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2017.07.31 (Mon)

夏のものぐるい

 本格的な夏の訪れを思わせるものは地元の花火大会で、夏の終わりを感じるのは、もう何年もテレビで中継を見ております、大曲(おおまがり)の花火大会(公式サイト)。
(今年は8月26日ですか)

 かつては、夏の終わり、というか夏休みの終わりを知らせるのはこれだったんですよねえ。
 日本テレビさんの「24時間テレビ」。

 私はこれが始まったときの記憶があるんですが(当時小学生)、だいぶ変わっちゃったなあ、と思います。
 当初はあんまり注目もされず、チャリティと言われてもピンと来なくて「何やってんの? 募金?」みたいな感じでした。

 私が面白がって見ていたのは各種チャリティ企画ではなく、この24時間テレビ内に放送される、長編アニメ特番でした。
 2時間くらいの枠でしたかね。大体は手塚治虫作品、あとは光瀬龍さんの作品だったような。
 どの作品だったか忘れましたが、当日放送が始まっていてもじつはまだ一部完成してなくて製作中だったものがあったはず。
 放送時間を細切れにしていて、面白いことしてるなーと思ったけどじつはそういう事情だったと後年になって聞いてのけぞっていたことが;;

 その後は私も番組からは離れてしまい、10年後くらいに気がついたときには、あの100kmマラソンがあって、なんじゃそりゃとびっくり。
 すでに死ぬほど頑張っているランナーを、ZARDの「負けないで」をみんなで歌ってさらに鞭打つという、極悪非道の有様になっていたんでした。

 なんだこれはとびっくりして、あとはもう毎年、ランナーに同情しながらチラ見する程度なんですが……。
 今年はまた、一段とひどいことになったそうで。

『24時間テレビ』ランナーは当日発表 ヒントは「一番、走る理由がある人」
2017-07-30 21:49  ORICON NEWS

 ………当日発表って……。

 もちろんランナー候補者にはメニューが渡されていてトレーニングはしているそうですが、でも、明らかな目標があるのとないのとでは、気合と心構えが違ってくるでしょう。

 もはやマスコミ関係者の「良識」など微塵も信じていない身としては——実際、いろんな番組でタレントさんなどが重傷を負ったり入院するような事態も起きているわけで、で、話を聞けば「なんでそんなバカなことさせんの!」と叫びたくなるような「企画」。
 番組のためなら人殺しも厭わない連中だ、という認識でございます。

 視聴率がそこそこでも取れるので、やめるにやめられないのかもしれませんが、その視聴率は、番組が支持されているわけではなく、夏休みでダレきった中、他に見るべき番組もないので、BGMがわりにテレビをつけているというだけの人が多いんじゃないでしょうか。

 大体、他の企画にしたって感動しろ感動しろって押し付けてくるところが鬱陶しい。

 感動というのは自然のうちに自分の心が感じ取るものであって、他人から、さあ感動しろと強要されるようなものじゃない。

 これ、もういいかげん誰かが止めないといけないレベルに来てるんじゃないのか……と思いました。

 本当に誰かが犠牲者にならないとわからないんじゃないの? と思ったらゾッとして来ました。
 夏といえば怪談ですが、この「感動おばけ」の怖さはシャレにならない。暑気払いにもなりません。
 
 そんなわけで私はもうマラソン含めてこの番組は見ませんが——、感動おばけも気持ち悪いが、同時に、感動おばけのストーカーも同じくらい気持ち悪い、と思ってます。
 この100kmマラソン、ランナーが途中で自動車に乗るなどの「不正」を行ってる、「感動詐欺」だとして、その証明に躍起になる人たちがいますね。
 あれはあれで、気持ち悪いです。

 感動しろという方も気持ち悪いけど、あれは詐欺だと大きなお世話を言っては粘着するのも気持ち悪い。
 その熱意はもっと有効なことに使ったらどうですかと思っちゃいますね。

 詐欺なら詐欺でもいいでしょうよ。嫌だと思う人は言われなくても番組は見ないし、見ている人は何を面白がっているかは個々人で違うでしょうし。
 100kmマラソンという企画を、それなりの「道義」を持って、やめさせたい、というのなら、もっと他にやれることはあるでしょう。

 あの人たちはあの人たちで、使う言葉が酷すぎる。ランナーに対してさえ、聞くに耐えないような人格否定の言葉を連ねる。
 なるほどネットなんか見るもんじゃないなーと、それこそ「そっ閉じ」になって以後は2度と近寄らない、ということになりますが。

 あれも一種のモノマニア(偏執狂)だな、と思ってます。
 
 ………やっぱり暑いせいでしょうか……、こうして見ると「おかしい」人が連なっているような気がして来た……。

 夏の祭りは、花火大会、昼間なら練り物、しゃぎりの音、といったあたりがようございます。
 ただでさえ暑いのに、さらに暑っ苦しい感動の押し付けはそろそろやめたらどうだろう。企画もネタ切れだというのなら、きれいに終わらせたっていいじゃないですか。募金、チャリティは、それはもう1年中いつでも続けている方がいいものなんで、夏に限る理由もない。

 感動なんてものは、その人に心さえあれば、夕暮れ時のひぐらしの声ひとつでも染み入るように感じられる。そういうものですから。
 現代人には何かと不感症の人が多いんでしょうかね。それとも。

 なんにしても今年のランナー、どなたになるかは存じませんが、今のうちからすでに同情を禁じ得ません。お気の毒な……。
 合掌。
 
 
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2017.07.30 (Sun)

嫌味と八つ当たり

 最近、歳をとることででてくる現象についてあれこれ思うことが増えてきたのが面白いんですが、これもその内のひとつ。
 昨夜の私のツイートですが、ツイートが表示されない方のためにそのまま本文掲載いたしましょう。
 自分が書いたものだから気楽だなぁ。(人様のものだと転載になるので気をつける)

①よく、自分たちの世代では当たり前のものを若い方がご存じないと聞いて「ショック」を受けている方をお見かけしますが。
それはなぜなんでしょう…自分が生まれる前のものなんて大抵の人は知らないんじゃないでしょうか?
若い人に何十年か年長者の『常識』が通用すると思う根拠を、逆に知りたい。
(22:37 - 2017年7月29日)


②私どもには「カリオストロの城」は不動の名作だけど、お若い方にはCG以前のアニメは「古臭い」感じだと言われ、ショックを受けていた人がいまして、例えばそういうことですね。
そりゃそうだろうな、と私は思ったんですけど……😅
私だって名作だとは認めつつもホルスは馴染めなかったもの。
(22:42 - 2017年7月29日)



 いいねやらRTやらを頂いて、引用RTもありましたようで。
 その「ショック」について、
「若い人が知らないことがショックなんじゃなく、知らない人がもう身近に現れた=それだけ時間が経ってしまったと実感して、それが(あらためて)ショックなのでは?」
 というご意見もございまして。

 おっしゃる通りでございます。
 私もそのあたりは承知しております。
 
 もちろん私も、「もう30年も経ってるんだな〜」とあらためて実感し、うわ〜と思う、それはわかるんですが。
 私が不思議に思うのは、「もう30年経ったんだ!」という気持ちが、なぜ、「若いモンはそんなことも知らない」という「言葉」になるのか、ということなんですよね。

 すみません、正直に言いますと、イヤミ言ってるんです、あのツイート。(^^;)
 ときどき、イヤミで言ったのに、イヤミだということが人様に通じていなくて、真顔で窘(たしな)められることが時々あるんですが、……またやってしまいました……。
 お恥ずかしいことで;;
(嫌味を言うこと自体も本来は恥ずかしいが、それが通じない程度の日本語になっているところもお恥ずかしい;;)

