意識変化
障害児の出産「茨城では減らせる方向に」 教育委員発言
2015年11月19日03時00分

 へたに要約しようとするとかえってマズイことになりそうなので、ニュース記事へのリンクを置いておきますね。

 障害を持って生まれてくる人についての考え方はいくつか、あるいは複数の側面があるので、話題がごっちゃにならないように気をつけたいと思いますが。
 
 柳沢桂子先生のご著書によれば、両性生殖は染色体の組み合わせ、バリエーションを増やすという役割があり、さまざまな環境に適応すること、能力をえて「生き残る」ために、遺伝子の組み合わせを増やしていく——「遺伝子プール」を作っていくものなんだとか。
 よーするに「進化」ってやつですね。



 そうやってさまざまな組み合わせを作っていく中で、なかには、組み合わせがうまくいかないもの、不都合のあるものを生じる場合が出てくるのはやむを得ないこと。

 遺伝子由来の障害をもって生まれてくる人は、その組み合わせの、いわばデメリットを引き受けている、ということになる。
 遺伝子プールを増やすという意味では、うまいこといった組み合わせも、ちょっと不都合がある組み合わせも、意味としては同じ。
「障害」というけれど、遺伝子組み合わせの貴重な存在であることは、ほかの組み合わせと同じであり、むしろそういう貴重なものを引き受けてくださっていることについて、私どもは感謝するべきことである、——と、そんなお話でした。

 いいか悪いかは人間都合。
 生命を生み出す「源」はつねにニュートラルで、いいとか悪いとかのジャッジはしないんですね。
 
 ——ということを、まずは頭にいれておいて。

「本来は」生命には区別はないのである、というのは、いわば倫理的な考え方ですね。
 で、障害のある人やそのご家族について、どう考え、どう対応するかは、「社会のありよう」のお話。

 関係はもちろんあるけどごっちゃに論じないようには、気をつけたいところ。

 生命に貴賎なし区別なしというのはおそらくは宇宙の原則ということで、私も賛成します。
 一方で現実には、親御さんやご家族の、物心ともにその負担は軽いものとはいえない、というのも、そのとおりでしょう。

 昔の日本社会では、障害があったり、障害とまではいえないくても十分な体力のないものはどのみち長生きできなかったので、切り捨てるしかなかったでしょう。
 生命に貴賎がないというのが宇宙の原則なら、適者生存もまた自然界の原則。
 
 宇治拾遺物語だったかなあ、平安時代か鎌倉時代か、中世といわれる時代のお話で、ある男が仕事へ向う途中、道端に赤ん坊が捨てられているのを見つける。あれじゃあすぐに死んじゃうぞと思いながら彼は通り過ぎていく。
 ほかの人もそうなんですね。
 これはなかなかショッキングな描写でしたが、そういうものだったんだろうなと思い直した記憶があります。
 ——生き残れないものは死んでいくということが日常の光景なので、とくだんの同情心もないわけ。

 また、これは完全に後世のフィクションでしょうが、行基上人のエピソードとして、上人が町で説法をしていると、集まった人々の中に、障害児を背負った母親の姿があった。上人、つかつかとその母親に歩み寄ると、とめるまもあらばこそ、背におった子供をとりあげ、川に投げ込んだ。
 その子供が「その女には前世からの恨みがあって、もう少し苦しめてやろうと思ったのに。上人に会ったばかりに」と、流されていきながらそう言った——というお話。

 ひどいことはもちろんですが、要所はそこじゃなくて、当時の人々の意識がどうだったかがわかるよね、ということなのでよろしくお願いします。

 それに、これは実話で、たぶん江戸時代でしょうが(ある人のご先祖さまのお話)、障害児を生んだお母さんが、「申し訳ない」といって、その子を抱いて川に身投げしたというお話もあります。

 幸い、現在の社会では、生命に貴賎なしという「原則」に人々は立ち帰ろうとしているし、経済面からそれを実現することも(昔よりは)困難ではなくなってきている。
 
 社会はそのように変化しているのですが。
 ——問題は、人の意識が、ちゃんと時代に合ったように、変化しているか? ということ。

 1,000年前よりは、「原則」の実現に近づいたとはいえ、経済事情その他はまったくそれぞれのご家庭次第。他人が、ひとさまの考えや事情について、いちがいにどうこうとはいえません。
 なかには、その子を産むことを望みながら、経済事情その他から、泣く泣く諦めるひともあると思います。
 可能な限り、誰かの明るい望みを叶えられる、そういう社会を——と。いまは、そういう選択をしたい、選択しようというところへ向かっているように思います。

 生命に貴賎なしという原則を社会の基礎にする——そういうふうに人の意識は変わってきている。
 適者生存も間違いではないが、それしか選択肢のなかった1,000年まえの意識とは、そろそろお別れしたいところだな、と。

 ただ、社会が公的な支援を厚くしていくというのはいいとして、それでも、個人の健康状態や経済状態の問題はあるので、ある選択肢を不当に否定、非難することも、やめたほうがいいと思います。

 どういう立場に立つにしろ、とりあえず「非難合戦」はやめたら、ということですね。
 不毛だし時間とエネルギーの無駄。
 そんなことを言っている暇があるなら、公的な支援制度があるんだよということを広報するほうがよほど世のため人のためになるでしょ。

 私も、障害とまではいえないにしろ、現在の医学や医療制度がなければとっくに死んでいただろうという虚弱児だったので、それぞれのご意見も言い分もわかるし反論もできないなーと思いながら拝聴しました。

 生きていてごめんなさい、という意識はあるしこれを突かれるとホント弱い。(^^;)

 ただ、感情的な非難合戦には、なーんのメリットも知恵もないとだけは言えますね。確実に。
 
 
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