美しいこと
2017年08月21日 (月) | 編集 |
 それなりにものがわかっていると思われていた人でさえ、ふとした瞬間に、「男らしくない」「男のくせに」などといったことを口走るのを見たとき。
 子供のころ無意識の領域に刷り込まれたことから抜け出すのは、これはもう、本当に、容易なことじゃないな、と思います。
 いえ他人事みたいにいってる場合じゃあない、私はそういうものの価値観考え方を、嫌悪というより憎悪していますが、であるにもかかわらず、やっぱり、そういう類の言葉がふと胸の奥に湧いて出る瞬間がある。

 なんかもう、絶望的な気分になりますねあれは。
 その意識のあまりのしつこさに。

 ただ不思議に思うのは、女性で、「女らしくない」「女のくせに」には猛然と反発するのに、自分自身はそういうことを平気で口にするのを見るとき。
 ………自分が言われれば怒るのに、なんで人様に向かって同じことをするんだろうか。
 というのは、消えない疑問。

 考え方というより「感覚」として、一度その文化の中で染められた意識というのは、ホンッッットにしつっっこいな、と思いますね。
 自分自身でも自覚できないうちに、(性別のことに限らず)「〜らしい」「〜であるべき」「〜であることが素晴らしい」という感覚で、物事や他人や自分を「裁いて」しまう。

 男らしくない、などという言葉が胸の奥にふと浮かんで、自分でもうわあああと思った瞬間というのは、ある意味ではチャンスでもある。
 意識できない領域にあるものが、意識できるところへのこのこ顔を出した瞬間ですから。それは。
 その尻尾を捕まえて、その「巣」を探し出す。

 なかなか「巣」の本丸まではたどり着けませんが、でもそういうことを何回か繰り返すうちには、だんだんそういう感覚からも自由になっていく。
 これは実際経験しないとわからない感覚だと思いますが、そういう巣を叩き潰したときって、軛(くびき)から解放された、なんとも言えない爽快感があるんですよね。

 人様のことを、らしいだの、らしくないだのというときは、大抵、相手のことを不快に思っている時で、不快に思うってことは自分を正当化する意識で自分を守ろうとしている時でもある。
 ので、なかなか、らしいのらしくないのという「巣」を探る気にはならないものだとも、承知しておりますが。
 でも、他人から、その意識は間違ってる、などと言われてもなかなか素直に聞く気にはなれないものでして——というより大抵の人は激昂するよね——、であれば、人から言われる前に自分から白状して片付けるのがいちばんです(笑)

「文化」といえば聞こえはいいけど、ホント、こういうのってしつこいもんですわ。
 いいことは文化と呼び、タチが悪いことは「因習」と呼ぶのが通常ですが、なんと言おうと同じ。

 で、正すべきことは正して、良い点であると思うこともまた、ときどき、尻尾を捕まえて「巣」を探るのもおすすめ。
 こちらは巣を潰すのではなく、川の美しい源泉のようなもので、その小さな純粋性を、「〜の源泉」という札でも小さく立てておいて、何かあったら、そのきれいな清水に触れられるようにしておくと、これは美点を保つことができる。

 どちらにしろ、無意識にあるものを意識化するという作業は、「より良く生きたい」という人間の欲求を満たすためにはいいことだと思っております。

 男らしくないなんて言葉で人を裁くのはどうなのか、と、例えば指摘したとき、素直に聞いてくれる人は多くはなく、むしろ、その「文化」や「習慣」を盾にして逆襲してくるひとの方が多いと思います。
 そういうのを聞いていると自分の気持ちがまたグラつくかもしれませんが、私のオススメは「それは美しいか?」という「基準」。

 一つの物差しで人を裁く、それは美しいことか? ——というところで考えると、迷いは消えます。私の場合は、ですが。

 それを自分がどこまで実行できるかどうかはまた別ですが、でも、「良心」としての答えは、自然と決まる。

 それは美しいことか? と考えてみる。

 生臭い人間ですから、答えが出ても、その通りには動けないことがほとんどではありますが、それでも、自分につまんない嘘をついて自分を正当化しているよりは、「美しいもの」はそこにあり、自分はそこには(まだ)いない、とわきまえているだけでも、長い期間のこととしてみれば、少しずつでも「自由」に近づく。
 ——のではないかと考えております。

      ●

 明日は所用ございまして、こちら、お休みいたします。m(_ _)m

 明後日は、所用ございまして、投稿時間が通常より遅れると思います。
 またお目もじ叶いますよう、ご機嫌よろしゅう。m(_ _)m
 
 
関連記事
禍の休眠
2017年08月20日 (日) | 編集 |
 毎日いろんなものの記念日ですが、今日は「蚊の日」だそうです。(^^;)
 いったい、蚊の何を記念するんだろう、と不思議に思って検索しましたら、
「イギリスの細菌学者ロナルド・ロスが、羽斑蚊類の蚊の胃の中からマラリアの原虫を発見した日(1897年)」(http://www.konnahi.com/content/category/601/)とのこと。

 1897年は明治30年ですか……マラリアの原因、感染ルートがわかったのって、思ったより最近のことなんですね。
 マラリアは熱帯・亜熱帯に多いとされる感染症で、潜伏期間は1〜3週間。発熱が周期的に続くというのですからやっかいですね。死者もでる怖い病気ではあります。

 現在の日本では流行はありませんが、かつてはかなりポピュラー……というか珍しくはないもので、源氏物語にもちょいちょい登場する病気。「わらはやみ」瘧、という名称で登場します。

 抗生物質もない時代ではやはり命取りになることも珍しくはなかったんでしょうね。周期的に発熱、悪寒、ふるえが続き、貧血、肝脾腫(かんひしゅ)も見られるとか。

 重症化すると、脳性マラリア、急性腎不全、肺水腫、播種性(はしゅせい)血管内凝固症候群(DIC)による出血傾向、重症貧血、代謝性アシドーシス、低血糖、血色素尿(けっしきそにょう)等の合併症を引き起こし、死に至ることもある——とのことなので、甘く見てはいけません。

 私もなぜかやけに蚊に刺されやすいので……海外旅行へ行くなら気をつけないといけないタイプですが、でも気をつけるっていってもねえ……。虫除けの薬をつけても、塗ったその場所を食われることなんてしょっちゅうですからね;;
 蚊に刺されやすいのってなんでなんだろ;;

 ということで、マラリアは亜熱帯等の病気だから関係ないとか、そんなことはないので、——あれですね、医学と防疫のおかげで、昔はポピュラー(?)だった感染症等がなくなるのはいいことですが、それでみんなの記憶から消えてしまい、——現在ですと結核がそうですが、病気の逆襲があったとき、お医者さんも忘れているので診断ができない、というのはちょっと困ったこと。

 先日も、ツイッターの方では、犬の飼い主さんで狂犬病予防の注射をちゃんとしていない人に対して、嵐のように「病気を甘く見るんじゃない!」というお怒りツイートを拝見しまして。
 狂犬病があれほど脅威となる恐ろしい病気だとは私も不勉強で存じませんで……。汗顔の至り。

 わらはやみ、瘧(おこり)といったマラリア、もがさ・疱瘡と言った天然痘、日本脳炎、…現在ではほぼ抑え込むことができている病気も、いつ逆襲してくるかわからないわけで、防疫というもの、あだおろそかに考えてはいけませんよね。

 ましてこれほど人々の往来が激しくなり、海外渡航が特別なものではなくなっている以上、ますます気を引き締めて行くべきところ……ですが。
 どうも人間のよろしくないところで、すーぐに「平和ボケ」するんですねえ……。
 この感染症についてもまた、「一朝(いっちょう)ことあらば」、あった時にはもうある意味「手遅れ」なんで、一朝ことのないように、厳重警戒を続けることが大事、ってことですね。

 すぐに平穏な状況に「ボケる」のは人間の習性ではありましょうが、緊張感を忘れないためにも、今日あたり、しみじみ蚊取り線香を焚いて、マラリアの脅威(現在だとデング熱の方がリアリティありますか;;)を思い返すというのも、悪いことじゃないかもしれません。

 ……と、これを書いている間にいつの間にやら首筋を蚊に刺されたみたいです;;

 どうしてこう、蚊に刺されやすいんだろうなーもー;;
 
 
関連記事
今年の夏は?
2017年08月19日 (土) | 編集 |
 今年の夏の長期予報は「暑い夏」でした。
 が、今年は夏の売れ筋——ビール(ビアガーデン)、アイスクリーム等の売り上げは伸び悩み、コンビニでははやばやおでん販売もあって好調だとか。

 ………気象庁さんの3ヶ月予報ってだいたい反対になる。
 と、私は思っているので、長期予報で「今年の冬は平年より気温高め」と言われると、「もーだめだー! 今年は厳冬なんだ〜!!」と半泣きになるほど。(←寒いの大嫌い)
 それくらい、ある意味では、気象庁の長期予報を「信じている」ともいえます(笑)
(予報とは逆になる、という形で”当たる”と言えるので)