 でもまあ——、その疑問は、正直なところでもあります。
 ああそんなに年数が経ってるんだなあという感慨なり、ショックなりなら、そのように言えばいいので、なんでそこで、あたかも若い人を責めるような言い方をするのか。

 これは、私自身が若い頃からの疑問です。昨日今日の話じゃないんですよね;;
 そんなことも知らないのか、〇〇さんを知らないのか、などと言われ、何それ、と思って話を聞けば、私が生まれる前にとっくに無くなったり、お亡くなりになったりしているもののことだったりする。
 知るわけなかろうそんなもん、と呆れていたのですが——、いま、半ば呆れつつ思うのは、
「自分だって若い頃があって、当時の大人どもからそんなことを言われたこともあるだろう。その理不尽さを身をもって知っているはずなのに、なぜ自分も同じことをするのだ」
 ってことですね。

「自分だって若い頃があったんだから、わかるでしょうよ」と思うことは、他の場面でも多いですねえ……(遠い目)
「今時の若いものは」と言う年寄りの愚痴に反発し、うんざりしていたのに、自分がそれを今、同じことをすることについて、なんとも思わないんだろうか?
 ………というのが、私にはわからないところ。

 今回の件についていうなら「ああ年数が経った、自分も歳をとった」と思った、ということなら、そういえばいいだけなのに、なぜ、そんなこと知るはずもない若い人を「物知らず」「常識しらず」のような言い方をするのか。——というのが、私の疑問です。ってことです。

 まあ、私も、最初からそういえばいいのに、イヤミを言ってるわけですから、なぜもヘッタクレもないですね。(^^ゞ

 でも、「ショックの八つ当たり」をされる若い人にはいい迷惑なので、可能なかぎり、やめてあげて欲しいと思っております。

 私は若い人から「意外なこと」を言われるの、嫌いじゃないです。あ、そうか、〇〇さんを知らないか、そっかー。そりゃそーだよねえ、と思うときの感覚は「目から鱗が落ちる」感覚。
 すっかり「当たり前」に慣れきってダレきった脳みそには、いい刺激ですよ(笑)

 ニコ生さんの将棋の対局中継で、「ひふみんアイ」と呼ばれるアングルがありますが——画面の上下をひっくり返すんですが、地球儀や地図の上下を逆にするようで、面白いんですよね。
 対局相手の座について盤を眺め、ひらめいた、という、加藤一二三さんの逸話からのアングルなんですが、なるほど、面白いな、と思います。

 たぶん、若いひとから「それは誰ですか。なんですか」と聞かれた時のショックって、地図を上下逆さまにしたようなものなんでしょう。
 地図は北を上にするのが常識だろう、なんて、怒ることはない。
 地球儀を逆にしたことありますか? あれ、なかなか面白いですよ。

 私としてはそういうわけで、「意外なこと」を言われるのは面白いので、好き。

 たぶん、私は良くも悪くも、精神的にあんまり歳をとらないのかもしれない——成長がない、とはっきり言ってもらって結構ですが;; 苦労が足りてないんでしょうねきっと;;
 だから、自分が若い時に持った感覚をそのまま今も持っていて、「年寄りの繰り言」には、未だに同意できずにいるだけなのかもしれません。

 とりあえず。
 やっぱりツマラナイ嫌味なんか言うもんじゃないな……、と、この点については反省しております;;
 
 
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2017.07.28 (Fri)

「褒めて欲しかった」

 明日はこちらお休みいたします。
 地元の夏祭りの運営に、ちょこっとだけ、お手伝いに行ってきます。
 ちょこっと手伝ってあとはそのまま遊びに行ってしまうので、手伝いですと言うのもはばかられるほどですが。(^^ゞ

 じつはよく雨に祟られることが多いお祭りなので……お天気が程よいものになるといいなと思っております;;
(雨は困るし晴天すぎても暑くなるし;;)(程々がいいなと勝手をいう・笑)

       ●

 これは切ない……と思ったお話。



 新聞の記事、コラムかな、ですが……、この子のお母さん、この詩をお読みになったのかなあ。1986年の「高知県こども詩集」から、とのことですから、学校で作文の授業か何かで書いたもので、それがこの詩集に選ばれたんでしょう。
 となれば、やはりこの「お母さん」もお読みになった可能性は高い。
 どうお思いになったでしょうね。

 当時1年生の子どもの作品とのことですが、素直で、言葉の使い方も上手で、よく伝わってきますね。

 朝早くからちゃんと勉強をして、1日のうちに片付けるべきことをきちんと、しかも早くに仕上げられたんですね。
 これは立派なことで、自分でも、褒めてもらえると思ってお母さんに言ったところ、褒めてもらえるどころか、
「土曜日のぶんもしなさい」
 と、お母さんは「怒った」と言う。

 最後の1行の、「わたしは なきました」が、本気で泣ける;;
 
 これと同じの、あるいは類似の経験のない人って、そうはいないと思います。
 こういうの、ほんとショックですよね;;

 で、こちらのツイートについたリプをのぞくと、皆様やはり親子関係のこととしてとらえておいでですが、でも、これねえ——親子間に限ったことじゃないですよ。

 本来なら褒めてあげたり、ありがとうと感謝したりすべきところ、まるで言いがかりのように難癖をつけて、嫌な対応をする、というのは、結構、そこら中でやってませんか。

 親御さんが一生懸命やってくれたことを足蹴にする子ども、同僚の気遣いに余計なことと怒る人、部下を褒めるどころかやはり無視したり、あさっての方向の別件を持ち出して怒り出す上司、通りすがりの人に意味不明の嫌味を言う人、お店の人にインネンをつけているとしか思えない無理を平気で言う客、——その他諸々。

 やっている方は意外と悪意はない。深い考えもない。
 これらの態度は明らかに「落ち度」というべきものですが、それを人から指摘されると、自分が悪かったとは思いつつも認める気にならず、あさっての方向から言い訳を引っ張り出してきて、また怒る。

 自分の非を認められない——、結局それは、「習慣」だからなんですよね。
「怒る」ことがその人の習慣だから。「当たり前」だから。

 性格とは何か、というと、「条件反射の集まり」。
 性格と性質はちょっと違うものとして考えておりまして、 性質、というのは「質」ですから、三つ子の魂百まで、というもの。
 性格は、「表現」のこと。

 怒る人というのはもう1日のうちに何度怒るかわからないんじゃないですか。別に怒る必要がないことにまで、何かあるといきなり不機嫌「そうな」顔になる。
 これ、本人は別に不機嫌な「つもり」も、怒っている気でいるわけでもなくて、それが「通常、ノーマル」だったりするんですよね。
 だから、人から「何を怒ってるの」なんて言われると「別に怒ってないよ!」つってまた怒る。

「怒ってないよ!」「怒ってるじゃん」「怒ってないったら! アンタが変なこと言うからでしょ!」
 ………始末に負えません。(^^;)

 すぐ怒る人は、怒りっぽい性格、と言われますが、怒りっぽい性格とは何かというと、なんらかの刺激が来たときとりあえず怒る、という「条件反射」のこと。
 人から話しかけられたとき、「また何か面倒なことを言われる」という「条件付け」を自分でしているので、なんだよ、とのっけから反撃姿勢になる。
 本人に深い考えはない。梅干を見て唾が出てくるのは、本人には自然なことで、わざとそうしているわけではない。

