十人十色


 そーなんですよねーと思ったツイート。

 私もわりと、いわゆるスピリチュアルといわれるものの解釈で思考を進めていくところがありますが(全部じゃないです)、こういう、目に見えないものに入っていくとき、どっぷり浸かっちゃうのはいかんな、という「警戒心」はどこかでつねに持つようにしております。

 物心ついたころにはすでに私の身近に宗教があり、その宗教が人を救うどころか終生消えない傷を人に与えるのを目の当たりにしてしまい(そりゃ人間不信にもなるわ)、ああいうものへの警戒心はたぶん死ぬまでぬけないとは思いますが。
 とはいえ、宗教っぽいもの、人間の熱狂、というものに対する、嫌悪感とも違う、どうしてもそういうものに「酔えない」ところをみると、私の場合はもともと生まれつき、そういう熱中を嫌う傾向を持っていたんでしょう。

 で、まあ、思うところあって子供の頃からえんえんと、宗教思想の本を読み、哲学もちょこっと読んでみて、それでも、どうしても、腑に落ちない部分がありまして。
 そこへ、気持ち良くぱちりとピースをはめることができて、おおなるほど、と、やっと納得できたのは、量子の世界のお話と、スピリチュアルといわれるものの考え方でした。

 また、立派な医学用語として spritual pain という用語があること、WHOが「健康」の意味を定義しているのですがその定義に、

「健康とは、身体的、心理的、社会的、スピリチュアルに、完全にいい状態(well-being)であって、単に病気あるいは欠陥がないことではない。そして、それは、人種、宗教、政治的信念、あるいは社会的な差別なく、各人の基本的な権利である」



 とあると聞いて、どうもスピリチュアルというのは日本語の訳語、霊的とか精神的というのとは違うなと感じてそのへんもまだ、つらつら考えているところですがともあれ。

 いろいろ考えてきましたが、最近思うのは、
「要は自分が楽になれるように考えていい」
 ということなんですよね。

 そのスピリチュアルな解釈で、自分のへんな執着を手放せるなら、楽になれるなら——誰かを許し、自分を愛せるのなら、その考え方でいい。

 私は宗教苦手ですが、でもその教義によって救われる人がいることは否定しない。するようなことでもない。だからいいんじゃないですか、と思うし。

 ようはなんでもいいんですよ——その人が楽になれるなら。

 これが正解というものを人は求めてしまいがちですが、どうもそんなもんはないな、というのが、私の思うところとなりました。
 宗教でも哲学でもスピリチュアルでも、あるいは無神論でもなんでもいい。
 その人が心を軽くできるなら、好きなように考えていい。

 どんな人にも「効く」ことばを探している人もあるようですが、そんなもん、たぶん、ないですよ。
 その人の性格も状況も条件もあるし、生い立ちもあるし、心の癖も違うし。同じ人でも、若いときとそれなりの経験を積んだ年頃のときでは、ことばも違ってくるし、それが当たり前なんで。

 これはスピリチュアルに限ったことではないんですが、「自分がそれで救われたからといって、それが万人を救えるとは思うな」、と。
 これだけは、肝に銘じたほうがいいな、と思います。

 ありとあらゆる考え方はある。ドグマもある。でも、これこそが唯一絶対無二の「正解」——そんなものはない。

 自分が救われたと思うなら、その自分の体験談として語る以上のことは、ない。
 自分と同じ人はいない。
 救いは人の心の問題であるなら、何が救いになるかは人それぞれだし、同じ人でもタイミングというものがある。
 単純に、ハンコつくって押してりゃいいってわけにはいかない。

 迷いが深かった人ほど、救われたことへの感動も感謝も深いでしょう。それはいいことだと思う。

 でも、自分の救いが他人にも当てはまるなどということはない。

 まあ、自分なりの経験に固執するのはどんな人にでもあることなんですが、どうも、スピリチュアルとか宗教とかからそのへんに入る人ってそのへんが——、つまり、「よかれと思って自分の考えを相手に無理やりあてはめて、挙句、傷つけ」てしまう、というのが目立つみたいです。

 自分と人とは同じではないということを。
 もうちょっと自然のうちに「応用」できたら、こういう摩擦も減るんだろうけどなあ、と思って拝見したツイートでした。
  
 
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