 悩むところは「平年並み」と言われたときでして……
「平年並み……平年並みかあ……、ハズれるとしたらどっちに外れるのかなあ。平年より上か、下か?」
 これは結構、難問です(笑)

 今年の夏は暑いと聞いたときは「冷夏かな」とチラッと思いました。
 それでも、冷夏だな、と確信的には思わなかったのは、日本は亜熱帯化が進む一方なので、少しくらい涼しいといってもじゅーぶん暑いはずだと思ったため。

 で、実際のところはどうかというと。
 今年は、冷夏というよりも、「日照不足」って感じですねえ。気温が低めといえば低めですが、問題なのは気温より、とにかく雨だらけで陽の光がないこと。

 それでもやはり、ビールやアイスの売れ行きには影響するんですね〜。最低気温を見ると、データだけなら熱帯夜と言える日が結構あるんですが(最低気温が25℃を下回らない)、でも、体感と言うのはそういうものでもなくて、今年は夜はそれなりに過ごしやい、と感じます。
 夜は割とちゃんと眠れるので、それは助かりますね。

 天気図を見ると今年は、太平洋高気圧が張り出して、梅雨前線を押し上げると言うことがありませんでした……。
 実質、夏がないまま秋になるんだなあ…。

 美味しそうな肉まんのニュースを聞きながら、そんなことを思う、処暑目前の土曜日。

       ●

 人生相談のサイトをちょっとのぞいて見たら、
「私の彼氏は、結婚していて、子供もいて…」
 と言う文言がいきなり目に入ってきて、
「いやちょっと待って、そう言うのは彼氏とは言わないんじゃ……」
 と焦ったら、回答者の方も、それは彼氏とは言わぬ、とズバッとおっしゃっていて、「そ、そうですよね…」となんとなくほっと息をついた次第。

 ああびっくりした;;

 彼氏でなければなんなのかと言われそうですが、……そりゃあなた、不倫としか言いようがないじゃないですか…。私はあんまり好きな言葉じゃないけど、強いて呼称をつけるなら、愛人、てんですかねえ。
 でも、呼称さえも本来は、つかないような「もの」だと思いますよ。


 私、未成年の頃から漠然と疑問に思ってきた言葉があるんですが、——「付き合う」って、なんでしょうね? 具体的にはどんなことを指しているんでしょう?

 この相談者さんも「妻子持ちと付き合っている」という言い方なんですが、相手が妻子持ちだと「付き合っている」と言う言葉が「合わない」気がするんですよね。
 付き合うとは、肉体関係があるかないかだろう、と言われたこともありますが、でも、いわゆるセフレっていうのもあるし、そういう「関係」にいて悩んでいる人も見るわけでして、そればかりとは言えない。

 なんだか不思議だな。
 語義不明で使えない言葉が私にはいくつかありますが——、中2病と女子力って言葉が、どうもイマイチ意味がわからなくて、意味がわからない言葉は使えませんから、どういう意味だろうかと思ったまま放置していますけども。
 この「付き合う」という言葉についてはもう30年ほども、どういう意味だろうかと思った「まま」なんだよなあ……と、変な方向でしみじみしております。

 回答者さん、自分も友人に不倫していた人がいたが、いくら忠告してもやめなかった、との回想。
 そうなんですよね……私もそうなんで……。忠告を聞くどころか逆にこっちが分からず屋みたいに言われて、挙句には「愛」をとうとうと説かれるわけですよ。
 でも、その愛とやらが本当なら、アンタは今の状況に置かれることはないはずなんでは? と思いつつ、さすがにそれを言ったら殺されかねないなと思って黙っていた記憶。

「あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬと あきらめた」
 
 なんて都々逸もありますから、気持ちはわかるとも言えるんですが、でも、やはりわかっている場合じゃないですよねえ……。
 

 まあ、こういったことは理性で割り切れるものではないので、そのあたりは承知しておりますが、でも……、誰にとってもいいことなど一つもない、それどころか、関係者は全員傷つくしかないことなので、情が移ってしまう前に、その場を離れる方がいいな、と。
 完全に他人事ながら思って、そっとページを閉じた次第。

 なんだか変な話になりましたね。(^^;)
(そもそもなんでそんなページを見たのかという……。いえ、もののはずみで。(^^ゞ)
 
 
関連記事
上機嫌でどうぞ
2017年08月18日 (金) | 編集 |
 他人をコントロールすることはできないが自分は変えられる。なんて言葉がありますが。
 その通りではあるけれど、自分を変えるというのも、簡単なことではないですよねえ;;

 と思っていたら、斎藤茂太先生のお言葉に出会い、なるほど、とナットク。

「自分を変える必要はない。
 機嫌を変えるだけですむ。」



 難しく考えて、自分を変えよう、こういう考え方をしよう努力しようと力むことはない。
 ただ上機嫌でいればいい。

 なるほどそれはそうか、と。
 状況は同じでも、自分はイライラしてるけど気にしない人は全然気にしない、というのを見ればわかるんで、ようは、「反応の仕方」なんですね、その違いは。

 自分の性格を変えるとか、そんなことはしなくていい。ただ機嫌よくしていればいい。
 これは、いわゆる「形から入る」というのと同じ発想かもしれませんね。
 プロセスを細かく考えたり努力するのではなくて、すぱっと「結論」を「作ってしまう」感じ。

 上機嫌である、ご機嫌である、とはつまりは、どういう状態のことを言うか、と考えてみる。

「自分を上機嫌に保つコツは、実は二つしかない。
 一つは、他人と自分を比べて、どうのこうと思わないようにしていることだ。」


 ごもっともです。

「もう一つは、お金が足りないかもしれないとか、あの一言はひどいなあとかいうような、
 心を暗くすることは、できるだけ忘れてしまうようにすることである。
 この二つを身につけるだけで、人生の悩みのほとんどは、消えて無くなってしまうに違いない」



 自分の力ではどうにもならないこと——例えばお天気。雨が降るか晴天になるかは誰にもコントロールできない。
 過去に起きたことも変えられない。
 将来的なお金の不安も、もちろんあれこれ考えて手を打っておくのは大事なことですが、それでも、これで万全ということはないのが世の中というもの。今の時代は国内は良くても、海外で起きた事件が引き金になって経済も暗転、てことは実際ある。
 先のことは誰にもわからない。

 自分は自分のできることをして、あとはもう「天にお任せ」するしかない。自分の力ではどうにもならないことはどんなに悩もうが苦しもうが変わらない。変わらないことに悩むだなんて余計なエネルギーを使って消耗する必要はない、ということ。

 まあ、いい意味での開き直りとも言えますね。

 他人に好かれたいとか嫌われたくないというのも「自分の力ではどうにもならない」こと。
 自分ができる精一杯をやったなら、あとはもう相手の問題なので、よかったかなとか悪かったなとか、必要以上に考えない。

 こういうことができれば、あとは「自分が心地よくなる考え」だけを選んでいれば、「いつでも上機嫌」になるよ、と。

 結局、「考えること」も、クセなんですよね。
 世の中やなことばっかりだ、と思うけど、それでも、その嫌なことを考えていろなんて誰も命令してなどいない。その嫌な考えをわざわざ選んでいるのは「自分自身」。
 だったら、嫌な気分になるとわかってるなら自分で嫌なものを選ぶことはないでしょう。
 ——と、そういうことなんですね。

 他人のことはコントロールできない、だから自分を変えよう、というと、もっともだとは思いつつも、どうしたらいいのか気が遠のくくらいでしたが。

 なんのことはない、自分が気分良くいられるように、嫌なことは考えない、素敵だと思うことだけ考える。——それだけなんですね。

 上機嫌でいるということは、精神的な余裕をもたらす。
 余裕があれば、人のことを思いやるのも難しいことではなくなる。
 やさしさは、かなり「体力」でできている、と喝破した人がありましたが、体力の余裕は精神的な余裕にもつながる。
 自分が水に溺れながら他人のことを思いやることは、なかなかできません;;

 状況ひとつひとつについて、「自分を変える」には? などと考え込むところがありましたが、「自分がご機嫌でいなさい」とは。
 イメージしやすいし、ものすごい普遍性だし。
 なるほど、さすが。と思った次第です。

 でもそれだって簡単にはできない——と思うのは良くわかります。これができたら本当に人間、解脱してます。成仏してます。
 でも、何かあったとき、機嫌よくいよう、と「心がける」ことは、「習慣づけ」を作っていくことなので、全く何もしないよりは、半年後、1年後、3年後、5年後………少しずつでも確実に「身についてくる」。

 身につけば悩み事の大半はなくなる、とモタ先生もおっしゃるし、そりゃそうだなと思います。

 身体面、健康面のことも、だから、大事ですよね。お腹が痛い、頭が痛いと言いながら上機嫌というのもなかなかない。
 体調が悪いとき、不調があるとき、あまりにも他人に気を使って我慢するということもないように。