 この条件の数が膨大なことになっているので、しょっちゅう怒るんですね。晴れだと言っては怒り、雨だと言っては怒り、人に話しかけられただけで不機嫌になり、何か言われようものなら複数の条件が重なるので、激怒する。
 この条件反射を繰り返すと「習慣」になる。

 性格というのは、そのほとんどは「習慣」です。
 他人は変えられないが自分は変えられる、というのも、だからですね。
 習慣だというなら、習慣を変えるかやめるかすればいいだけなんで。

「性質」は、水は水だし、鉄は鉄だし、というようなもので、本質そのものは変わらない。
 でも性格というのは、その性質をどう表現するかの表現方法の選択。
 その選択を繰り返すうちに習慣化したもの。

 習慣であれば、変えられますよね。水も冷やすか温めるかで他人に与える印象はずいぶん変わる。冷たいのが嫌なら少し温めればいいわけで。

 このお母さんの場合、子供が何か言ってきたら「まず叱る」というパターンが出来上がっていたのかもしれません。
 ひとつひとつの状況に対して反応するのではなく、「子供が何か言ってきた」という条件にだけ、反応している状態。

 世の中には確かに、きちんと怒るべきことというのはあるけど、でも、「怒りっぽい人」はだいたい、習慣でやってるんですよね。
 意外と本人は怒っている「つもり」はない。だからなんで怒るのと言われると怒ってないよ!と言って怒るというギャグのような状態になる。

 心の習慣の典型例だなあ、と思って読みました。(^^;)

 この詩を書いた人のショックは察するにあまりあるものがありますが、私は、「怒ることが習慣化している」方が気になりました。

 心の癖は確かに完全になくすのは難しいけど、直せないものでもない。
 性格だから、と開き直ってくる人も結構ありますが、それもいいわけですね。

 怒る以外にもいろんな心の癖ってあるものですが、性格だから直らない、ということはない。
 人を楽しくさせる癖なら放置でいいけど、こうやって、いたずらに人を傷つけるような癖なら、やはり時間がかかっても少しずつでも直していくほうがいいな、と。

 人のふり見て我がふり直せ、——性格だから無理だよという言い訳は、やはり減らしていくほうがいいなあ、と、(当時)6、7歳の子どもの涙に胸を痛めつつ、そんなことを思った次第。

 この女の子も今は立派に大人になっているでしょう。このときの胸の痛みを生かして、誰かを褒めてあげられる大人になってくれているといいなあ、などとも、こっそり思ったり。
 
 
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2017.07.27 (Thu)

臆病による直感

 初対面のときの印象には「ハズレ」がない、と思ってます。
 どうも初めましてと顔を直接合わせたときの印象、受けた「感じ」は、良くても悪くても、ハズレがない。
 これは途中から、ほとんど私には「信仰」になっております。

 パッと見たときの感じというのは、いい悪いというよりも実際にはもっと複雑で、その「人となり」を感じ取っているのだと思ってます。
 それに対する私の好き嫌いはまた別のこと。

 何しろパッと目と目が合った瞬間に決まることなので、若い、というよりまだ幼い頃には、私も、「人を見た目で判断してはいけません」という教えを真に受けて、いやいやいやいや、初対面の印象だけで決めてはいかん——などと揺らいでいたんですが。

 なんどか、「あれえ?」と思うような経験をしてのち、「初対面の印象は確かなものだ」と思うようになりました。

 たぶん、「人」というものに対する私の「直感」でしょうねこれ。
 ほぼ外さない。パッと見たときの「印象」は、9割がた、「当たる」。まず、外れはない。

 周囲からの評判がイマイチな人でも、私が見ると、そうかなあ、そんなことないと思うけどなあ、と思っていると、実際あとからものすごく光るものがあるとわかるとか。
 皆はいいように言っているけど、どうも私はやだなあ、気心がしれないなあ、と思っている人が、最初は愛想も良くて「いい人」のようだったのに、まさしく「裏の顔」を出した瞬間を見てしまうとか。

 最初にはいい印象ではなかったけど、どうもそんなに悪い人ではないらしい、最初にあんなこと思っちゃって悪かったなあ、——なんて反省していたら、あることで馬脚を現し、衝撃を受けつつも「直感は正しかった」ということがあったり。

 そういうことを積み重ね、ひとつひとつ数えてみると、私の「勝率」は9割ほどにもなる。中には10年単位で確認した例もありますから、それなりに信頼できると思ってます。

 私はたぶん人を「外見で」判断しているわけではなく、目と目が合ったとき、何かを直感的に「探って」いるのだろう、という結論になりました。

 目と目が合って互いに認知するというのが大事でして、直接「見る」とは言っても、自分はその人と話すわけでもない、遠目に、あれが〇〇さんだよと言われた程度では、この直感は働かない。

 目は心の窓なんて言葉もありますが、実際、視線が合う、というのは大事なことなんでしょうね。
 目には見えないけど、この瞬間の「情報量」ってものすごいことになってるんじゃないだろうか。ギガやテラを超えるくらいに。

 直感、というとただの動物的なカンみたいに思われることが多いでしょうが、私が印象深く覚えているのは、学生の頃、社会心理学の先生に、何の話題のついでだったのか、
「直感は、いわゆるカンではない。ちゃんと本人は情報を収集し、分析し、結論を得ているのだが、そのプロセスがあまりにも高速なので本人にも知覚しきれない。だから説明がつきにくいと感じるので、カンです、と言ったりするが、直感は論理的なものであり、山勘とは違う」
 と言われたこと。

 確かに、ただのカンではないのは、時間をいただいてゆっくり考えてもいいのであれば、なぜそう思うかそう感じるのか、説明できないことはないから。
 私はこれを、よく「言葉に翻訳する」と言います。結論があって、そこから分解していって、なぜその結論になるのかを導き出す。
 ただのカンであれば、そういう帰納的な説明にたどり着くはずもない。

 ただ、私がいう「説明」は、他人から見るとかなりぶっ飛んでいて意味不明のところがあるでしょうから——理屈として成立しているとは思ってもらえないだろうことも、承知してます。(^^;)

 でも、私としては、ちゃんと、あーなってこーなってそーなってるからこの結論、という「道筋」はちゃんとあるんですよね。
 直感とカンは違う、と言われて、なるほどと思えました。

 若い頃には、私は相手の「見た目」で判断しているのではないかと少々、コンプレックス気味に思ったこともありますが、でも考えて見ると、本当に外見「だけ」で判断するなら、直接にお会いするまでは判断保留なんてやるわけない。
 外見だけで判断するのなら、遠目に「ホラ、あれが〇〇さんだよ」と言われただけでも判断してしまうはず。

 ということで現在では、自分で自分の直感を当てにしている状態です。
 どうも初めましてと目が合ったとき得られる「感触」を、今の私は疑いません。

 といってもいきなりそこで好き嫌いを決めているということではありませんので念のため。

 好き嫌いはまた別の話なんですよねえ……。相性の良し悪しはあるでしょうが、パッと見て得られた感触によって、ベタベタなつくことも、やけに嫌ってしまうこともない。

 こういう直感が鋭く働くのは、私が臆病者である証拠だろうと思ってます。

 どうも人間という生き物が、怖くてしょーがないんですよね、私。
 可能な限りその危険性を遠ざけるか、小さくしようとする本能から、相手がどういう人柄か、可能な限り広範囲、かつ素早く、掴んでおこうとしているんだろうな、と、そんなふうに思います。

 あとは、言葉についてはかなり敏感なところがあるので、少しその人の話ぶりを聞けば、言葉のクセのようなものから判断できることも多い。
 少し話を聞いたり、書いたものを読んだりして、「ああ…なるほど」とうなずいているのはそんなとき。


