聖と卑は同じ
2017年08月11日 (金) | 編集 |
 本日、山の日で祝日でございます。
 が、私にとっては今日から3日間、東京ビッグサイトにおきまして開催されます「コミックマーケット92」の方が重大事。
 ということで、明日は私も「祭典」参加のため、こちら、お休み致します。m(_ _)m

 会場からツイートはしているかもしれません……が、現場に行ってしまうと意外と時間が取れなかったりするんですよね…。RTは簡単ですが。

 また明後日、8月13日にお目にかかります。m(_ _)m

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 二村ヒトシさんについては、「名言」ツイートでお名前、ご著書はお見かけしていたのですが、本をちゃんと読んだことはなくて。

 ツイッターアカウント(https://twitter.com/nimurahitoshi?lang=ja)もお持ちなので、ちょっと拝見しましたが、なかなか興味深い。
「なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」からの引用でしたが、結局、自分で自分の幸せを否定していたり、人に愛されることを怖がって拒否している、という心理状態が(無意識のうちに)あり、それがために「愛してなどくれない人」を、わざわざ自分で選んでいる、というご指摘でした。

 これは全くそのとおり。本人の表面的意識はそんな自覚はないでしょうけど、いわゆる「だめんずウォーカー」はこの典型と言えます。

 それはともかく。
 ツイート主さまは、二村さんと信田さよ子さん(心理学者、臨床心理士)の対談中の言葉にいたく感動なさってのツイートですね。ぜひこの部分を読んでくれ、と。

 ツイートを表示できないこともあるかと思いますので、その部分、抜書きいたしますね。

二村 女性の中には、菩薩とか母性じゃないけど「揺るぎないもの」があるような気がしていて……。
信田 ストレートに言ってください。
二村 すみません。女性がしっかりしていてくれれば、男がその女性に恋をしても女も狂わないし、というか、男に狂わされている場合じゃなくて、女は男とか恋愛に対しては、どっしり構えていてほしくて。男が女に右往左往させられているほうがいいのになって。
信田 わかった、わかりました。
二村 女を美化しすぎですかね。
信田 美化じゃないですよ、バカにしてるんですよ。「女性は人間じゃない」ってことの裏返しの表現。自分を美化しているんですよ。
二村 女を崇めてるんじゃなくて、むしろ自分を安全圏において自分を崇めてる?
信田 「菩薩」っていい表現に聞こえるけど、実際には「女性には頭脳がない」ってことを言ってるんですよ。





 私もこれを読んで、ヘーエ、と思ったのは、ここまで聞きかじりよりも頼りない状態とは言え、二村さんのご発言から、もう少し「わかっている」人なのかと思っていたので——、女性に「こうであってほしい」というその願望を聞いて、あら意外、と。

 頭か何かでわかっている、というのと、もっと深い場所にある欲動は別のものだということかもしれませんね。

 このツイートについたレスに、「菩薩=バカにしている、というのがわからない」というのがありまして。
 そうですか、わかりませんか…と思ったのでちょっと私も考えてみました。

 菩薩というの、確かに一見、崇めているようではありますが(そういう感情もないことはないんでしょう)、その菩薩に、人間らしいイメージはあるのか? ってことですね。
 男尊女卑思想では、女性にはおよそ人間性など認められていません。女性にも感情があり、痛覚もあるということを、まるっきり無視しているのが男尊女卑。なんせ「卑」ですから、少なくとも自分と「同等」ではない。

 菩薩もまた、人間のイメージではないはずです。
 これは、芸能人、アイドルなどと、そのファンの関係と同じ。そう言えばイメージしやすいかな?

 ファンはときに、好きな芸能人やアイドルが恋愛したと聞いただけで文字通り「発狂」しますが、あれは、対象となる人を、トイレにもいかず飯も食わない、ただひたすらに美しく輝かしく、自分の思い描く美しい「像」として、崇めているんですね。
 けれども、わずかでもその「像」から外れると(そりゃトイレくらい行くでしょうよ誰だって、というレベルのことでも)たちまち、その「愛」は逆回転を始め、信じられないくらいの憎悪になる。

 つまりは、「信仰」もまた、対象を人間扱いしていないわけです。

 歴史の中でも心理学の世界でも、この「聖」と「俗/卑」の関連性はよく言われることでして。
 表現は全く正反対ですが、根は同じ。「本質」は同じ。

 二村さんはそういうあたり、すでにご承知のはずと(もんのすんごく漠然と)思っていたので、あら意外、となったわけですね。(^^;)

 2014年にお亡くなりになりましたが、作家の渡辺淳一さん、その作品に、ものすごい勢いで反発していた女性たちを思い出します。
 渡辺作品の女性像もまた、現実の、生身の女ではない、渡辺淳一さんの思い描く願望の女性像ですね。
 しかし、その像に対する反発が、私もびっくりするくらいのものがあり——あのとき、世の女性は、自分が誰かの願望のもとに自分の姿を歪められている、現実ではなく誰かの願望の中に「閉じ込められている」と感じ、怒りを溜め込んでいるんだなあ、と思いました。

 ただ。
 
 私としてはこういう話、あんまり、男女差別の話にはしたくないんですよねえ……。

 女性の側にも、それこそ私などはビビるくらいのもんのすごい願望「像」があるし、男性を求めているようでいて、実際には「現実の」「生身の」「人間」ではない何かを求めているだけ、ということは少なからずある。

 私はかなり露骨な男嫌いですが、女嫌いの男性の気持ちは、じつは、結構わかります;;
 主張されることそれ自体が問題じゃなくて、その「感情」「気持ち」の部分ではまったく同じなんですよね。
 
 こういう話になると意外と私が困ったように黙り込むのは、そういうわけで、「問題なのは、実際には、性別ではない」ことがわかっているから。

 二村さんのその願望も、それは彼が男性だからそういう形をとっているだけで、もし二村さんが女性なら、やはり「男性を人間扱いしない」願望を持つはずです。

 問題は性別ではない。それは「表現方法」の違いでしかない。
 問題の本質は、——二村さんがご自分で書いていらっしゃるとおり、自分自身をきちんと愛していない、というところにある。

 背中が痛い、と言って湿布を貼ったりマッサージに行ったりするけどいっこうに良くならない。
 ……と思っていたらじつは狭心症の発作が起きていた、みたいなものです。

 痛みがある局所にばかり気を取られていては、心臓病という重大な病気を見逃してしまう。

 私にはどうしても、この種の「議論」は、背中が痛いからって湿布を貼って、マッサージして、整形外科へ行って、でも、どれも全然効果がない、とぼやいているようにしか見えないんですよね。

 背中が痛いと言っても、なぜ左側だけが痛むのか、ちっとも治らないのはなぜか、と、そういうことにちゃんと目を向けていると思われた人さえ、じつは本質を見ていなかった、というのが私には意外でした。

 菩薩と「バカにしている」の関係性も、もう少し理解されるといいな。

 私が、何のファンになるにしろ、どうしても頭の隅っこに冷たい氷の塊を置いてしまうのは、「カリスマに熱狂するのは、奴隷を虐待することと同じ」という認識があるから。

 それが誰であれ、生身の人間を「信仰」する「趣味」はない、とたびたび私が申しますのは、こういう理由によります。

 でもこういう態度の奴って、消費経済にはあんまり貢献しない傾向があるんで、それは申し訳ないなと思うんですが(笑)
  
 
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