 いい意味で、「自己本位」であっていい、ということになりますかねえ、このへん。

 自分が機嫌よくいれば、機嫌の良さは他人にも「伝染」しますし(ニコニコしている人を見てぶすくれる人もそうはいないでしょう)、機嫌が良ければ人様に優しくすることもできる。
 自分が気分良く過ごせばひいては人のためにもなるので、妙な罪悪感を持つことはない。

 ご機嫌な人が増えてくれれば世の中の風通しも良くなるし。
「世直し」は自分のご機嫌から、と言えるかもしれません(笑)
 どうかご遠慮なく、上機嫌でお過ごしください。
 
 

関連記事
チェックアウト時の片づけは
2017年08月17日 (木) | 編集 |
 夏休みなんだなあ、こんな話題が重なるとは。
 ホテル泊まってチェックアウトするとき、お部屋はどのようにしておくか? というお題。
 思ったよりもいろんな「説」があるようです。

「飲みかけのペットボトルは」 ホテル従業員の『お願い』が胸にささる
2017/08/11 grape
http://grapee.jp/373051

ホテルチェックアウト時に『部屋をきれいにして出る』っていうのはやめましょう。
 使ったものは「使いました」と分かる状態にしておいてください。
  ☆次に宿泊する人のため☆に・・・

2017/08/15 togetter まとめ
https://togetter.com/li/1140645

 前者は基本的には日本におけるホテルでの話、後者は海外でのホテル利用の方が念頭に入っているだろうけど国内でも同じことですね。

 特に後者で「部屋をきれいにしないこと」というのは、え? なんで? と思いますが、「きれいにする」ことは「ホテルで掃除の人が掃除しやすいようにする」こととは違うぞ、ってことなんですね。なるほど。

「部屋を掃除の人はね、ぱっと見きれいだと「使ってない」とみなして掃除しませんから」というのにはぎょっとしますが………、まあそういうことも考えられないとは、言えませんよね;;

 私も年に何回かホテル利用しますが、明らかに「誰かが使ったもの、使用済みの何かを触る」羽目になったことは、今のところありません。海外のホテルも……まあ数えるくらいしか行ったことはないですが、そんな目には合ってない。
 回数少ないことと運がいいことの両方でしょうね;;

 ともあれ。

 掃除する人が掃除しやすいようにしておく、というのは心がけておきたいところ。特に私はチェックアウトタイムぎりぎりまでいることがあって、そういう時は周辺のお部屋はすでに清掃が始まっていて、あの申し訳なさってなんとも言えない気持ちです。(^^;)

 ところが、どういう状態なら「掃除しやすい」ものと言えるのか、というの、なかなか奥が深い。



 使ったタオル等はまとめておくのはいいとして、「バスタブに入れる」っていうの、そーいやどこかで聞いたことがあるような…? と、うっすら怪しい記憶。
 とは言え私は実行したことがなくて、理由は、いかにホテルの部屋は空気が乾燥しやすいとは言え、翌朝にはバスタブがきれーに乾いてるなんてことはほぼない。そういうところに布類を入れるのはやだなあ、と自分で思うため。

 私は、タオル類、足拭き用のマットを、バスタブのふちに掛けるようにして置いてますが……どうなんでしょうかね…。それでいいのか、他の方法がいいのか、ちょっと聞いてみたいです;;

 むしろここまできたら、掃除の方にはどういう状態が望ましいのか、まとめて聞きたい。

 ベッドについても、お客さんがチェックアウト時に良かれと思って、きれいに整えてしまうと、「ぱっと見きれいだとシーツ類の取り替えなし、ベッドメイクなし」にされるというのはちょっと怖い。(^^;)
 私は上掛け布団を外して足元に3つ折りくらいに軽くたたみ、その上に、あればパジャマ的なもの(ワンピースみたいなの、スリーパーっていうんですかね、あれは最近多いですね)も畳んでおきます。

 私はあれは「湿気を飛ばす」くらいの気分でやってましたが、でも「このベッドは使ったよ」とわかりやすくしておけ、ということには適(かな)うかな。

 それにしても、ベッドをぐちゃぐちゃで帰るのもアレですが、自分できれいに整えるなんて方もあるんですねえ。その心がけ自体はエライなあと思うけど……うーむ。

 ツインルームをシングルユースにしてもらうことが結構ありますが、そういうとき、心置き無く二つのベッドを使ってゴロゴロするという人もあるし、私は、ベッドは1台でジューブンです、ということで片方には全く手もつけずに過ごします。

 例えそうでも日本のホテルのハウスキーピングだと、それでもベッドメイク、やり直しているんじゃないかなーとも思うんですが。(^^;) 

 まあ、ホテル泊まりというのはよーするに「人様のものをお借りする」わけですから、借りたものは、できるだけきれいにして返すというのは「人として」当たり前のこと。
 チェックアウト時にはお世話になりましたの意味も込めて、できるだけ、清掃もやりやすいように整えておきたいところですね。

 こちらも良かれと思ってやったことが、かえって邪魔になったり、手間を増やしてしまうようでは悲しい。
「こういう状態にしてほしい」ということがあるなら、また聞かせてもらえる機会があればと思いますね。

 それに、部屋を掃除しやすいようにとあれこれ片付けることのメリットはこちらにもあって、あれをやると忘れ物をする率が格段に下がる。
 時間に追われてどうしてもできない場合もあるでしょうが、できるだけ、「きれいにするというより、片付ける」ようにすると、自分にもメリットあるよってことで。

 明らかに前に泊まった人が使った何かに触る……って、そりゃショックでしょうしね〜;; (^^;)
 
 
関連記事
悪口のリスク
2017年08月16日 (水) | 編集 |
 他人のことをとやかくいうことのリスク、と申せましょうか。

【叶姉妹】コミケ参加は新CMのプロモーション説に憤慨~実際、弁護士さん動いて投稿者ツイ消し
(※弁護士さんのツイート有り)

https://togetter.com/li/1140305

 きちんとした「事実に基づく」「批判」ならまだしも、これ、ただの悪口ですもんね。
(ちなみに私は、非難、悪口雑言、誹謗中傷を批判という言葉にすり替えることはいっさい認めません)
(批判ならまだいい方で、批評と言いやがるのもいますけどねえ……もうそれは論外)

 あることないことを触れて回る、というような言い方がありますが、あることないことならまだマシなんで、「ないことないこと」をいう手合いも世の中少なくないですからね。日本のメディアみたいに。

 叶姉妹さんについては、コミケ初参加とは思えないその準備とリサーチの見事さには、私も敬服するのみですが、なるほどこういう「たわごと」も、クソガキの寝言として流すのではなく、悪質であると見ればきっちり法的な手段を取るというのも、立派だなあと思いました。

 感情的になって聞き苦しいことを喚き散らす必要はないのはもちろんですが、だからと言って、見過ごすべきではない「犯罪」に対処するというのは、案外、ちゃんとできないことなんですよね。
 
 あのきっちりした仕事ぶりを見ても、叶姉妹の厳しさはわかりそうなものなんですが……、というより、こういうなんの下調べも確認作業も行わずに、自分の思い込みだけで人を「おとしめる」ことを平気で言うような人であれば、それほどちゃんと「人を見る」はずもないか……、と、勝手に納得。

 まあ、ものが何であれ、ネット上にあるものは「公共の出版物と同等」と言う判断が裁判所でもなされているので、いかにツイッターが気楽に使えるツールとはいえ、その運用までは、自分の部屋でブツブツ独り言を言っているのと同じ感覚であってはならない。

 裁判で判断されたのは、ブログにおいて、ある事件の容疑者とされた人(その後は無罪確定)について、「報道(いまはこれはフェイクニュースという意味ですが)」にあったことと、あとは自分の勝手な憶測で、無実の人を貶めた件でした。
 ブログに書いたことは、公共物としての責任があるのか、あるいはあくまでも「個人の感想」にすぎないかというところで争われたわけですね。

 で、判決は、ブログは不特定多数、大勢の人が目にする可能性がある、つまり公共性があるものであり、そこへ書き込んだことであれば、新聞や雑誌の記事と同じような性格を持つと認められる。
 故に、ブログ主には、名誉毀損罪が適用される、と。
 そんなことになったんですね。

 あの事件ではブログでしたが、ツイッターでもなんでも同じこと。誰かのエントリーにつけたコメントでも同じ。

 確かにツイッターは個人の気楽な使用を前提にしていますが、内容まで気楽にしていいものではない、ということ。

 ましてツイートは140文字しかない上に、後から編集もできない。
 できるのは削除することだけですが、削除してもいくらでも痕跡は残されるのはご存知の通り。

 ツイートの気楽さは本来は、「自分のこと」「近況、現況」を伝えるためのものであり、他人のことをあげつらうためではない。
 モノがなんであれ、他人のことを言うときは、そりゃもう慎重になって情報を集めて、自分でも確認して、さらに言葉を選ぶ、と言うくらいが「当たり前」ですが、——これは表現の自由とは別個の問題。
 