 草食動物は、例えば、大きな耳という鋭敏なセンサーや、機敏な逃げ足とを持っていることが多いですが、私の「直感」も、そういうものなんだろうと思います。

 人を外見で判断してはいけないというのは確かですが、でも、臆病者の直感は、それとは似て非なるもの。
 外見で判断してはいけないのに、と、自分を責めてしまう人がもしあるなら——自分で自分の直感を信じられると思うなら、その直感には従っていいんですよ。と。
 ちょっと長生きしてる臆病ウサギとしては、お若いウサギには、その直感は大事にしてね、と申し上げたいと思います。
 
 
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2017.07.26 (Wed)

双方向性思いやり

 昨日の話の続きになってしまいますが、なるほどなーと思ったことをひとつ。

 婚活コンサルタントさんの、知り合ったばかりの人との初デートには、手軽なファミレス(イタリアン系)「のような」ところは避けたほうがいい、というツイートについて、皆様がずいぶんあれこれ言うのを、「なんだかちょっと的外れじゃない?」と不思議に思って眺めた、という件。

 そのコンサルタントさんの「論旨」に対し、皆様がわっとばかりに反応した部分が、話として噛み合ってない、と私は感じたわけですが。
 反応した方々の着眼点はまたちょっと違ったんだねえ、と思いましたので本日その件、メモ書き的に。気楽に。

 まずは「初デートにイタリアン風ファミレスだなんて!」と憤慨したかたがおっしゃるには、
「初デートということで(女性は)ずいぶん気を使う。美容室行ったり雑誌でチェックしたり、当日も朝からパックしたり髪を整えたり。
 そうしてドキドキしながら行ったらイタリアン風ファミレスだなんて黒歴史」
「相手の気持ちを考えて欲しい」
「イタリアン風ファミレスが悪いのではない。それはもっと親しくなってからの『日常』デートの場所」
「初デートといえば特別の日であり(日常ではない)、思い出に残る素敵な場所であって欲しい」
 ……とのこと。

 多かれ少なかれ、初デートにイタリアン風ファミレスに反発するのは、安い高いの問題ではなく、「特別感」を共有してもらいたい、ということであり。
 自分はこれほど気を使って一生懸命準備しているのに、ネットの口コミサイトか何かでテキトーに決めただけの場所に、テキトーに連れていかれる、そのテキトーに扱われる、つまりは「ないがしろにされる」のは、悲しい。ということ。

 なるほど。
 相手に尊重されないことは、虚しいし、悲しいこと。
 まして、好きな人からそんな扱いされたら、なおさら。
 これはわかりますねえ……。
 相手から軽んじられた、と思うと悲しくなるのは、これは男女に違いはないように思います。

 かたやしょっぱなから「金銭感覚を『試して』やろう」という意識、片方は「初デートでドキドキだから素敵な場所で過ごしたい」だとすれば、なるほどこれはもう、すれ違いどころの話ではないなあ、と、もはや感心いたしました。

 しかし中には、別に金銭感覚を試すなんて意地の悪い気持ちなのではなくて、本当に、どこへ行ったらいいのか見当もつかない、という人もあるでしょうしねえ……。
 やっぱり、「一概にはいえない」というのが、着地点になる気がする。

 ふーん、と思ったのは、結局これ「思いやり」の話なのね、ということ。

 率直に言ってデートと言われてもどこへ行けばいいかわからない、というのを思いやってあげる余地はあると思うし(わからなかったら率直に、どこへ行きたいか聞いてもいいと個人的には思うけどそれは無しなのね)、ファッションが多少「やりすぎ」になったとしても、それだけ気合を入れて楽しみにしている、という気持ちを、思いやってもいいんじゃないのか、と。

 で、双方で、「思いやって欲しい」と言い合うばかりで、相手を思いやることをしないのであれば、そりゃもう、空中分解するのはしょーがないでしょう、と。
 気楽な第三者としてはそのように思います。すみません、完全に面白がってますこの議論。(^^;)

 その昔、失恋したての後輩の男の子としみじみ飲みながら、なんでそうなっちゃったん、なんて話をさせていて、
「自分の気持ちの押し付けになって、相手のことを『聞く』ことがなかった」
 という結論にいたり、いつのまにか聞き耳を立てていたらしい周囲から
「ああ〜、あるよね〜。それはある!」
 という同意の声が上がり、なんだよ盗み聞きかよと笑ったことを思い出しました。

 自分のことに夢中になり、思いやって欲しいと思うばかりで思いやれないなら、それはもう、仕方のないこと。
 ただ、思いやりさえも行き違いになることはある。気を使っているのも、思いやりがあるのも確かなんだけれど、そういう気持ちが「伝わらない」ことも、少なくないような気がします。
 
 どれほど思っていようと、それが相手に「伝わる」ことがなければ、その思いやりもないことと同じにされてしまう。
 このあたりが難しいところなんでしょうね。

 初デートにイタリアン風ファミレスはいかん、と言っても、本当にいかん人もあれば、全然問題ない、カジュアルの方が気楽に話せていいという人もあるでしょう。行き先どこがいい? とキャッキャウフフで話し合うこと自体楽しい、という人もあるでしょう。
 これはもう相性としか言いようのないものかもしれない。

 結局はやはり問題なのはイタリアン風ファミレスか否かではなくて、思いやりを持てるか、それが「通じる」か、ということになりましょうか。

 イタリアン風ファミレスではあまりに思いやりがないではないか、というご意見も聞けばごもっともだし。
 でも、それも、彼が一生懸命考えたことならそれだって思いやってもいい話だとも思うし。

 となると話はやはり大元へ戻って、「コミュニケーションをどう取るか」を考えましょうか、ってことになる気がしますね。
 そう聞かれたコンサルタントさんは、「落ち着いて話すことはできないから、イタリアン風ファミレスはやめたほうがいいよね」とアドバイスする………。

 なにやら、話が堂々巡りしているようですが(笑)

「初デートにイタリアン風ファミレス」の可否が「問題」なのではない、そこにばかりこだわると本題を逃してしまう、——やはり私としては、そのように思います。

 まあ、自分の意思や思い、どうしたいのかどうして行きたいのかをしっかり持つことも確かに大事ですが、相手も同じようにそういうものを持っている、ということにも、同じくらい目配り気配りしたほうがいい、ともうせましょうか。

 活動中の皆様。
 頑張ってくださいね。←ひとごと
 
 
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2017.07.25 (Tue)

蒟蒻問答

 なんだか落語の「蒟蒻問答」みたいだなあ、と思わず腹を抱えて大笑いしてしまいました。

 一昨日でしたかその前でしたか、ツイッターのTLに、サイゼリヤさんがデートにはどうこうというのと、サイゼリヤを嫌がるような女はダメというようなのとがちらほらあって、なんかサイゼリヤさんがディスられてる? とうっすら思っておりまして。

 昨日になって、たぶんこちらのツイートが火元になったのかな、とようやくわかりました。(←流行に疎い)



 これの趣旨は、金遣いの荒い女性を避けるための一つの知恵というか方便というか、まあ、そういうチェックの仕方もありますよねってことでしょうね。
 ちなみにツイ主さまは、ツイッターのプロフィールによりますと「婚活コンサルタント」とのことです。

 昔から「仲人口(なこうどぐち)」なんて言葉もあって、男女の出会いとなりますと、当初はいいことばかりを言いつらね、欠点は小さく、長所は大きくいうのは人情というものでしょう。
 とはいえ、やはりどうしても聞いておきたい話としては、お金のことは小さくない。経済観念が一致しないというのは長期的な付き合いには難しい条件となりますから、浪費家かどうかというより、経済観念がどうかを見る方法にはこれもありますよ、って、そんな程度のことですよねこれ。

