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ある意味、ワンネス

 現地時間11月13日の夜、フランス、パリで起きた同時多発テロ。
 詳細はまだまだこれからあがってくるでしょうから、事件内容そのものには触れずにおきますね。

 昨日は、ツイッターのTL(タイムライン)はいつもの日常とテロに関係するツイートが入り混じり、見ていて気持ちがかなり混乱してくる感じでした。

 で、無理もないんですが、こういうことが起きるたびに聞こえるいくつかのキーワード。
 決して許されない、というのは、今朝の日経新聞さん「春秋」も書いてましたが、——若い人がいうならわかるが、いい歳した中高年はこれやめましょうやと思いました。
 許されようが許されまいが、アンタがそこで許せないと息巻いたところでそんなもんはごまめの歯ぎしり、なんの意味もないことはこれまでの人生経験でよくよくわかっているはずじゃないんですかね。
 
 私ももはや、そういう強い憤りはなくなってきました。
 ただ、疑問だけが色を濃くしていく。
 許す許さないなんかどーでもいい。そんなもの、お題目お念仏ほどにも意味がないことばだ。

 なぜ、どうしてこんなことを、ということも、どうすればいいのか、ということも、もう大体、わかっているはず。
「こんなことは許されない」などとノーテンキなことを書く、ブン屋さんにはおわかりではないかもしれませんが。

 その答えは、でも、やたらにいうと誤解されるだろうし怒られるだけだから、言うも虚しいので言わない——そんなところじゃないでしょうか。

 ゆえに「言葉もない」としかいえず、それでも何かを言うとしたら、「すべての」犠牲者のために祈りますという、それだけ。
 なぜ「」付きで、すべての、としたかというと。
 ——自爆テロ実行犯のためにも、祈るからです。
 わかるかな。

 あんまり、わかってもらえそうもないな——と思いながら、ちらっと書いてみました。(^^;)

 こういうときの考え方には2つルートがあります。
 ひとつは、いわば「人類の行動原理」というところから、人はなぜこんなことをいつまでもやめられないのか、ということを考えるルートと。
 もうひとつは、「政治問題」として、テロ対策、難民問題、政治体制の問題、地域性の問題、複合的に考えていくルートと。

 おもなところはこの2つ。

 20世紀は戦争の世紀だったと言われますが、20世紀中でその戦争も変質しました。第1次世界大戦までは「戦場」と「後方」はわりあいと(あくまでも、わりあいと)分かれていましたが、大量破壊兵器のおかげもあって、前線も後方もない、ありとあらゆる場所が戦場となりました。

 21世紀はさらにその境界がなくなり、——紛争地と、紛争のない(安全であるはずの)地域の区別もなくなってきた、ということですね。

 いいか悪いか許されるかされないかが問題ではこの際ないので念のため。そんな情緒的な話はしていないので。

 昨日も、パリへ祈りをというハッシュタグを私もつけてみたりしましたが、ツイートしつつ、「ほかの国、自分とは遠く離れた地域の話——じゃないんだよな」と思ってもおりました。
 あああちらは大変なことが起きてるよ、気の毒だなあ——じゃないんですよね。
 同じ地続きなんですよ。
 同じ場所に自分がそこにいるんですすでに。

 国際法というルールがあって行われる戦争のほうが、まだしも「マシ」だったかもしれませんね。
 テロ、テロリズムにはもうそれこそ、ルールもクソもない。国境もないし地域もない。聖域もない。戦闘員、非戦闘員の区別もない。
 駅で電車待ちをしているとき、自分の隣に立った人が自爆犯だとしてもなんの不思議もない。
 そういう時代になったということ。

 あんまり呑気なことを言ってる場合でもないんだよな、と。
 犠牲者のために祈る、悲しい、というような、ウェットな感情を感じるそばで、脳みその一角では、そんな冷たいこともそっと考えているところです。

 パリのために祈りを、というのはいいんですが、それ、ぜんぜん他人事じゃない——ということを実感したら、本当は、もうちょっと、出てくる言葉も違うんだろうな、と。
 昨日からはそんなことも、ぼんやりと考えております。

 お気の毒に——という気持ちはやさしいものですが、しかし、それはどこか、「自分には関係ない」意識が潜んでいるように感じます。

 まったく、いま生きているのは運がいいだけ——という、それが私たちの世界の「実相」かもしれません。

 で、こういうことはなくなっていくと思うか? と言われるなら、まあ、なくなりゃしないでしょう、というのが、答えになります。
 どうやったらなくなるだろうか、いつになったら——という問いについても、なんとも身も蓋もないことを言うしかないでしょう。

 それなら、祈ることも、山火事の火を消そうと水を運ぶことも無意味か、というのなら、それは違う、と、これははっきり言えますね。

 救いがあるとすれば、その点でしょうか。
 むなしいとはわかっても、言葉にすることさえやめてしまっても、水を汲むことはやめない。
 それでいいんだと思います。
 
 
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