 自分に人権があるのなら、他人にだって人権はある。
 そのことを忘れていい場面は、きっとこの世のどこにもない。そう言うことじゃないでしょうかね。

 他人のことを言うのならその前に自分のことを言うか、せめて自分のことも同時に書いておくのが、ある意味「マナー」かなとも思います。
 他人のことを言わざるを得ないときもあるんでしょうが、そういうときはことさら慎重に丁寧に扱うべきなんでしょうね。
 本人が目の前にいたら自分はこのとおりに言えるのか、どうか。
 そういう自問をしてみるといい。

 そういう中でもツイートは140文字しかないので、気を使ったり慎重になったり言葉を丁寧に選んだり、ということが、かなりやりにくい。
 ならばと言ってツイートを連投する人もいますが、ツイートはひとつひとつが独立して、RTやいいねができるため、ひとつのパラグラフ(まとまった意味を持つ文章の区切り。単位は「意味」なので、ひとつの段落とは限らない)だけが抜き出されると、本来言いたかったこととはかけ離れたものになり、「誤解」される危険性が高い。
 
 ということで、
「ものがなんであろうと他人のことをとやかく言わないのは基本だけれど、中でも、ツイッターは、人の悪口を言うのには”向いて”ないなー」
 と思った「まとめ」でした。

 ツイートもひとかたまりにまとめて投稿できるような仕組みでもあればいいんだろうな、と思いますが、……あの構造では無理でしょうねえ。

 少し丁寧な説明が必要なら、ウェブのページにするか、ブログエントリーにするか、したほうがいい。
 パラグラフが分解されるのは、好ましいことではありませんでしょうね。

 もちろん一番好ましくないのは、「他人の悪口、陰口を言う」行為、それ自体ですけども。

 あと、名誉毀損罪については、過去にも申し上げましたように、これ「事実であれば何を言ってもいい」ってことじゃない。
 たとえ事実であったとしても、誰かの社会的な地位や名誉を貶めるものだった、その「意図があった」と認定されれば成立する罪。

 丸い卵も切りようで四角、ものは言いようで角(かど)が立つ、という通り、同じことを言うのでも言葉が違えば印象はまるっきり違ってくるものですから、たとえ事実であっても、やはり、言葉については慎重になるべきところでしょう。

 それにしても。
 他人の悪口を言うくらいしか話題がない人って、聞いたほうが寒々しい気持ちになるものですねえ……。人のことなんでどーでもいいだろう、と言われれば、そのとおりですが…。
 どうせだったら聞いて楽しい話をしてくれるほうがいいな。
 それは誰でも同じ気持ちだと思うんですけどねえ……(遠い目)
 
 
関連記事
個性は細部に宿る
2017年08月15日 (火) | 編集 |
 着る服でも流行を追いかけたり、あるいは芸能人等の服装・髪型を真似たりをよくする人に、不思議な言い方で「羨ましい」と言われたことがあります。
 不思議な言い方、というのも奇妙な言葉に聞こえるでしょうが、私には瞬間的に意味が取れなかったので仕方がない;; 人間、あまりにも予想してなかった方向から切り込まれると、どーしても一瞬、えっと驚く方が先で言葉が素通りすることがあるもので。

 何か——私のファッションに関することが、「我が道を行く」感じで、いいなあ、というような言い方だったと思います。
 我が道を行くのでありつつ、もちろんひどく流行を外すわけでもなく、ダサいということもなく(本当か?・笑)、「自分なり」になっていて、いいなと思う、という。
 へー、そう? と、私としてはびっくりで一瞬リアクションも取れないほどでしたが(笑)

 その人自身は、私から見れば、とてもおしゃれで、それこそ髪からつめの先端に至るまで、いつも綺麗にしていて、素晴らしい、と思っていたのですが。
 本人にすると、「流行を追う」ことに、たまに、疲れを感じることがあるようでした。

 まあ、人さまン家の芝生は青く見えると言いますが、自分の良さというのは本人にはわかってないものだというのの典型ですかね。(^^;)
 あるいは、誰かから、その流行にバッチリ合ってることについて、何か言われたのかもしれません。
 所詮は人真似であり、流行り物を追いかけるだけであり、オリジナリティがない、みたいな言い方で。

 そんなこたーありません。

 流行のものと一口に言っても、実際には、例えば名称は同じワイドパンツだったとしても、すそ幅や、タックの有無、丈、ウエスト位置というのは違うんで、それをどう選びどう合わせるか、色は、その組み合わせは、バッグ等の小物はどうするか——というの、ちゃんと自分で決めてるんですから。

 たとえ、雑誌で見てこういうのとか、芸能人等のああいうイメージで、という、「イメージ」はあるにしても、それを実際自分の身に合わせるのは自分でやってるんですから(予算含めて)、創造性がないわけないでしょう。

 世の中には豪傑っているもので、自分にはそういうセンスは皆無であると見極め、お店でトルソーが着ているコーディネートが気に入れば、「あれ全部(トルソーが着ているままのものを)ください」っていう人、結構いらっしゃるそうですし。
 これはこれで、自分で自分をわかっているということで、思い切りのいい話なんで、いいと思いますよ。人には得手不得手ってありますし。

 そういうあたりからすれば、流行のものとか好きな芸能人の追いかけ状態とはいえ、自分であれこれ考え、工夫しているなら、ちゃんとその人なりのオリジナリティはありますよ。
 体型や身長の違い、顔立ちの違いは把握して、ああするこうするという方針もちゃんとあるんだし。

 ただ、そういうファッションに詳しくない人が、大雑把に見るばかりで「気がつかない」だけだと思いますね。

 個性のない人なんかいませんて。
 流行を追ってばかりというけれど、追えるのもじゅーぶん才能です。
 それに、あんまり自覚はないのかもしれませんが、流行なり好きな芸能人なりが変わると、自分もパッと変わるというの、それ自体、楽しんでいらっしゃるのでは?

 私はあまりそういうことに関心が高い方ではなく(無関心でもありませんが)、自分はこういうのが好きとかこういうのでいいとか、そのまま落ち着いてしまうことが多い。
 髪型からメイクから、さっと変えられる、というのは、それこそうらやましいですよ。(^^;) メイクなんか完全に「技術」だしさ。

 服を買うのに自分で選ぶのではなく、お店の人でも友達でも、他人に見立ててもらうことがたまにありますが、それは、自分だけではどーしてもどこかで決まりきってしまうから。
 人の見立てだと、「自分なら絶対買わない」ものを持ってこられてギョッとするも、合わせて見ると、あれ、意外にいけますね? ということで面白いから。

 そういうあたりから見れば、追いかけだろうがなんだろうが自分をパッと変えてしまえるというの、いいなあ、と思います。

 どうも現代は、個性だの創造性だの「私らしい」だのとウルセーことですね;;
 世の中の全員が全員、ファッションリーダーになるなんて事態があるわけないじゃないですか;; そんなになったら逆に服飾業界は死にますよ;;

 人の真似ばかりというけれど、人の真似をしない人なんかいませんて。
 学びということばは「真似び」だそうですよ。

 過去の偉大な「オリジナリティ」溢れると思われる映画を、系統と時系列を交差させて並べ、それらがどれほど互いに「影響し合っているか」つまり「真似」をし合っているかを示した、岡田斗司夫さんの「イタダキ・シルクロード」、あれは一見の価値があるから是非見てほしい。

 いっさい、なんの影響も受けず「真似」をせずに、作品を作った人間はいませんよ。
 そのオリジナリティなり創造性なり個性なり、ちゃんと各人持っているし、それが人の目につくかつかないかだけのこと。

 人の目につかないものは「無い」ことになるのか、というと、そんなこたーない。
 むしろ、そういうものが目の前にあっても見落とす方がボンクラなんじゃないの?

