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2015.12.08 (Tue)

溺れても藁は取らない

 ぼーっと街を歩いていても、あまりキャッチセールスの類には声をかけられることがありません。
 ないことはないんだけど、そのへんは意外と(?)しっかりお断りしているようです。(あんまり意識していない)

 そのかわりのように、もーいい加減にしてくれと言いたくなるくらいなのが宗教。
 なんでしょうね。呆けた顔で歩いていて、御(ぎょ)しやすく思われるのは同じだと思うんですが。

 まあなにかと迷いの多い人生でございましたので、基本的にはご厚意により、あれこれ勧誘されてきたのだと思います。
 薬でも病院でも宗教でもサプリメントでも健康器具でもなんでもよろしいが、たとえそれがネズミ講であろうとも、勧誘する実働部隊の人たちは、好意のつもりだし、親切心があるのも嘘じゃないんですよね。
 勧誘させる「元締め」たちは、そのように教育するし。

 10代の頃はそれでキレてしまっておりましたが、成人式後はさすがにちょっと大人になりまして、勧誘されるたびに内心でにやにやしながら話を聞くという、悪質なのはどっちでしょうというくらいになりました。思えば、鍛えられたもんです(笑)

 それで思ったことは。
 宗教の勧誘も、勧誘する側は無意識ではあるようだがやはり、「人の弱み」に敏感だな、ということ。
 溺れる者は藁をも掴む。これを逆手に取るんですね。

 弱みがあり、かつ、真面目な人がいい。
 いちどその教義を「つかんだ」なら、あとは真面目に、「救われるために」「従順に」教義に従い、「上」からの「教え」に従順であること。

 入信はしても、お金も出さない労働力も提供しない、勧誘(布教)活動もしないなんてんじゃ「戦力」になりません。また、純粋な人ほど教義をすなおに受け入れて、「忠実なコピー」を、布教という形で広めていきますからね。

 しかし、おあいにくでございました。
 私は確かに、宗教向きの弱みを山ほど持ち、溺れる者ではありましたが、真面目でもなければ従順でもなければ純粋でもなかったんでした。

 基本的には「疑い」がある。あらゆるものを疑う。この疑いというのは相当に強いものなので、ちょっとした屁理屈なんかじゃビクともしません。あの矛盾だらけの一神教が説得に来たというのは私からすれば「生意気」もいいところで、顔を洗っておとといきやがれという感じでした。

 また、性格にも問題があって、うえから強く言われれば言われるほど反発する、天邪鬼の傾向があります。
 といって、猫なで声でやさしげなことをいわれるのも気持ち悪くて、バカにしてんのかと怒り出す。

 こいつは見込み違いだった、と、気がついたときの彼らの顔は、なかなか面白いものがありました。
 その戸惑いと落胆の表情の中に、軽い「恐れ」が見えるときがあって、それも興味深かったな。
 相手を「弱いもの」と見下していたのに、じつは自分よりも強い相手だったと気がついたときの、「しまった」という感覚——自分の安全がおびやかされるとわかって身構える。そんなふうに見えました。

 面白いな。
 なんだかんだいっても、人間関係は上下と強弱ははずせないんですね。
 そう考えていくと、一体私はどれほど弱点だらけなのか——彼らには、弱々しい人間であることを「期待」されていたかがわかる。

 弱い——弱点だらけというのは嘘じゃないです。自分で言うのもなんですが。
 けれども、その弱さから立ち直っていくのに、まがいものじゃ意味ないでしょう、という信念のようなものがあって、これがたぶん、相当、「強い」。

 弱点部分は目につくんでしょうが、その、「まがいものには用などない」という信念のようなもの、その部分は、まず、認めてもらえないようです。
 ホンモノでないなら要らない、というのも、傲慢な態度ではあるんでしょう。
 でも、じっさい、廉価版では用が足りないんじゃないですか。現実問題として。

 もちろん、伝統のあるものでもないものでも、宗教によって救われる人も大勢います。それはけっこうなことです。
 でも、私にはどうもそういうのは「向いて」いなかった、ということ。

 こちらとしては、私の弱点はよく見てもらえるのに、「まがいものではない、ホンモノが欲しい」という信念は、なかなか理解されないのだ、ということは勉強になりました——ということ。

 最近ではおかげさまで、宗教に勧誘されることはほぼありません。
 昔よりは弱みが減ったのか、あるいは、「隠し方」を覚えたのか。
 それはわかりませんが(笑)
 
 
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