 これがなんでそんなに大きな話題になったのか。しかもみなさんの反応している場所が、ちょっと論旨とは違うところにあるようにも思えるんですが。(^^;) まあいいけど。

 私としてはむしろ、サイゼリヤさんのこの扱いが、なんかこう……、いや、そりゃ高級店ではないのはたしかだけれど、なんかこういうクローズアップのされ方って、「チガウ」気がするんですよね…。どう違うのかは私もちょっと掴みかねてますが;;

 ツイ主さまにとっての元々の問題は、クライアントさんを含めた多くの人の、「ひとつを聞くと『そのまんま』引用するような融通のきかなさ」ではなかったでしょうか。
 馬鹿の一つ覚えという言葉もありますが、何か一つがいいと思うと一斉にみんなが「同じこと」をする。単品ダイエットの流行や、何を見ても何を食べても絶景と絶品としか言わない単細胞ぶりに通じるような。



 あくまでも「例えば」として話したことなのに、それが唯一無二の経典でもあるかのように、「言われた通り」に実行している人が、しかも続出した、というあたりに、ツイ主さまはまず、頭を痛めたと読み取れますね。
 例えばこういうことでさ、と言っただけなのに、「判で押したように」みんなが真似した、ということですね。

 右がいいんじゃないと言われれば右に向かい、でもこっちも近道、と言われるとそちらにわーっと群がり、でも左の道は舗装されて綺麗だよと言われるととって返してそっちへ驀進…。
 そうじゃないんだよ、と、頭を抱える様子が伺えます。



 ツイ主さまのおっしゃることの「論旨」つまり「言いたいこと」は、とにかくお相手の方と、初対面の状態からいかにスムーズにコミュニケーションを重ね、親しくなっていくか、ということでしょう。
 そのために考えること、そのために気遣うこと、その「例」として、あげたにすぎない話題ですよねこれ。

「我が意の通じなさに泣けてきた」って感じが見て取れて、私はちょっと同情してます……。(^^;)
「伝える」ことは、ことほど左様に難しい、ともいえますね。

 ツイ主さまはあくまで「例」としてあげていることなので、婚活しているその方の条件や状況、相手の方の状況、双方の性格、それぞれに違うことでしょう。
 主様の「言いたいこと」は、詳細なテクニック的なことではなく、「こういうところに気配りしましょう」ってことだったんじゃないのかな? ねえ。(^^;)

 さして親しいわけでもない人には、まあそりゃ、それなりに気を使いますよね。
 私は何もおかしなことを言ったわけではないのになあと思って拝読いたしました。

 ほんと、——「言いたいこと」を「伝える」のって、難しいですよねえ……。(^^;)
 
 
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2017.07.24 (Mon)

コミュニケーション指南

 コミュニケーション取れてるってこういうことかなあ、と感心したこと。
 大勢の人が感心したものと見えて、「いいね」が現時点で20万…。



 こちら2枚組の漫画形式となっておりますので、ツイートを開いてメディアをご覧いただければと思います。
 が。環境で閲覧できない方もあろうかと思いますので(twitterさんフィーチャーフォンに帰って来て〜;;)無粋にもざっくり説明いたしますと。

 ツイート主さまがご帰宅。
→奥様ご在宅ながら、珍しいことに不機嫌そう。
→ツイ主さま、奥様に、「3つ質問していい?」「構いません」
   ↓
「落ち込んでいるようだけど体調悪い? 機嫌悪い?」
「体調はイマイチで機嫌が悪い」
「なるほど。一人がいい? そばにいて欲しい?」
「一人にしてもらえると助かる」
「では夜9時までカフェで作業してきますが、欲しいものある?」
「ジャイアントコーン」青じゃなくて赤のやつ
 おっけー。探してきてやるよ 最高のジャイアントコーンてやつを✨
「ありがとう」普通のでいいよ

 まず感心したのは、リプにもあるんですが、ツイ主さまに最初に「落ち込んでるみたいだけど、体調悪い? 気分悪い?」と質問されたとき、どうも甘えがあって、つい、「べつに」とかっていう返事をしそうになるよなあ…、と我が身を省みてまずここで、そもそも、大反省;;;

 そんなわけで、そう聞かれて「体調イマイチで機嫌が悪い」とお答えになる奥様、えらいなあ、と思いまして。
 機嫌が悪いときはその機嫌の悪さをまず外へ出してしまう、ってこと、多い気がする。

 それを甘えと申しましたのは、これ相手が友達だったらそういうことはしない。なのに、家族とかだとたちまち「べつに」になるから。

 あと、現在の自分の状況がどうなのかをきっちり把握してますよね。昨日お話ししました、「メタ認知」「自己分析」の意味はこのへんにある。
 機嫌が悪いときに機嫌が悪い「そのまんま」で対応するのではなくて、黙ったまま何処かへ行ってしまうのでもなくて、「今、私は機嫌が悪いのです」と言えるのは自己分析のなせるワザ。

 不機嫌ではあるとしても、それで他人を巻き込まない、というのは大事なことですね。
 で、そういうときに「ではそのように対応します」と言える方も偉いなあ、と。

 一人でいたいか、そばにいて欲しいか、というのは状況によって変わる。それをオプション(選択肢)として用意するのは、これはもう、それこそ、この場面だけのことじゃなく、日常での、あるいはこれまでの、お互いのやり取りの中から自然に出てくる「オプション」なんでしょうね。
 
 と思って、ツイ主さまのプロフィールページに行ってみたら、固定ツイートがありました。
 こちら。



 ご自分でもご夫婦仲がよろしいというのは自覚があったけれど、あらためて人からそれを指摘されたとき、コミュニケーションがうまく取れずにいる人が多いことんあらためて気がつき、ならば自分の話は参考にしてもらえるところもあるだろうか、とのこと。

 こういう、コミュニケーション上手のお話は是非、世に広めていただきたい。ありがたいなあと思った次第です。

 こちらではご夫婦間のことですが、でもこのコミュニケーションてやつ、人間関係全般に必須のものですから。上手な方のお話は是非とも、聞いて真似して応用・実践できるといいなと思いますね。

 印象的だったのは、その固定ツイートにありますが、基本的な心構えとして、
「妻は他人である。ということを絶対に忘れない」
 これは友達でも家族でもなんでも同じで、
「相手が妻・夫だから要求する権利がある」という考えは大変危険だ——とおっしゃる。

 その通りだと思います;;
 いつぞやは、ご夫君のお宝を許可もなしにごっそり捨てたという、人非人の誹(そし)りもまぬがれないであろう妻君のことが話題になっていましたが。
 基本、それがどんな人間関係でも、自分以外は「他者」なんですよね。他人というと抵抗してくる人もありますが、でも、他者、というとイメージしやすいかな。

 自分以外に自分はいない。その感覚。

 そうは言っても、これも相手のあることで、片方だけがコミュニケーション上手で、相手は箸にも棒にもかからないようなのでもなんとかなるなんてことはない。
 相互の「やり取り」、そのバランスだよなー、と、感心して拝見した次第です。

 人間関係において「距離感」の話をされることは多いんですが——実際、その通りだなと納得はするものの、では自分の「日常」にどう取り入れるのか、応用するのかという、具体論になると、途方にくれる、という人も多いはず。

 やっぱり先ずは、自分が、自分の「気分」に振り回されずにいることが大事なんですねえ……と、我が身を省みて猛省中;;