 細部に神は宿るというのはこういうときに使う言葉じゃないでしょうけど、でも、派手で仰々しいもの以外は個性じゃないみたいな考え方、あまりに大雑把すぎて、私としては賛成できません。

 真似ばかりと言われても、真似できるのも創造性でしょう。真似は学びであり、てことは学んだ後には必ず自分なりのものができている。
 それに目を止める人がいるかいないか、それだけじゃないでしょうかね。

 あんまり、個性だのなんだの言って、自分を追い詰めない方がいい。
 真似して自分なりに工夫していくのが楽しいなら、それが何より。
 楽しいこと、というのは、何にも代えがたい価値。

 自分は何が楽しいんだろう、と悩む人の方が心配なんでして、自分はこれが楽しいと思えるなら、それはそのまま大事にすべきだと思いますね。
 楽しいことは他人が与えてくれるものではないので。


 結構昔のことですが、そんな「問答」があったことを、ふと思い出しました。(^^)
 
 

関連記事
夢よロマンよ
2017年08月14日 (月) | 編集 |
 わからない、ということも、ロマンだと思うんですよね。
 今すぐわからないと困るものなら仕方ありませんが、「人生とは何か」みたいな「わからないこと」なら、わからないなあと言ってずーっと考えていてもいいと思う。

 どうも昨今、安易に人に聞いたりネットで検索したりできるせいか、自分でまず考えるよりは、「正解」を出せ、とすぐにイライラし始める人があるようです。

 まあ、NHKさんのあさイチとか、民放のバラエティ等の番組でも、別にクイズ形式にしなくてもいいのにいちいちクイズにしたり、CMを挟んでCM前にやったことを繰り返し流して、ただ時間を稼いでいるだけなんでは? と疑いたくなるようなものもあって、私もあれは結構いらっときますが。

 これはどういうことなんだろう、どんな意味なんだろう、というのを、自分なりにひっくり返しひっくり返し考えるのは好き。

 それだけに、映画や本の「意味するところ」がわからない、と言ってイラつく人を見ると、わからなくてもいいじゃないですか、今は。——と思います。

 わからないことが「気持ち悪い」「気分が悪い」、というの、わからなくもないですが、結論は必ず今すぐ入手できなくても「困らない」ものなら、わからないものとして、持っていてもいい。

 今はたいていのことならネット検索で「わからないこと」についての情報を得られるせいか、たまに、どこにも参考になりそうなものがないとわかると、「え、なんで?」と戸惑うほどになりました。(^^;)
 この点について、なかば反省しているエッセイ、コラムを見ることもあります。
 わかるわー、なんだかすっかり「便利」が当たり前になってるよねー、と思ったり(笑)

 それに、ネット検索で出て来た情報が「正解」とも限らない。
 料理で言えば情報は「食材」みたいなもの。鮮度はどうか、ちゃんとした品なのか、出どころは確かか、と言った吟味や、その食材で何を作るかってことは、自分がやること。

 AIはレシピの紹介やメニューの「提案」はしてくれるでしょうが、「私は今日、何を食べたいか」は教えてくれない。
 当たり前じゃんというなかれ。「何か楽しいことない?」と他人に聞く人って結構いますが、その質問の意味は、「私は何が食べたいんだと思う?」ってことなんで。
 知らんがな(笑)
 でも、いつのまにかそんな感覚になってることがあるよ、ってことです。

 何でもかんでも、その場ですぐにわかる、正解が手に入る、それができないと「不安」になる、というのは、どれほど情報化が進もうと、それは違う、と思います。

 私も生来、気が短く、単細胞ですから白黒はっきりしないことは苦手で、いつまでーもグレイのままのものがあると、もう自分で真っ黒に塗ってでも「決着」つけるようなところがあるので、「わからない」「正解が見つからない」ことに苛立つ気持ちも、わかります。

 でもそのわからないが、別に誰にも害はないものであり、急ぎのものでもないのなら、「わからない」という箱に入れて、そのまま保留にしていてもいいんじゃないでしょうか。
 その保留箱からときどき取り出して、あれはどういうことだろう、と考えたり、あとからまた参考になりそうな、関連のありそうな情報を見つけたら、照らし合わせつつまとめておいて、また箱へ戻す……というのも、楽しみになるように思います。

 映画「君の名は」を、小学生が見てわかるだろうか、と聞かれた時、わかるとこだけ分かってりゃいいんで、成長途中で、ああそうかとわかる日は来るだろうから大丈夫、と答えました。

 何もかもをわかる必要はない。
 わかんないなあ、と言って持っているのも楽しいもんですよ。

 昔読んでも意味がサッパリだった本が、数年後に再読したら何を言っているかを理解できた、なんてときには自分で自分の成長もわかるし、どこがどう成長したかもわかるし。

 エミリー・ブロンテの「嵐が丘」、14歳の時に初読、意味わかんないけど迫力に圧倒され魅了され、でもなぜ魅了されるかがわからず、登場人物が何を言っているかさえわからない、というところから、自分なりに「読み切れた」と感じる間に、十二支が一周しましたね。
 作者が本作を書いた時と同じ年齢になっていて、年齢によるものもあるのかなあ(時代が全然違うけど)と思ったことを思い出します。

 幼稚園から小学生の頃、熱愛していた「海のトリトン」、社会人になってからビデオ全巻大人買いして見た時、そりゃー子供にこんなもん(失言)わかるわけないわ〜と思いました。
 でも、わからないながらに心惹かれ感動していたってことが、大事だったんだなあとも納得。

 わからないことを、そのまま持っていくのも、「ロマン」だと思いますね。

 自分でそうかと分かったことは、ちょっとやそっとじゃ揺らがないような、頑丈な「根」になってもくれますし。

 仏典の、やはり「空(くう)」を説明した、「ミリンダ王の問い」、そうか、と理解するのに10年かかりましたが、おかげさまで、量子宇宙論に、なんとなくでもついていけるようになりました(笑)
(その二つになんの関係が? と言われそうですが、量子の概念はまさしく空の概念)
(まだ量子論が新しいものだったとき、従来の物理学者の中に、かえって、量子論を理解しない人があったと聞いたときは、無理もないと思いました。「物質」の概念が全然違うから、既存の概念に縛られていたらまずイメージできないと思われます)

 わからないことはロマンであり、自分がなんでも知っているような勘違いをする、のぼせ上がるのを防いでくれる要素であるようにも思います。

 ということでUFOでもUMAでもネッシーでもなんでも、実在、非実在を問わずムキになって追跡し証明しようとする人を見ると、ロマンがないのう、と思ったり(笑)
 あくまでも余裕を持って、いるかいないかを「楽しむ」のは面白くていいと思いますが、いるにしろ、いないにしろ、絶対確実にしてやろうという態度は、ちょっとオトナげない気がする。

 わかんないよねえ、不思議だよねえ、というものを、ちょっとくらいは持っている方が、この世も楽しくなるんじゃないでしょうか。

 ……なんていうのも、怪談聞くのが好きなどという、ヘンタイの言い訳か自己弁護かもしれない(笑)
  
 
関連記事
コミックマーケット92・2日目行き
2017年08月13日 (日) | 編集 |
 2日ぶりのご無沙汰でございます。
 昨日は、「コミックマーケット92」2日目に行ってまいりました。

 今回はまたいろいろ面白かったんですが、何はともあれ特筆すべきはあの気象条件でしょう。

 前日もかなり涼しかったようですが、深夜には雨も降り、昨日は夜が明けても小雨がぱらっと降ったり。
 気温が高くないというといいようですが、気温が低いために湿度がとんでもないことになり、汗をかいても蒸発せず(つまり体温を発散できず)、冷たい空気がまとわりついて肌の表面を冷やし、体温調整の自律神経大混乱、結果、具合が悪くなる、——というのを経験しているので、油断はできないと身構えて行きました。

 が。昨日は気温は低めでも湿度はそこまでではなかったようで、風には冷たさがあり、むしろ半裸のコスプレイヤーの方にはちょっと寒い、くらいの条件となっておりました。
 私もあれほど汗もかかない夏コミって記憶にないです。通常は熱暑にやられて汗ダラダラ、化粧なんかもう一瞬で流れてく、ということになるものなんですが。

 ノースリーブのワンピースに、結局ほぼ丸1日、長袖のカーディガンを着ていて平気だったものなー…。
 もうあんな夏コミには遭遇することは2度とないかもしれません。
 貴重な体験でした。 (^^;)

      ※       ※

 東京ビッグサイトは昨年に、東ホール側に新たに2ホールが増築されました。
 5月のイベントで行ったときに、その東7、8ホールを見学に行こうと思っていたのをすっかり忘れておりまして。
 今回配置された先が東8。どんなものかとちょっと楽しみにしてました。

 敷地の関係でかなりの変形なんですね〜。東7はそれなりの大きさですが、東8は大きくないし、台形だしってことで、見ていると気分が悪くなるとか、なんとなく感覚が狂う、という人もあるようです。
 でも、古参のものにとっては、「晴海のA館みたい…」「なんとなく天井の感じが、ゴジラ館を思い出す…」と、少々の郷愁を誘われるものがあるようです(笑)

 晴海とは、晴海国際展示場のことであり、1959年〜1996年まで、日本を代表する、大型複合見本市会場でした。……ここも増築増設で各館が作られて行ったのでおよそ統一感がなく、使い勝手がいいとはいえませんでしたが、でもなんとなく好きだったなあ。
 
 この東7、8も、後から無理矢理に増築しているものなので変な形をしている。「どうしてもこーゆーことになっちゃいますかね」というのが最初に聞いた時の感想。(^^;)
 晴海を思い出すのもむべなるかな。

 今回は東1〜8ホールを使いながら、西ホールには一般サークルではなく企業ブースが集められた格好で、企業には興味のない私としては、回りやすくて良かったです。
 あの東西ホールの往復は、夏でも冬でも1日に1回が限度、という過酷さなので(私には)。

