必須条件をしぼりこむ
2015年11月07日 (土) | 編集 |
 伝統的な家族観というものには、じつはかなり疑問を持っております。

 自分では中道保守くらいの気持ちでおりますが(他人から見てどうかは知らん)、ただ、旧来の家族制度に関しましては、私情ありまして、——「家」制度、なかんずく父系社会というものへの抵抗感と疑問と違和感は、そりゃもうたいへんなもので。(^^;)

 ただいま夫婦別姓についてと、離婚後に女性のみが半年間再婚できないという法律の妥当性について、最高裁で審議が始まったようですが。(あんまりちゃんとは見ていませんすみません;;)

 まあ、日本の伝統としては明治までは、べつに、夫婦同姓とは決まってなくて、慣習としては夫婦別姓のほうが主だったと思われますね。
 なぜというに、お嫁さんというのはその家の「家族」ではない、という立場なんで。

 このへん突っ込んで話すときりがないので言いませんが、そういうわけで、夫婦同姓の根拠に「伝統」をいうのは無理がある。論拠にはなりません、とだけ、「事実確認」を願います。

 私としては、「選択制」で好きにやってもらえばいいんじゃないですかとしか思いませんが、ただ、現在、この別姓を推し進めようとしている人たちがどういう人たちかをみると、感情的に不愉快になることが多いのです。(^^;)
 選択制であれば別姓いいんじゃないの、とは思いつつ、あの人たちに「協力」するのはやだなー、という、身も蓋もないものが、私の現状です。

 再婚禁止については、不合理なんでそんなもん、とっととやめろ、と思ってます。

 これについても必死の形相で、というか鬼のような形相でいろいろいう(わめく)、そういう方々を、わあ怖い、と言いながら眺めています。みなさん、私以上に感情的ですねえ。(^^;)
 
 いいか悪いかはいいませんが、憲法いうところの「公共の福祉に反しない」という観点から、冷静にお考えいただきたい。
 現行法によって戸籍を持てない人が多数存在しているのは社会として無視できない問題ではないのですか。
 それに、ある人の実子ではない人を、実子の扱いとして無理やり戸籍にいれさせるのは、「国家による誘拐」です。
 よろしいんですかこれ。

 個人が他人の子供をさらって自分の子とするのは誘拐事件となるのに、国が法律をたてにとれば合法になり、かつ、それを守るべき——とは。
 無茶苦茶な論理破綻、と私には思えます。

 感情的、という印象です。
 感情で「しか」ないのを無理に押し通そうとして、まさに「無理を通せば道理が引っ込む」ありさま。
 なにをそんなに必死になっているのか、私にはわかりません。少なくともいまのところは。

 ただいろいろお話を聞いているうちに、なるほどなあと思ったことはひとつだけありまして。

「家制度」という、「制度」の話をしている人と。
「家族」という、「人間の暮らし」の話をしている人が、混在している、ということ。

 私は現実主義の実利主義なんで、人の暮らしそのものとしての、家族というものを考えることが主になっていると思われます。
 だから、べつに苗字なんて好きに名乗ればいいじゃない、という感覚があるんですね。

 でも、「家制度」に固執する人は違う。
 血統主義、父系主義の堅持、「内と外」「秩序」というものをこそ重んじ、そのためなら個人が犠牲になろうが殺されようが戸籍がないという「社会的な抹殺」という目にあおうが関係ない。
 そういうお考えですね。

 これでは話がかみ合うわけがない。

 私にしても——従来の「家制度」からみると、ひどいことを口走ります。(^^;)
 親に子供を捨てる権利を認めてやれ、親はなくても子は育つ、両親そろってこそまともという発想をやめろ、そもそも両親が男女ペアであるべきというのもやめろ。
 ………殺されそうですよね私(笑)

 それらの考えの理由を述べるなら、
「子供にとっては愛情をそそいで育ててくれる人は必須条件だが、その人が、血縁のある親である必要はない」
 から。
 すべてはこの理由によるものです。

 ノイローゼになったりあるいは自身のトラウマの影響から、我が子を殺す、というのなら、その親から子供を引き離すしかないわけですよね。子供を死なせたくないなら、ですが。(死んだっていいとおっしゃるなら話はべつですよもちろん)
 子供を捨てる権利を認めてやれ、というのはそういうこと。

 現在、性的少数派とされる人々を、社会として受け入れていくという流れが出てきていますから、いずれは、両親がともに男性・女性、ということも出てくるでしょう。

 ひとりの人間が生きていく上で、なによりもゆるがせに出来ない条件は、愛情だと思ってます。現実主義かつ実利主義者としては。
 もちろん理想を言えば、自分を産んでくれた人からまっすぐに愛されて育つことが望ましいことではありますが、それは「必須」か、といわれると、そうでもない、というのが現実なんですよね。
 実の親にこだわって殺されるくらいなら、赤の他人に愛されて育つ方が、はるかによろしいことなのではありませんか。

 私がいうのは「血縁にこだわる必要はない」ということであって、「実の親より他人の方がいい」ということではありませんので念のため。

 理想をいえばいくらでも言える。
 できればその理想に近づけたいというのも、大事なこと。

 でも、そんな理想なんて紙くずほどの価値もない、そんな現実を生きざるを得ない場合もある。
 その現実のなかでも豊かに生きていくこと——それを無視することはできないでしょう、というのが、私の思うところです。

 伝統的な家制度について、いっさいのメリットを認めないかというとそんなことはないんですが、いま、それをしゃべるとまた誤解されそうなので申しません。(^^;)
 
 性的少数派のかたがたを受け入れる流れがあることを考えても、現在から今後にかけて、家族とはなにか、人はそこに何を求めているか、問い直して「再構築」していく。
 そういう時期なのかもしれないなあ、とぼんやり思ったりもしております。

 なんにしても、過去からの「〜ねばならぬ」は、続けるにしろ改良するにしろ、盲目的につづけることだけはやめたほうがいい。いまは、そういう時期なんじゃないか、と。

 夫婦別姓には「選択制ならいいんじゃないの」といいつつ、あの人たちには協力したくない、などと口走る私が申しましても、説得力がないことこのうえないだろうとは、承知しておりますが。(^^;)
 
 
関連記事