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標識になるイメージ

 昨日、11月8日の「ほぼ日・今日のダーリン」になるほどなあ、と感心して、そのとき受けたイメージをまだ反芻(はんすう)してます。

 よりすがる、とは漢字で書くと「寄り縋る」となり、辞書では、
「からだをすり寄せてすがりつく」
「助けてもらおうとたのみにする」

 という解説になっているそうな。

 結局、本人はそれを対象への愛情だと信じているけれども、じっさいはその対象に「よりすが」っているだけ、そういうことが多いよね、というお話。
 多いというよりも、あれか——境界が淡くてハッキリしているわけではないので、うっかりすると、愛から「寄り縋り」に簡単に移行しちゃう、というべきか。

 辞書の説明で興味深いのは2項め。
助けてもらおうとして頼みにする」。
 これは、宗教では多く見られることですね。

 人間関係で相手に「寄り縋る」のはよろしくないが、宗教ではむしろ、これが積極的に求められるんですよね。

 宗教は面白いことに、神様でもなんでもいいが信じるべき対象に、絶対的な「依存」を求める。むしろ肯定的に。
 それが「純粋な信仰の証」になるんですね。

 寄り縋るとは「依存」といえるでしょう。

 アルコール依存、労働依存、恋人や家族への依存、宗教、自分にとっての偶像(アイドル)。
 ものはなんでもよろしいですが、まあそういったもの。

 買い物依存やアルコール依存、最近ではSNS依存もありますが、一般の社会生活ではそれは「病気」の扱いなのに、宗教だけは、むしろ、なにもかもを投げ出してこちらへ依存しろ、と要求してくる。
「忠誠」の証として。

 人間がその心に自然のうちにもっている信仰心と、宗教はじつは「無関係」——むしろ宗教に傾倒しないほうが、信仰心は純粋を保つ、くらいに私は考えているのですが、それはこのへんに理由があるのかもな、と思いました。

 好きなものがある、信じているものがある、というのは、いいことだと想います。
 それこそ、「よりよいもの」を目指す動機づけにもなるし、推進力にもなる。

 でも、それが少し方向を狂わせると、「依存」になる、というのは、なるほどな、と。

「わたしが、恋人に「よりすがる」だとか、
 親のほうが、こどもに「よりすがる」‥‥
 とても大切に思って愛しているということの奥に、
 じぶんが、その対象のほうに「よりすが」っている。
 そういうことが、おおいにある。

 「おれは、仕事を愛している」という人は、
 (仕事に、よりすがってはいないか?)
 「真剣に、この業界のためを思ってるんだ」
 (その業界に、よりすがってはいないか?)
 そのつないだ手を放せないのは、
 相手のためなのか、それともじぶんのためなのか。
 じぶんの足に重みをかけて、手をつないでいたいものだ。」


 最後のところの、「じぶんの足に重みをかけて、手をつなぐ」というのが、鮮烈なイメージとなって脳内に浮かびまして、ああ、これいいなあ、と思いました。

 このイメージがあれば。
 
 迷ったり間違ったりしたときに、このイメージがあってくれれば。

 淡いその境界をいつのまにか踏み越えていることに気がついて、
「よりすがる」
 ことから、本来の場所へ戻る、「標識」にできる気がする。

 ——じぶんの足に重みをかけて、手をつなぐ。

 これは、いいイメージだな、と。

 いいですねえ、といいながら、昨夜からイメージを牛の胃袋のように反芻中。
 
 
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