勢はさっさと解いて、立ち上がるのが本来だと思いますが。
 でも、そうしない。
 そうできるのに、そうしない。

 被害者でございますつって、よよと泣いてはひとさまになにかをして「もらう」って、まあ確かに、楽な一面はありますからね。
 被害者であればもうどんな無理難題もゴリ押しも正当化されるという考えの人間が、世の中にはけっこうあるようですが。
 そんな手口はいずれは通用しなくなるでしょう。
 そうなると、私は被害者なのにだれも同情してくれない、かわいそうって言ってくれない、なにもしてくれない、——という、被害意識がすすんでいくんですね。

 人間は結局、自分に都合のいい考えを選別して受け入れる。

 被害者で「ありたい」ひとは、自分が被害者でいられるようなものを嬉しがって取り込む。
 それがどれほど、自己イメージを損なうものであったとしても。

 私もそう親切な人間ではないので、いちおう最低1回は、あなたそれは被害妄想ですよ事実じゃないですよ、とは言いますが、聞き入れないひとにはそれ以上は申しません。

 自分に都合のいい考えだけを取り込む。
 これはもう私もそうだし人間の性分でしょうから、あるていどは仕方ないことなんでしょう。

 ただ、それが、取り入れるべき考えかどうか、判定する基準を持つことは可能だと思っております。

 自分が持っている問題なり苦痛なりを——たとえ時間がかかるにしても、軽くできるものかどうか。

 痛いから、といって薬を飲む。
 その薬の量が、だんだん増えていくようなら、その薬は、その場しのぎの痛み止めでしかないでしょう。
 根本的な治癒ではないので、症状は重くなり、求める薬の量は増えていく。

 本当にそれがあなたを楽にしてくれるものなら、薬の量は減っていく。
 自分が取り込んでいる、ものの見方、考え方は、薬の量を増やしてしまうものか、軽快して薬を手放せるようになるものか。
 そのあたりが、ひとつの基準になってくれるでしょう。

 被害妄想は、百害あって一利なし。
 これはまったくのところ、「経験者は語る」で、断言できます。

 精製され尽くして純粋な化学物質となった白砂糖のような、甘い、でもまぎれもない「毒」であるそれを、少しずつでも減らしていければいいなと願っています。
  
  
 
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