 東7、8へは、一度外へ出ることになります。屋根があるので多少の雨なら十分避けられますが…。
 良かったと思うのは、東8はこじんまりしているのでシャッターを開けると風通しが良く、午後になっても館内の空気がどよ〜んと淀まなかったこと。

 離れ小島で食べ物屋には遠いですが、東7、8のリンクエリア、東7ホール側には「イーストショップ」なる売店があり、結構あれこれありました。
 揚げもち美味しかった……(味覚の反芻)
 
      ※       ※

 コミケでは、どのジャンルが(2〜3日間ある開催期間中の)何日めになるかは、だいたい固定されています。
 が、これですと、いっつも金曜日になるので仕事柄参加できない等の嘆きがあり、少しずつ、いつも3日目だったジャンルが2日目になる(ことがある)などの「入れ替え制」を始めているようです。

 今回は、大体は3日目にあたり、私どもは大抵1、2日目になるジャンルなのでご一緒になることは少ない、ミリタリー、鉄道、旅行のジャンルがありました。
 これも何かのご縁と思い、ミリタリーというところへ足を踏み入れましたが、や、なかなか楽しかった。
 男性が多いジャンルとはいえ、エロ主体ではないので、そういう意味では私にも気楽。(^^;)

 同じ男くさい世界でも、硬派な雰囲気ですから、エロよりは気を使わずに済むところがある。
 ということで何冊か、面白そうな本を見つけては購入。
 それで気がついたんですがこちらのジャンル、軍装のコスプレの方が多いんですね。自衛隊とは限らず他国のものとか警察関係もあったのかしら。

 私はコス好き、制服萌えという訳のわからない趣味があるので……いやーもー、眼福眼福♡♡
 その「考証」はもちろんバッチリできている方の軍装コスですから一片の隙もない、ってところ。
 なんとゆー(私には)パラダイス! もうこのジャンルに居座ってコス鑑賞してたい! と思いましたね。
 嫌がられそうだけど(笑)

      ※       ※

 今回の特記事項はなんといってもこちら。
IMG_2719.jpg


 写真左端にあるA4サイズのきものの本。
 前日、コミケ92、1日目に行ってきたという方のツイートで、「つい買ってしまった」とのツイートについていた画像が、このきものの本でした。
 わあいいなあ、私もこの本欲しいなあ、でも1日目だったのかー、私は2日目だし、すれ違いだあ……と思っていたんですが。

 その、ミリタリーを目指して歩いているとき、この表紙が目に入りまして。
 えっ?! と驚き思わず寄って行ったら間違いない。
 昨日は同じく着物好きの方に委託されていたようですが、どちらのサークルさんの本も素敵。
 迷わず購入。

 なんという奇縁。

 あの星の数ほどあるサークルさんの中で、しかもこっちは全く別ジャンルを目指して歩いている途中、テキトーに選んだルートを行っていただけ。
 それなのに、線で引かれているようにまっすぐあの場にたどり着き、本を入手できたとは。

 ………こーゆーことがあるからコミケはやめられないんですよね〜。
 偶然というにはあまりにも……という出会いがある。

 本当に、運命としかいえない出会いとか、確率的にすごすぎて、偶然という言葉では片付けられない引力を感じることがあるんですよね。
 
      ※       ※

 帰り道でもさらにもうひとつ、感動した出来事。

 コミケ後、いつものようにお茶してから新幹線に乗りましたが、駅に着いたのが、出発まで20分もあるくらいの余裕ぶり。
 でも帰りは時間がどうなるかわからないために指定席は取っていない。早めに行って、自由席車両のところで並んで順番待ちするつもりでした。

 20分もあるのは、折り返し運転で、東京駅についてお客さんが降りた後、清掃となるから。清掃されている間、乗客は、夏は熱暑の中冬は冷気の中、じっとホームに立って清掃が終わるのを待つのです。……が、これ、本当に過酷。
 例年8月ですと、炎熱と西日にジリジリ焼かれる「地獄」となりますが、まあしょーがない。ケーキ食べた分でがんばろ…と思いつつホームに行きました。ら。

 なんと! すでに入線、すでに清掃済み、すでに乗車可能状態!!

 マジで?! と思わず友人と叫びましたわ。(^^;)

 いやもう、ありがたいのなんの。
  
 去年は暑いうえにもろに西陽を受けてジリジリ焼かれて、これはたまらないということで、友人と私で交代しながら並んだというのに。

 今年は待ち時間ゼロ。
 涼しい車内に一番乗り、出発までのーんびりさせてもらいました。

 昨日はそういうわけでラッキーに次ぐラッキー。
 もうこんなありがたいコミケもないだろうな…と思いつつ、帰りの車内では爆睡(笑)

 通常よりも体力を消耗しなかったという、すごい1日でございました。

 年に2回のオタクの祭典も終わった……。
 明日からまた平常に戻ります。m(_ _)m
 
 
関連記事
聖と卑は同じ
2017年08月11日 (金) | 編集 |
 本日、山の日で祝日でございます。
 が、私にとっては今日から3日間、東京ビッグサイトにおきまして開催されます「コミックマーケット92」の方が重大事。
 ということで、明日は私も「祭典」参加のため、こちら、お休み致します。m(_ _)m

 会場からツイートはしているかもしれません……が、現場に行ってしまうと意外と時間が取れなかったりするんですよね…。RTは簡単ですが。

 また明後日、8月13日にお目にかかります。m(_ _)m

        ●


 二村ヒトシさんについては、「名言」ツイートでお名前、ご著書はお見かけしていたのですが、本をちゃんと読んだことはなくて。

 ツイッターアカウント(https://twitter.com/nimurahitoshi?lang=ja)もお持ちなので、ちょっと拝見しましたが、なかなか興味深い。
「なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」からの引用でしたが、結局、自分で自分の幸せを否定していたり、人に愛されることを怖がって拒否している、という心理状態が(無意識のうちに)あり、それがために「愛してなどくれない人」を、わざわざ自分で選んでいる、というご指摘でした。

 これは全くそのとおり。本人の表面的意識はそんな自覚はないでしょうけど、いわゆる「だめんずウォーカー」はこの典型と言えます。

 それはともかく。
 ツイート主さまは、二村さんと信田さよ子さん(心理学者、臨床心理士)の対談中の言葉にいたく感動なさってのツイートですね。ぜひこの部分を読んでくれ、と。

 ツイートを表示できないこともあるかと思いますので、その部分、抜書きいたしますね。

二村 女性の中には、菩薩とか母性じゃないけど「揺るぎないもの」があるような気がしていて……。
信田 ストレートに言ってください。
二村 すみません。女性がしっかりしていてくれれば、男がその女性に恋をしても女も狂わないし、というか、男に狂わされている場合じゃなくて、女は男とか恋愛に対しては、どっしり構えていてほしくて。男が女に右往左往させられているほうがいいのになって。
信田 わかった、わかりました。
二村 女を美化しすぎですかね。
信田 美化じゃないですよ、バカにしてるんですよ。「女性は人間じゃない」ってことの裏返しの表現。自分を美化しているんですよ。
二村 女を崇めてるんじゃなくて、むしろ自分を安全圏において自分を崇めてる?
信田 「菩薩」っていい表現に聞こえるけど、実際には「女性には頭脳がない」ってことを言ってるんですよ。





 私もこれを読んで、ヘーエ、と思ったのは、ここまで聞きかじりよりも頼りない状態とは言え、二村さんのご発言から、もう少し「わかっている」人なのかと思っていたので——、女性に「こうであってほしい」というその願望を聞いて、あら意外、と。

 頭か何かでわかっている、というのと、もっと深い場所にある欲動は別のものだということかもしれませんね。

 このツイートについたレスに、「菩薩=バカにしている、というのがわからない」というのがありまして。
 そうですか、わかりませんか…と思ったのでちょっと私も考えてみました。

 菩薩というの、確かに一見、崇めているようではありますが(そういう感情もないことはないんでしょう)、その菩薩に、人間らしいイメージはあるのか? ってことですね。
 男尊女卑思想では、女性にはおよそ人間性など認められていません。女性にも感情があり、痛覚もあるということを、まるっきり無視しているのが男尊女卑。なんせ「卑」ですから、少なくとも自分と「同等」ではない。

 菩薩もまた、人間のイメージではないはずです。
 これは、芸能人、アイドルなどと、そのファンの関係と同じ。そう言えばイメージしやすいかな?

