迷セリフに思うこと
2015年12月23日 (水) | 編集 |
 ツイッターでは、ひとさまのツイートを見て自分がそれをさらに「回覧」に出すのをリツイート(RT)と申しますが。
 RTする意味もいろいろあるのでしょうが基本的には、面白いと思ったもの、なるほどと思ったもの、感動したもの、ああうまいことをおっしゃると膝を打つようなもの……と、「これ皆さんにも見て欲しい」ということが動機になりますね。

 たまーには、これどうなんだろう、という、疑問符のまま、「世に問う」といったら大げさかもしれませんが、「こういうご意見もあるみたいですよ……」ということもありますが。
 基本的にはRTってやっぱり、「これ、いいと思うんですよ〜」というものになりますね。

 ということで、一瞬、いいなと思ってRTしかけて、あれ、でもこれって……と、妙なひっかかりを感じ、RTをしなかったものがあります。
 これはちょっと珍しいことで、なにがそんなに引っかかったかなと考えていました。

 ムーミンに登場する、スナフキンの名セリフということで、——セリフbot、みたいなアカウントからのツイートでした。これもどなたかがRTしたのを、私が拝見したわけですが。
 RTしかけて、なにか嫌だなと思ってやめた。

 ムーミンとスナフキンの会話で、正確ではないでしょうが、
「義務ってなに」
「自分がやりたくないことをやることさ」
 という主旨です。

 一瞬は、あ、なるほどと思ったのに、でもなにか嫌な、苦いものがじわっと舌の上に広がって、やめてしまいました。

 なにがそんなにイヤだと思ったかな、と考えていたのですが、これ、一見、なるほどと思われることではあるのですが、こういう言い方の奥に、「甘え」があると感じて、それがイヤだったみたいです。
 二言目には自由だ権利だというが、義務と責任についてはぴたりと口を閉ざす——嫌いなんですよねそういうの。

 このセリフについていうなら、「自分がやりたくないことをやる」というのは自分の都合でね。世の中には、そういうことを自分の意志と熱意で実行することに、自信と誇りを持つひとだっているわけですよ。

 たぶん、大抵のひとは「やりたくない」気持ちがあるでしょう。もしかしたら、自ら進んでその義務という「仕事」にかかるひとですら、心のどこかにはそんな気持ちを持っているかもしれません。

 でも、このいいぐさだと、まるで自分にはデメリットしかないように聞こえる。まるで自分が被害者みたい。
 本当にそうでしょうかね。
 ルールを守るというのもたとえば義務ですが、自分自身もまた、そのルールによって守られている。これは大きなメリットでしょう。

 権利だ自由だといいたがるひとはたいてい、なにかあるとこの世の終わりのようにギャーギャー騒いで他人を責めるのですが、他人を責める「根拠」にも、なってくれるものですよね。そのルールを守ることが。
 もっともらしい顔をして他人を責めるときの常套文句でしょう、「あいつはルール違反をしたんだ」というのが。

 自分が安全に日々を暮らせるのは、それぞれがルールを守っているから実現されること。
 ルールを守るというのは「義務」です。
「やりたくないけど、仕方なくやっている」ときもあるかもしれないけれど、それは、自分だけが「損」をしていることなんでしょうか?

 ——甘ったれんなガキ。
 というのが、そのとき感じた苦いもの、だったようです。
(この場合のガキというのは実年齢のことではなく、精神的な成熟度のこと)

 甘ったれているというより、これはもう完全に「考え違い」だなあ。心得違いも甚だしい。

 でも、こういう言い方を、聞くのもするのも大好き、という傾向が、人間にはあるようです。
 自分は被害者。
 誰かが「巨悪」であって自分はそれに虐げられている。
 なんて可哀想なあたし。

 ——そういうメンタリティ。

 それが嘘か本当かを吟味しないまま、「義務とは、自分がやりたくないことをやること」なんていう言葉に、そうだそうだと嬉しがってしまう。

 私はそういうのは好きになれません。

 その心得違いも好まないけど、そもそも、「本当にそうか?」と思わない、その姿勢自体は、どう考えても、美しいものとは言えないでしょう。

 あらためて、私が日頃「左巻き」と呼んでいる人たちの心の姿勢、それについての私の嫌いようが、どのあたりにあるものなのか。自分でもはっきりわかった、というのが、今回の収穫でした。

 義務や責任は自分のためなんですよね。
 それは忘れないように願いたいです。
 
 
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