精神論の危険性
2015年12月17日 (木) | 編集 |
 FIFAクラブW杯が開催中でございまして。
 昨日は、南米王者、リーベル(アルゼンチン)と、広島サンフレッチェ(開催国)の対戦でしたが、なかなか面白かった。

 スコアだけでみるならリーベルの1-0。まあ開催国側としては、大差でボロ負けするよりはよかったなと思いましたが。

 わずか1点。
 でもこの1点が、実力差なんだよな、と思いました。

 内容的には私はじゅうぶん、楽しめました。文句はないです。
 でも私が楽しめたほどにはほんとうは、肉薄しているわけでもない、ということも、感じていたことでした。

 勝負は水もの、強い方が勝ち、弱い方が負けるとは限らない。
 仮にあれでサンフレッチェが勝っていたとしても、私はあの実力差を見損なうこともなかっただろうとおもいます。

 やっぱりチガウなあ、と感じるのは、どこでそう感じるのかな、と自分でも不思議に思いましたが。
 でも、ゴールする予感は、もう圧倒的にリーベルでしたねー。

 実力と結果は——特にこういうトーナメント戦では——そのまま現れるとは限らないってあたりが、興味深いですね。

 私は諸事情から、「サッカーという競技自体は好きでみるけれど、もうあんなのといっしょにされたくないからサッカーファンは名乗らない」などというへそ曲がり。(^^;)
 そのへそ曲がりは、試合後に、メディアにしろ自称ファンにしろ、えらっそうに選手たちを「採点」するというのが大嫌いなんですが、昨日はそれでも、試合後の感想程度の書き込みをチラチラ眺めておりました。

 それで、最初のうちこそ誰某のあのプレーが、あのミスが、あのときああしていればこうしていればという話だったのが、最後には気合だの気迫だの強い思いだのという話になっていって、ナルホドねえ、とにやにやしておりました。

 先の戦争のときもそうですが、もうね、人間、精神論を語りだしたら悟るものを悟れ、ってことですね。

 状況がまともな間は、戦術なり戦略なり、具体的な方法についてなりを語りますが、敗色濃厚になってくると、ようはそれ、「手詰まり」ってことですから、具体的な話ができなくなるんですね。
 根性だ気合だ、それしかない、というのを聞いたら、もう敗戦は決まったようなもんです。

 最初から精神論、根性論ばかりで、具体的な方法対策なんて言わないひともいるじゃん、というかもしれませんが、そういうのはもうただ単に●●ってだけですから、それはむしろ、最初から相手にしてはいけません。
 昔の熱血なんたらって、そんなのが主流だった気もしますけどもね。

 自分でも、具体策が思いつかなくなって、気合だ根性だと考えている自分に気がついたら——ちょっと冷静になった方がいいですよ。

 ほんとうに困難と思われる状況を乗り越える人のお話を聞いていると、たしかに「石に齧りついても」という気持ちの強さはあるにしても、まさかほんとうに石にかじりついているわけではなく、ほんのわずかな希望であるにせよ、ちゃんと具体策というものにかじりついてますよね。
 一か八か、という厳しさはあっても。

 もうどうしていいのか、ほんとうにわからなくなったときの対応にはいくつかありますが、そのなかでも、精神論を語るのいうのは下(げ)の下の下の下策というべきもの。「策」というのもどうかというくらい。
 
 精神論をぶつ奴をみかけたら、悪いことはもうしません、そっとその場を離れるべきです。泥舟からはすみやかに逃げ出すのが「正しい」対処法というもの。

 敗戦なら敗戦で仕方ない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれってやつで、とにかく、現状を受け入れて冷静に考える、という態度が、生存率を上げていくのではないでしょうか。
  
 精神論「しか」語れない、というのは、どのみち、よくよく反省すべき態度とおもいますね。

 そんなことをあらためて垣間見たというのが、昨夜はちょっと面白かったです。(-∀-)

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