 ファンはときに、好きな芸能人やアイドルが恋愛したと聞いただけで文字通り「発狂」しますが、あれは、対象となる人を、トイレにもいかず飯も食わない、ただひたすらに美しく輝かしく、自分の思い描く美しい「像」として、崇めているんですね。
 けれども、わずかでもその「像」から外れると(そりゃトイレくらい行くでしょうよ誰だって、というレベルのことでも)たちまち、その「愛」は逆回転を始め、信じられないくらいの憎悪になる。

 つまりは、「信仰」もまた、対象を人間扱いしていないわけです。

 歴史の中でも心理学の世界でも、この「聖」と「俗/卑」の関連性はよく言われることでして。
 表現は全く正反対ですが、根は同じ。「本質」は同じ。

 二村さんはそういうあたり、すでにご承知のはずと(もんのすんごく漠然と)思っていたので、あら意外、となったわけですね。(^^;)

 2014年にお亡くなりになりましたが、作家の渡辺淳一さん、その作品に、ものすごい勢いで反発していた女性たちを思い出します。
 渡辺作品の女性像もまた、現実の、生身の女ではない、渡辺淳一さんの思い描く願望の女性像ですね。
 しかし、その像に対する反発が、私もびっくりするくらいのものがあり——あのとき、世の女性は、自分が誰かの願望のもとに自分の姿を歪められている、現実ではなく誰かの願望の中に「閉じ込められている」と感じ、怒りを溜め込んでいるんだなあ、と思いました。

 ただ。
 
 私としてはこういう話、あんまり、男女差別の話にはしたくないんですよねえ……。

 女性の側にも、それこそ私などはビビるくらいのもんのすごい願望「像」があるし、男性を求めているようでいて、実際には「現実の」「生身の」「人間」ではない何かを求めているだけ、ということは少なからずある。

 私はかなり露骨な男嫌いですが、女嫌いの男性の気持ちは、じつは、結構わかります;;
 主張されることそれ自体が問題じゃなくて、その「感情」「気持ち」の部分ではまったく同じなんですよね。
 
 こういう話になると意外と私が困ったように黙り込むのは、そういうわけで、「問題なのは、実際には、性別ではない」ことがわかっているから。

 二村さんのその願望も、それは彼が男性だからそういう形をとっているだけで、もし二村さんが女性なら、やはり「男性を人間扱いしない」願望を持つはずです。

 問題は性別ではない。それは「表現方法」の違いでしかない。
 問題の本質は、——二村さんがご自分で書いていらっしゃるとおり、自分自身をきちんと愛していない、というところにある。

 背中が痛い、と言って湿布を貼ったりマッサージに行ったりするけどいっこうに良くならない。
 ……と思っていたらじつは狭心症の発作が起きていた、みたいなものです。

 痛みがある局所にばかり気を取られていては、心臓病という重大な病気を見逃してしまう。

 私にはどうしても、この種の「議論」は、背中が痛いからって湿布を貼って、マッサージして、整形外科へ行って、でも、どれも全然効果がない、とぼやいているようにしか見えないんですよね。

 背中が痛いと言っても、なぜ左側だけが痛むのか、ちっとも治らないのはなぜか、と、そういうことにちゃんと目を向けていると思われた人さえ、じつは本質を見ていなかった、というのが私には意外でした。

 菩薩と「バカにしている」の関係性も、もう少し理解されるといいな。

 私が、何のファンになるにしろ、どうしても頭の隅っこに冷たい氷の塊を置いてしまうのは、「カリスマに熱狂するのは、奴隷を虐待することと同じ」という認識があるから。

 それが誰であれ、生身の人間を「信仰」する「趣味」はない、とたびたび私が申しますのは、こういう理由によります。

 でもこういう態度の奴って、消費経済にはあんまり貢献しない傾向があるんで、それは申し訳ないなと思うんですが(笑)
  
 
関連記事
本日、茶飲み話
2017年08月10日 (木) | 編集 |
 明日は山の日で祝日となっております。
 明日からそのままお盆休業に突入する会社も多いですね〜。ということでうちもその煽りを受けて先週からドタバタ続きでしたが、それも幸い昨日まででなんとかなりまして……、今日は、また厄介ごとが持ち込まれない限りはのんびりできそうです。

 休み前に片付けておきたい、という、あの心理もけっこうなトラップですよね…。
 冷静に考えるとべつに休み明けでもまっっったく! 問題ないのに、ただ「気分」的なものだけで、休みに入る前に片付けて、返事して、これ寄越して、ということに。

 やれやれです。(^^;)

        ●

 今日はのんびり茶飲み話。
 
 民法によれば、配偶者が死亡した場合も、名乗る姓を旧姓に戻せるんだそうですね。

 私の父が身まかりましてもうじき7年。
 うちの母も、そういうわけで考えてみれば花の独身でございます。

 まあ、再婚するかどうかはともかく可能なんだし、彼氏がいたっていいんじゃないの、誰かいないの? と申しましたら、……いや驚きましたねえ、そういうの嫌がるかと思いきや、ちょっと心に秘めたお方はあったらしい。( *´艸`)ウフフ♪

 べつに恋愛どーたらってことではないそうですが、その昔、ずいぶん気もあう、いい人がいたんだそうです。
 母は若い頃には登山をよくしていましたが、その登山仲間のお一人ですね。私もお名前は聞いたことがあります。

 ただし。
「え、……山木さん(仮名)って……、ずいぶん前に…」
「そう、交通事故で死んじゃった人ね。覚えてた?」
「覚えてるよ、私がまだ中学生くらいだったんだから…(亡くなった時には)まだ若かったんだねえ…」

 他にもちょっと思いつく人はあるそうですが、あいにく、どなたもこなたも鬼籍の人だという。
 70代、男性だってお元気な方はお元気ですが、そうは言っても、やはりこのへんで同年齢だと、男女の平均寿命の差がくっきり感じられるというかなんというか;;

「あー、そりゃ残念でしたねえ…」
「ねえ。男の人もやっぱり健康には気をつけてほしいよ」

 ……実感こもってますね母上。(^^;)

 まあそういうわけですので、現在お若い世代から、健康には気を配っていただいて、男性の平均(健康)寿命も延びていただけるとよろしいかと。

 個人的には、配偶者死亡で旧姓に戻しても構わない、というのは思いつかなかったことで——、ああそれも可能なのか、と思いました。
 実際にはそれで旧姓に戻す人もあんまりないかなとは思いますが。

 以前、井戸端会議的に喋っているとき、どうもその人自身の「イメージ」には、旧姓の方がしっくりくるね、という話になりました。
 私どもの付き合いは、〇〇ちゃんのママ、何々さんの奥さんとしてではない、趣味の仲間(有り体にいえばオタク)同士の集まりなんで、「その人個人」が前面に出てくる感じですかね。

 私自身は独り身なので旦那さんを介したおつきあいとか子供を介したおつきあいというのは経験がない。ので、そういう付き合いのときと、個人同士、仲間同士、という付き合いのときとで、それほど変わるかどうかも、正直なところ、わからないのですが。

 なんの話がきっかけだったか、集まったうちの一人について旧姓は何々、と言われ、なんだかそっちの方がイメージに「合う」なあ、という話になり。
 それぞれが旧姓を名乗り合ってみたら、どうも旧姓の方がその人の個性には「しっくりくる」気がする、という人の方が多かった(集まった人数はその時は15人ほど)。

 この話には深い意味はありませんので、どうぞ気楽に聞き流してください。夫婦同姓か別姓かってことじゃないし、夫婦円満ではないからとか何か不満があるとか、そういうことでも全くありません(笑)

 人の名前もまた強力な「言霊(ことだま)」だという、無意識の「信仰」が、影響しているのかもしれませんね。

 私もその後、付き合いが始まった時点で既に既婚者だったかたの場合、旧姓があるなら、その旧姓を聞いてみてお名前と合わせて、口に出してみると、なんとなくイメージが「くっきりする」なあ、と思うことが結構あって、面白いもんだ、と思ったり。

 もっとも強い「呪(しゅ)」は、人の名前である——とは、岡野玲子さんの「陰陽師」に出てきますね。じっさい、その昔は女性の本名は他人に明かされることはなかったわけで、そういう「ことだま」の力は今も生きているとも、言えるのかもしれません。


 今日のところは、本当にどーでもいい雑談でございました。(^^)


(えっ。kindle 版、0円…?!)
 