 まあ、できることをひとつずつ、でしょうけどもね;;
 どんなことも;;
 
 
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2017.07.23 (Sun)

メタ認知修行

 20代女性に仕事のことを尋ねてみたところ、
「職場は男性が多くて、働きやすい環境です」
 ともし言われたとしたら、どういう感じがします?
 なんとも思わず聞き流す人が多いかな?
 私は、一瞬もないくらいの短い時間ではありましたが「は?」と思いました。

 無意識の思い込みってこういうもんだわなー、と、ちょっと面白かったというお話。

 日経新聞土曜版、いろいろな話題のコラムが多くてけっこう好きですが(生活実用一般の話題が多い)、その中に人生相談コーナー、「なやみのとびら」があります。
 回答者は何人かいらっしゃいますが、今回は脚本家の大石静さん。

 相談者は、上記にもちょっと書いた通りで20代女性、仕事が生きがい、とおっしゃる。
「働きやすい環境で感謝しているが、自分以外に女性社員が3人いて、いつも2:1で対立し、陰で悪口を言い合っている」
「自分は悪口を言わない主義」
「我慢しているがさすがにうんざり。でも全員自分より年上(50歳代以上)なので口答えできない」
「どういう心持ちでいればいいのか」

 悪口を言わない主義というのはけっこうですが、悪口を言わない主義ならこんなことを書く必要もないんじゃないの? というのが私の最初の印象。
 と思ったら、回答者の大石さんのお答えもほぼ同じでちょっと笑ってしまいました。

「どういう心持ちでというなら、聞き流していればいいでしょう、働きやすい環境であるならそれで十分ではないか」
 そうおっしゃって、返す刀で、
「確かに、悪口ばかり言う先輩は褒められたものではないが、あなたの質問の裏には、『自分は若く、悪口を決して言わない人間だが、(御年配の)先輩たちはなってない』という『蔑み』があるように思う」
「それはすでに悪口ではないか?」

 私は悪口を言わない「立派な」人で、先輩方ははるか年長者なのになってないよね、と言う、「蔑み」があると感じられて、私(=大石さん)はちょっと寂しいです、と。

 ですねえ。(^^;)

 私も可能なかぎり悪口は言わないように、そして「聞かないように」という気でいるので、質問者さんのお考えには同意なのですが、悪口ばかりの人についてはそんなに「執着しない」んですよね。
 そこであの人たちは悪口ばかりだ、イヤダイヤダと思うのも、「執着」。心をそこに寄せている状態。

 あーまた始まった、と思ったらにっこり笑って何も言わず、その場を離れる、というのが、私の「心持ち」と申せましょうか。
 どうしたらいいでしょうなんて考えたことはないので、へー、と思って読んでました。

 私が引っかかったのはむしろそこではなく、「職場は男性が多く、周りのみんなもいい人です。働きやすい環境だと感謝しています(記事原文)」のところ。
 これだけならまあ気にしなかったと思いますが、続けてきたのが「女性社員が私の他に3人いるのですが…」。

 この言い方の「裏」には、「男性はカラッとしていて付き合いやすいが、女性は陰湿」という、ステレオタイプがある、と感じるんですよね。
 ステレオタイプというのは「紋切り型」「固定イメージ」とでも申しましょうか。日本人といったら出っ歯でカメラを首からぶら下げている、というのが外国におけるイメージとして出てきますが(最近はそうでもないのかな)、例えばああいうのですね。

 あたしゃ男性の方が陰湿だなあと思うことが多いですよ(笑) 「なさそうであるのが男の嫉妬」なんていうの、「あるだろうとは思っちゃいたが予想を超えてひどかった男の嫉妬」と言いたいものを見てきましたんで。

 つまるところはその人個人の人間性であり、男だからこう、女だったらこうというのは「思い込み」であり、「固定イメージ」に過ぎません。
 イメージはイメージであって「実態」ではない。

 あと、人間の面白いところで、自分の好き嫌いに「合わせたように」事象は起こる、ということ。
 私は男嫌いの女好きですから、男性の嫌な面の方が気になるし、女性の良い面ばかりに目がいく。
 私の亡父は逆で、女嫌いとまでは言いませんがそれに近いところがあり、——全く同じ場所で同じものを目撃したのに、私と父とでは、感想も、その事件の解釈も何も、正反対ということはよくありました。

 自分の好き嫌いや思い込みのフィルターによって、同じものを見ても聞いても、解釈も感想も、まるで違ってきます。

 私は、この質問の場合、「男性が多くて、働きやすい環境で」というのは、は? だったのです。
 男性が多いことと、働きやすい環境、というのは、私の脳内では何の結びつきもありません。
 何だそりゃ? と、うっすら思ううちに質問が展開され、「あー……ステレオタイプだこれ」と思った次第。

 でも、こういうもんなんですよね、人の意識って。

 常識とか既成概念とか固定観念というのは、こういうものです。

 で、こういう人に、かくかくしかじかで、あなたそれはそういう思い込みですね、というと、まあひとまずはびっくりされますね。
 驚いて、そうなのかと考え込む人はまだ柔軟性のある人。
 固定観念が強烈な人は、そこで怒り出します。自分の「安全」が脅かされたように感じるようです。
 足元にあった地面が崩壊するような危機感を覚える——その感覚はわかる。私はもう何度も足元が崩壊しているので。(^^;)

 でも、崩壊するのは自分の思い込みであって、本当に地球が割れるわけじゃないから死にやしません(笑) 大丈夫。

 悪口を言わないという志は立派。その気持ちはそのままに、自分の思い込みをひとつ破壊できたら、自分はもっと身軽になれる。

 私は悪口は言いませんと言いながら、悪口を言う人の悪口になっている質問者さんへの、大石さんのアドバイス。
「そういうことを自覚できないと、あなたはいずれ先輩と似たような、あるいはそれ以上にしょうもない50代になってしまうかもしれませんよ」
「自己分析ができない人間は、他人も理解できず、思いやりも持てず、結局、人間関係において損をすると、私は思います」
「どうか、文句を言う前に、もう少し、自分の感情や行動を分析してみてください」

 ……つまらないセッキョーだとしか思ってもらえないかなあ。でも、私も同意見です。

 自分がどんな思い込みを持っているかはなかなか自覚できないし、好き嫌いですら、どこにあるのか、自覚するのは難しいもの。
 知性とは「メタ認知」である、と言った人がありましたが、「自己分析」が、そのメタ認知だと申せましょうね。自分を、他人の目で見る。なかなかたやすいことではありませんが、でもそれはだんだん身についてくるし、いずれは自分を助けてくれる。

 あんな50代以上は嫌だなと思うのであれば、自分がそうはならないように、自分にこそ、冷静な目を向けておくのがよろしいのでしょう。

 なんて言ってますが、これがもーどんだけ難しいことか;;
 私の場合は、それだけが、実感として持っていると言えるもの。
 知性の「修行」は、死ぬまで完成しないだろうなあ、などと思っているところです。(^^;)
 
 
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11:29  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.07.22 (Sat)

今年もこの季節がやって来ました

 今年も地元、地方自治体の健康診査(いわゆる健康診断)が始まっております。
 乳がん検診に予約を入れたのですが、年々、予約が取りにくくなって来ていますね。今年はさらにすごいなあ、と、やっと予約取れた日を見て、実感を強めております。

 私も一昨年にはこの検診で引っかかりまして(専門病院での徹底した精密検査で良性とわかりましたが)、そのときお世話になった病院で継続的に診ていただこうということで、今年も予約を入れました。
 が——もう、ほぼ予約は一杯の状況だったのでびっくり;;
 しかも、今年はその病院では、担当の先生の人数を増やしているのに、です;; 

