袈裟をはずしたら
2015年12月07日 (月) | 編集 |
 週初めからいきなり、社会復帰を困難にする動画(笑)


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 昨日で大型の案件(?)も無事終了しまして。
 今日はもう、半分くらい寝てます意識が。(^^;)

 ということで暖機した状態で、あんまりちゃんと喋れない感じですが、昨夜一つ、とあるツイートを見て、ああそういうもんだな、と思ったことを。

 自分にはとうてい受け入れられないあるいは理解できない考え方をする人間が目の前にいたとき、その人の「考え」をではなく、人間性をまるごと全否定する。同じ人間扱いしない。
 ——人間て、どうもそういうところがあるよな、と。

 理解できないというよりも、「嫌い」なものの考え方があるのは、これはわかる。
 そんな屁がつく理屈、聞いただけで虫唾が走る、というくらいに嫌いな考え方や主張やイデオロギーや宗教……だれにでもそういうものってありますよね。

 でも、誰がどう聞いても胸の痛むような話をして、「でも、ああいう人達ってこんな話を聞いても、こんな(自分が感じるような)つらい気持ちになんかならないんでしょ」ということを最後に捨てセリフでおっしゃる。

 これはよろしくないなあ——と思いました。

 親に虐待されて殺されていく子どもの話を聞くのは、まったくなんともやり場のない、つらい気持ちになるものですが。

 ご自身がそういう考え方が嫌いだからって、「子どもは親を選んで生まれてくる、なんてノーテンキなことをいう人は、こんな気持ちにならないんだろうね? なるの?」というのはちょっとどうかと。

 子どもは親を選んで生まれてくる、という、まあ、いわばスピリチュアルな考え方ですね。そういうのがあるのは存じております。

 私はこれ、「チベットの死者の書」を読んで類似のことをつらつら考えたことがあるので、その引っかかるお気持ちはよくわかります。(^^;)



 でも、たぶん、ああいうスピリチュアルなものの考え方を「択(と)る」人は、そういう、つらい、重い、悲しい気持ちにならないのではない。
 むしろ、そういう気持ちが人一倍強くて、かつ、おそらくは、自分と他人との境界線をうまく引けないくらいのところがあるんじゃないでしょうか。

 そういうノーテンキで非論理的な考え方でも、それによって自分自身を「守る」ことができる——そういう人もいるんだと思いますね。

 そのあたり、自分はなぜこのスピリチュアルな考えをとるのかを、認識していればいいんですが、なかには、その考え方を強固に「信じ込む」ことで、過剰に自分を守ろうとしている人もあるでしょうね。
 私が、熱狂と宗教は苦手じゃ、といって逃げ出す場合は、たいてい、こういう人につかまりかけているときです。(^^;)

 自分自身を突き放して見る、そういう「冷たさ」がない人とは、案外うまく話せないんですよね私;;
 キャッチセールスみたいなものにはありがたくも御縁がないけど、宗教にはしょっちゅう声をかけられます。
 たぶん、そういう人から見ると私は「御(ぎょ)しやすい」タイプに見えるんでしょう。理由もだいたいわかっているけど、そこはあらためるつもりはない。

 ということで、そういう、スピにハマっている人に苦手意識や嫌悪感を持つところまではわかりますが、だからって「あの人達にはこんな感情はないんでしょ」はヒドイと思いましたさすがに。

 でも——これたぶん、人間はあちこちでやってるよなあ、とも、思いましたね。

 利害の対立がある人、悪意の有無に関わらず自分を苦しめてくる人、考え方がとうてい相容れない人、不倶戴天の敵——、そういうものに対しては、私どもは、つい、「あいつら人間じゃない」と思い込む。
 同じ感情をもち、同じように大事なものを持ち、愛情も残虐性もある「人間らしい」連中だとは思わない。

 ……そのほうが、自分が楽だから。

 自分とは相容れない、近寄って欲しくもない、むしろ消えて欲しいくらいの存在が、じつは自分と同じような、やわらかな心を持つ傷つきやすい存在だなんて思ってしまうと、憎めなくなる。
 あるいは、自分の憎悪を「正当化できなくなる」。

 あいつら人間じゃない、悪魔か鬼か、そんなもんに決まってる。

 そういう感覚になったほうが自分が楽だし、憎悪を正当化もできる。

 私の場合ですと、最近では「放射脳」かな。(^^;)
 
 嫌いは嫌いだし、相容れないものは相容れない。それはそれで互いに仕方のないこと。
 でも、自分が何を嫌っているのか、というのの本質は案外せまい。
 考え方が嫌いだったり、口癖のようなものが嫌いだったり、押し付けられることが嫌だったり、それが「本質」で、べつに、相手の「人」そのもの、そのすべてを含んでいるわけではない。

 言葉や考え方が嫌い、ということと、人格否定は同じではない、ということ。
 
 これはありとあらゆる差別にもいさかいにも当てはまること。
 自分が嫌っているのはごく狭い範囲、あるいは小さな「要素」だけのことで、その範囲を抜け出たり要素をはずせば、目の前の人はそのまま、可愛い、いとしい人間のままだということを、つい、忘れる。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといいますが、じっさいは、自分の嫌悪は袈裟のほうかもしれませんよ。
 袈裟をとってしまえば、べつに、ああ、お坊さまね、と思うだけなのに。

 自分を楽にするためだけに、自分を正当化するために、人間そのものを全否定することはないように。
 心がけたいと思います。

 なんのことはない、私も、なにかにつけ好き嫌いが激しいからです。
 むしろその好き嫌いの激しさに、自分で自分に振り回されてきたから——だから、気をつける、という側面がありますね。(^^;)
 本当に本性から穏やかな人間なら、逆にこんなことは意識せずにきたはず。

 好き嫌いはしょーがないけど、振り回されないように。本質を見誤らないように。
 それを願うばかりです。

 この世における、あらゆる人の争い、いさかいは、ここから始まっていると思うから。
 
 
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