  
関連記事
世界陸上
2017年08月09日 (水) | 編集 |
 見よう見ようと思っていても、今年はついつい見逃している「世界陸上」。
 それでも主だったところのニュースは耳に入ってくるもんですね。
 今大会をもってご引退と言われる、ウサイン・ボルト選手まわりのことは特に。

男子100m王者ガトリンの扱いは「無慈悲」、代理人が国際陸連に激怒
2017年8月9日 10時5分 AFPBB News

 ドーピング違反で出場停止処分を受けていたガトリン選手ですが、まあいろいろあって処分の期間も短縮されて、2010年に競技復帰。

 この大会もとにかく観衆からブーイングを食い続けていたというのは私は気の毒に思いますし、男子100mでは、ボルト選手に勝ったからって尚更ひどいブーイングを浴びたそうで。
 その上、国際陸上競技連盟(IAAF)のセバスチャン・コー(Sebastian Coe)会長がまたなんだか言ったそうですね。

 これは英語で聞くとニュアンスが違うのかもしれませんが、日本語での伝聞では会長は、ガトリン選手の優勝、金メダル獲得について「完璧な筋書きではない」とコメントしたとあります。
 これを聞いたときに思ったのは
「つまりなんですか? 『筋書き』は常に用意されており、あなた方はその筋書きをコントロールすることがかなりあるということですか?」
 有り体に言えば、ルールづくりやその運用において、かなり小細工や「仕掛け」をしてるんじゃないの? という疑惑を覚えた次第。

 そのコー会長さんてどんな人なの、と思ったら、イギリス人で、元陸上選手、政治家、とのことで。
 へーえ。ふーん。

 私はいろいろありましてスポーツマンシップなんて鼻毛の先端ほどにも信じてないし、国際スポーツにおける「政治」なんてド最低だという偏見をもっているので、この会長さんのお言葉の方にかなりピリピリと反応してしまいます。(^^;)

 ドーピングについてもあんまり、白黒はっきり言えるものではないと思ってますし。
 もう相当昔から、オリンピックではドーピングしないでは勝てない、と聞いてましたしね。見つかった選手がむしろ「運が悪い」という感じで同情することもあります。

 また、この薬物反応というのは難しいところがありまして——風邪薬でもその「成分」が引っかかることがある。ドーピングを避けようと思うと市販の風邪薬すら飲めない、というのは、いいことではないように思います。

 それに、ガトリン選手の場合はそのクスリも、(自身の主張によれば)注意欠陥障害の治療薬が原因とのこと。
 陸上競技をしたかったら、注意欠陥障害の治療を「するな」と、そこまでいうんでしょうかね国際陸連は。

 もっと気に入らないのは、処分を科し、その処分を終えた人に対する態度なのかこれが? ということ。
 これは会長のみならず、ロンドンにおいでの観衆に向けてこそ、問いたいことではありますが。
 コー会長さんがものの見方に偏りがある人だとしても、こういう発言をする気になったのは、観衆の態度を見ることで「助長」されたんじゃないかと私は勘ぐっておりますが如何。

 ちなみに。

 ボルト選手の引退を惜しむ気持ちはわかりますが、彼に勝ったからってブーイング、というのはどういう考えなんでしょうね?
 わざと負けろ、ってこと?
 ボルトさんも衰えましたよね、お気の毒ですよね、今までずっと英雄できたんだから、つって、英雄に敬意を表してわざと負ける方が良かったってこと?
 あのウサイン・ボルト選手に、「お情けで」金メダルを「あげる」べきだと?

 わざと負けるとしたら、私はそちらの方がずいぶん、ボルト選手に対して敬意にかけた、というより「バカにしている」態度だと思うんですけどね。

 どうもこんなゴタゴタを聞かされると、もともとスポーツマンシップをいう「嘘つき」が嫌い、という感覚があるだけに、なんのためにこんなことやってんの? と言いたくもなりますね。馬鹿らしい。

 ただ選手たちはそれぞれ一生懸命やってる、それだけは間違いのないところ。
 観衆なんてただの「部外者」ですよ。……どうも私はこういう「勘違い」には、態度が厳しくなってしまいます。(^^;)
 
 選手たちがそれぞれに精一杯、競技に没頭できるように。そう願います。

 ただいま私も夜更かしができなくて、なかなかリアルタイムでは見られないのが残念ですけども。
 
 
関連記事
「べき」論の裏側
2017年08月08日 (火) | 編集 |
 元はこちらのお話から。


 つまり「だらしなくない妻」たるには、きれいにアイロンがけすること、弁当はきっちり作ること(こういうことを言う人は冷食利用なんて弁当のうちにカウントしないと思われる)、ご夫君の革靴はピカピカに磨くものである、と言う主張ですね。
 一体いつの時代の認識だよ、と言うのは、よくわかります。

 この手のことはよく聞くことで、この過酷な現代社会において子育てに奮闘する人、あるいはロールモデルを持たないまま、「女性の社会進出」なんてもんを肩に載せられたちゃって、自分の業務以外のところでまで悩める人が、愚痴の一つも言いたくなるのはそりゃ当然なんで、そう言う愚痴も、そうかそうかと聞いてあげればいいのに、
「私らの若い頃はあーだったこーだった」」
「今の若い人は(以下セッキョー)」
 となる。

 私も最初のうち、ことに、なんだそりゃと思ったのは、なぜかこういうことを言う人たちは、ミョーにエラそうなんですよね。上から目線てんですか、たいそう居丈高にものを言う。

 いたわりの態度も見せず、だからと言ってアドバイスをするわけでもなく(とはいえ時代も状況も違う人にやたらアドバイスされても困るだけ、というのも多いんですが;;)、むしろ相手を威嚇し、けなす、というのはどういう了見か。

 ………と、私も昔には思っていたんですが、途中で気がついたのは、
「よーするに自慢なんだわこれ」
 ってことでした。

 自分たちがした苦労、泣いたこと、耐えたこと、そういうことを自分は「立派に」果たしてきたぞ、という、自慢であり、同時に、「認めろ讃えろ、さあ褒めろ」という欲求でもある。

 なるほどねえ……、とわかって以後は、私も、スルーできるようになりました(笑)



 元に引用させていただきましたツイートではまずは女性同士のすれ違いを取り上げていますが、でも、他人に、〇〇たるものは〇〇であるべし、〇〇すべし、と押し付け、それができないと人間失格のようにいう人というのは、そりゃもうそこら中にいますから、私としてはもーちょっと範囲を広げて「一般化」して眺めてみたい。

 〇〇すべしという人は、それが「当たり前」「常識」という認識でもあるわけですが、でも、何を常識とするかは実際は、かなり各人で異なるものです。
 生まれ育ちのこともあるし、現在の生活状況もあるし、その他もろもろ、個々人で異なる条件下にあるわけですから、これが常識、これ以外は人間失格なんていえるものではないんですよね。

 それに、私がとにかく気になったのは「なんでそうエラそうなの?」ってことでした。
 どーみても相手の立場に立つとか相手の身になって考えている発言ではない。無用に居丈高(いたけだか)な態度には、どんな「理由」または「目的」があるのか? と考えていて。

 で、得られた結論は、上記の通り、「自分はそういうことができる」「ちゃんとやってる」という、自慢なり自負なりであり、無関係の他人にわざわざそんなことを披露するのは「褒めて欲しいから」。

 相手に自分と同じことをせよと言っているというよりは、「そういうことがちゃんとできている自分、えらい」と言いたいのであり、さらに、それを他人からも、すごいですね偉いですねと言われたいんですね。心のどこかで。

 多分、あなたは自慢したいんですね褒めて欲しいんですねなんて言ったら張っ倒されるでしょうから、私も言いませんが。(^^;)

 強いていうなら考えられることはもう一つあって、自分のやっていることにいまいち自信がないとき、「自分と同じ」人を見ると安心する、自分だけじゃない、と思い、自分は間違ってない、と思ってほっとするわけですが、そういうものを求めている、というパターンも考えられますね。

 まあなんにしろ、その目的は「自分」であり、現在なんらかの問題に直面して苦闘している誰か、に、意識が向いているわけじゃない。
 
 なるほどねえ、と思って以来、私も「そーですかー」でスルーすることにしました。

 まあ、一番親切な態度は、「〇〇たるものは〇〇すべきである」と言われたら、「それじゃあご自分は〇〇なさるんですか」と水を向け、ここぞとばかりに「自分はちゃんとやってる(やってきた)」と胸を張ったら、「素晴らしいですね」と褒めてあげることなんですが。

 あいにく私もそこまでベタ甘な性格はしていないので、まあ、「そーですかー(にっこり)」くらいでスルー。
 〇〇すべき、と押し付けられるのはうっとーしーのですが、それでも、その〇〇ということができている、自分に課したことをちゃんとこなしている、ということ自体は、そりゃ立派なことです。それを否定することもないのです。

 だから、褒めもせず、反発もせず、そうですか(にっこり)で終わらせるのがよろしかろう、と思っております。
 この「そうですか」は意訳すれば「へー」くらいの意味しかありません。でも、「誰かの立派さ」を否定もしていない。
 これくらいでいいんじゃないかな、と。

 ただ、その押し付けを、口先ばかりのことではなく、なんらかの拘束や「実力」で実現させようとするなら、これはもうこちらのテリトリーを侵害されることですから、それなりの対応は必要ですね。
 でもそういうこともあんまりないので……、と言える私は、やはり呑気で恵まれているのでしょうね。

 いちばんいいのは、こんな風にこじれる前に、もっと日常的に、誰かから認めてもらったり褒めてもらえる機会があることだと思うので。
 やっぱり、人を褒める、って大事だなあとも、思います。

 ありがとうと並んで、褒める、ということは、それがどんなに小さいことでもいいので、心がけたいと思います。
 何かを当たり前だと思い込んで感謝しないのも、やっぱり、傲慢な態度なんでしょう。そう思うので。
 
 
関連記事