 日本ではまだまだ受診率が高くないと言われる乳がん検診ですが、それでも少しずつ受診率は上がっているんでしょうか。いいことだと思います。

 ……なぁんてね。のんきに書いているようですが、良性とは言え腫瘍が見つかった過去があるわけだし、私だって、検査のことを考えるとドッキドキですよ;;
 やだなあ、と思うけど、万が一のことを考えるなら、やはり早めに見つかるに越したことはないわけで、……頑張ります;;(何をだ) 
 頸がん検診も行かなければ……こちらも気が重いです;;

 検診の受診率が上がると死亡率は下がる、という現象があるのは確かなこと。
 受診がもう当たり前になったアメリカでは死亡率は頭打ちになっているそうですが、検診受診による予防・早期発見の効果は十全と言えるところまできている、ってことなんでしょうね。
 検診による予防効果は、望める目一杯のレベルまで来た、ということ。
 でも、日本では受診率が高くないので、まだまだ効果は上げていけるとおもわれます。

 こういう各種集団検診について、ずいぶん否定的なことを言う人もあります。
 私も、人間ドックで異常なしと言われて半年後に亡くなったかたを知っているので、それも確かに言える、とは思います。

 でももう——そう言うのは、しょーがない、と思うんですよね。
 確かに、検査で見落とされたか、あるいは病気の進行が半端じゃなく早くて間に合わなかったか、だったのであろう例も知っています。

 でも、だからって「検診なんか無駄」とまでは言い切れないでしょう。

 実際、受診率が上がると死亡率は下がるというデータは無視できませんし、早めに見つかったので助かった、あるいは予後がよかったという人が少なくない人数、いるのも確かなこと。

 ………私が見るところ、健診をやけに力を込めて否定する人って、よーするに自分が病院へ行くのが「怖い」人が多いようです。
 怖いからあんなの行かない、というだけなら、そうですか、で済むのに、ミョーに利いた風なことをいうから、かえって「説得」圧力に晒されるんじゃないの? (^^;)

 理屈で押せば理屈で返される。
 素直に、怖いです、と言えば、そうですか、となるところ、健診の存在意義なんて話をするから、ますますややこしい理屈で説得されちゃうんじゃないかなあ(笑)

 そのうち、生活習慣と本人の性格と、遺伝子の情報から、その人がどんな病気になるかをある程度、予測できるような時代が来るかもしれませんね。でも、今の状況では、「全体の傾向」から、考えうる予防策を取って行くしかないように思います。

 NHKの「総合診療医ドクターG」を見ていると、世の中には本当にもう、いろんな病気があるんだなあ、と感心するのも通り越して呆れるほど。
 そういう中で自分が何の病気をするかなんてわかるもんじゃない。でも、より危険性の高いものを予防しようということが「無駄」「無意味」だとは思えません。
 じっさいに罹患された方は、検診の啓発運動に参加なさる方も多い。結果論のように見えるでしょうが、でも、効果はゼロってことではない——それを実感なさるんじゃないでしょうか。

 忙しいということもあると思いますが、でも、自分自身に手をかけるのも、ひいてはご家族のためになるわけですし、自分の身をまず自分で気にかける、手をかける、時間をかけるというの、大事なことじゃないかな、と。

 ………そんなわけで、今年も、気が重いなあ、と言いながら、私も頑張ってまいります;;

 病院嫌いの人には「私だって好きで行ってんじゃないよ!」と、わめきたくなることもある——、と、ぶっちゃけたところで(笑)、本日はこれにて失礼いたします。 
 
(じっさい、ウキウキして検診にいくヤツなんかいないでしょ…;; あんまり子供っぽいことを、いかにももっともらしそうにいうのは、ほどほどに願いたいですよ;;)
 
 
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11:52  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.07.21 (Fri)

ずる休み

今日はこちら、お休みいたします。

梅雨明けが宣言されて1週間も経たないのにもう夏バテ……ということも、多少はあるかと思いますが。(^^;)
いちおう、投稿しようと思えばできる原稿…というか下書きもあるのですが、どうも、今日はそんな気分になれませんで。

私自身もちょっと身辺がごたついておりまして、少々凹み気味でいたので……いえ、これはもう全く大したことはありません。ただ気分的なものです。(^^ゞ

大したことはなくても、ちょっと無理だな、と思ったら、わがままを言って休むのがよろしい、というのはこれまでの経験で骨身に染みたこと。
そんなわけで、今日は大した理由もなく「ずる休み」いたします。(^^;)

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どーしても無理をしないといけない、ずる休みも許されない、という状況は人生の中にはあるもので、それはそれでしょうがないんですが、でも、可能であるならば、休めるなら休んでおかないと、後でかえって周囲に迷惑をかけることになる——このへんはさすがに「学習」しました。

そんなわけで夏バテに言(こと)寄せて、おやすみ。

夏バテといってもこれも甘く見てはいけませんしねー。
「鬼の霍乱(かくらん)」は、体が丈夫な人が珍しく病気になることを言いますが、この霍乱は夏バテ——日射病のことともいうそうで。

辞書を見ますと第一義は、

「夏に起こる,激しい下痢や嘔吐を伴う病気の古称。
 今日の急性腸炎コレラ赤痢などか」


とのことなので、なるほどそれはもう命にも関わる、と納得です。

いえ、夏バテ、暑気あたり、熱中症もあだやおろそかにしてはいけません。

風邪は万病のもととも言いますし、どんなことでも、「たかが」はない。
体や心から「お知らせ」があったら、無視はできませんよね。

これはもう、ちょっと無理——という信号が来たら、可能な限り、その信号に従うことにしております。

皆様もどうぞ、ご無理は(可能な限り)なさいませんように。

明日にはきっとお目にかかります。
本日のところは、これにて。m(_ _)m
 
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11:28  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.07.20 (Thu)

恩義か、恐怖か

 ただいまNHK BSプレミアムにて、ドラマ「シャーロック4」を放送中ですが(とはいっても今週末22日で最終回ですが)(1シーズンの話数は少ないんですよね)(でも中身は濃い)、ツイッターでは、シャーロックとジョン(ワトソン)さんのセリフをもじって、あるいはそのキャラクターにのっとって、「原稿をしろ」と励ましてくれるbot(ボット)アカウントさんがありまして。

 botというのは「機械による自動発言システム」。
 私も利用したことないので詳細を存じませんが、ツイートする内容を複数設定して置いて、それを自動的にツイートしてくれるもののようです。

 ドラマ中に登場したセリフを基にしたり、あるいは、いかにもこのキャラならいいそうだなというツイートがくるわけですね。「原稿をしろ」と。
 なにも同人誌を発行する人だけを対象にしているわけではないのでしょうが、なんせ夏コミ前のこの時期、コミケで新刊を出そうと頑張る人を、ずいぶん励ましてくれていると思います。

 この「原稿」を「仕事」などに置き換えれば、原稿とは関係ないものにとってもなかなかの働きをしてくれるわけですね。

 このそれぞれのツイート、読んでいると脳内ではちゃんと、三上哲さん(シャーロック役)と森川智之さん(ワトソン役)の声で再生されるんだからエライもんです我ながら(笑)

 仮想・シャーロックとジョンによる励ましツイートはこんな感じ。





 実際の登場したセリフから作られたものと思われますが、いかにもいいそうで面白い。
 基本的にはシャーロックさんは罵倒型、ジョンは親切なお人柄を表す「説得」型。

 概ね、シャーロックさんの方がいい方はきつくて、ワトソン先生の方は穏やかでお優しい。
 ……のですが、たまに逆になっていることもあって、これはこれで趣きがあって楽しい(笑)

 ともあれ、昨夜も両アカウントを交互に眺めては、あいかわらずキレキレですねと笑っていたのですが、ふと思ったのは、上記、ワトソン先生のご発言の方で、
「誰が何て言おうが、僕は君が新刊を落とすなんて信じない。絶対」
 厚い信頼を感じさせるお言葉です。

 思わず目頭が熱くなりそうなんですが、でも、私がこれを言われたら結構プレッシャーだぞと思いました。
 人様から何か依頼されたり期待されると、何としてもそれには応えようとするところがあるので(別に何にも言われていないのに、勝手に自分で設定して自分を追い込むところもある)、そのご期待にはそうようにするのは「当然」ですが。

 とはいえ、こういうことを言われると、グッとくるのと同時に、責任やプレッシャーを感じるなあ、と思いました。
 もう自暴自棄になってわーっと投げ出したくなっていても、こう言われたら、踏みとどまざるを得ないではないか——と思うわけです。
 そうだよねありがとう、と言いつつ、原稿に向かうと思います。

 重くため息をつくくらいはやりそうですが、でも、見事、「説得」され、「励まされる」効果があるのはこっち。

 で、シャーロックさんの方なんですが。
「きみは本当に馬鹿だな」
 と言われた段階でアウトですね。ああそう、ヘーエ、ふーん、そうだよね、で終わる。
 終わる、というのは、それ以上を話すことも聞くこともしなくなる、ということで、この暴言はまるっと無視。原稿をするしないは自分のことなので、もちろん原稿には(最終的には)取り掛かるでしょうが、この発言があったからなかったからどうってことはない。

 無視できるのは、こういう罵倒、暴言のほうだな——、と思ったんですが、皆様はいかがでしょうか。

 基本的には人間の作業効率は、プレッシャーかけてギリギリ締め上げてやらせるよりも、明るく楽しい雰囲気で自由にやらせる方が、結果的には好成績となる。——という実験結果がありますね。
 でも多分、傍目(はため)には、その途中経過については、プレッシャーで締め上げられているグループの方が「真面目に」やっているように「見える」。

 ところが結果を数字で出してみると、じつは、ストレス少なく自由にやってもらったグループの方が成績はいい、ということ。
 この逆になったデータの話は、私は聞いたことがないんですけど、あるのかな。どうだろう。

 まあ実際には、臨機応変、適材適所、環境や状況、その人の個性、性格によって違うのでしょうが、「全般的には」、ストレスなく信頼感を持って「任せる」方が、能力は発揮してもらいやすい、と言えるようです。

 私の場合も、頭ごなしに罵倒されるのは子供の頃のトラウマ気味になっているので、今となっては、こちらはほぼ、効果は期待できないんだなあ、と思いました。

 原稿を仕上げるかどうかは自分のことなので、罵倒されたことを「理由」にやめることはありませんが、それによってやる気を出す、ということは一切、ありませんね。言ってろバーカ、と返すのが関の山です。

 北風と太陽でいうなら、圧倒的に「太陽」で頼みます、その方が(ワトソン先生にグッときてしまったように)なんとか頑張ろう、という気持ちにはなれる。そういうもんだな、と思ったんですが。

 しかしそれで思い出したのは、かのマキアヴェッリのお言葉。



 人は、愛情と恩義の絆はいざとなれば(自分の身を守るためなら)容易に捨てられるが、恐怖で支配されているときは復讐が恐ろしいのでなかなか断ち切れない。——とのこと。

 実際、DV被害者の心理にはそういうものもあるそうですね。恐怖支配、というのかな。
 民法、刑法ともに「緊急避難」というものはあるし、国際法にも「緊急権」がある。自分の身を守るために他者の権利を侵害するのもやむを得ないことだという考え方。

 それはもちろんある。でもそれはあくまで「緊急」であって、永続するもの、または本質的なものではない。
 恩義や愛情より恐怖の方が「効果」があるとは言えない。……と思いました。シャーロックさんの方ならあっさり無視できるわ私、ということで。

 でも、恩義や愛情より、やはり恐怖の方が強いよという方も、あるでしょうか。

 ちょっと興味を引かれるところです。
 
 
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12:07  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.07.19 (Wed)

意外な弱点

 今までもちょこちょこ書いておりましたが、考えてみると、「食べる」というのは不思議な行為です。
 私は食べるということに、何か強い思い入れがあるようだ、とわかりまして、——その思い入れとは何なのかは、わかっておりませんが。(・・。)ゞ

「進撃の巨人」、漫画の方は単行本ででも読めるのですが、「アニメはクォリティ高いよ! おすすめ!」とのことで友人がDVDを貸してくれましたが、これがもうぜんぜん——ダメ;;

 ダメというのは、見ていられない。気持ちが悪い。
 これがもうとんでもなくダメで、意外なところに弱点があったねえ、と友人にも言われまして。

 漫画の方でも「人が喰われる」ところは半分目をそらしながらだったりページを飛ばしながらだったりですが、絵を見る方はそうやって自分で少しでもコントロールできます。
 が、映像になりますとどうにもならない。細かくスキップしても、早送りにしても、その「画」をまったく見ないわけにはいかないし、アニメの方はなるほど絵もきれいだし色彩もあるだけに、より、リアリティに近い。

 …………ダメです;; あれはいけません;;;

 映画でも、いわゆるスプラッターは好きではないにしろ、見て見れないことはない。ドラマのCSIシリーズは熱心に見るんだから、無残な人の体の様子を見るのが絶対的にダメ、ということではありません。
 
 スプラッターは好きではなくても「うわあすごいねー」とか言いながら通過できますが、進撃の巨人のアレはほんっとにダメ。
 アニメという、実写映像よりは虚構性が高いはずのものでもだめ、というのは、「人間が喰われる」ことへの禁忌意識がかなり強いから。のようです。

 ようです、というのは自分でも今ひとつ、掴みきれないものがあるのでこんな言い方になっちゃうわけですが、——いやもう気持ち悪い;;

 生温かい巨大な口腔内のようすを、なぜか自分が経験したかのように「思い出して」しまう気がします。
 ……まあ、ダーウィンの考え方にのっとったうえに、輪廻転生をあるものとすれば、どこかの前世で肉食獣に生きながら喰われたことがあるのかもね、とは言えますが。(^^;)
(でもこういうことを言うと思いっきり引かれることがあるのでここでは取り上げない)

 もう一つ、自分のざらついた感触を見るに、食べると言うことを、私は呪術的に捉えている感触があるなあ、と。
 多分それは神聖な、あるいは「不思議」な「祭事」である、という意識。
 神聖であるということは、裏返すと強烈なタブーになる。

 食べるというのは不思議なこと。
 ご祭事には多く食べることが関係してますよね。法事などが終了した後の、参加者うちそろっての「食事会」はつきものですし。
 祭り事に食べることや食べるものは象徴的に関わる。
 伊勢神宮にも、内宮に対し、「食べる」こと、食べるものと深く関わる外宮がある。その意味。

 食べるということは、何かのエネルギーを自分の身に取り入れること。つまりは「異物」を、自分自身として受け入れる、ということ。
 祭事にそれがあるのは多くは、神様のエネルギーをもらう、という意味もあるのはわかりますね。お正月の食事は、通常と違い、箸の両端が細くなった「祝い箸」でいただきますが、片方は自分用、残りの片方は、何も「取り箸」にしろってことじゃなく、神様用なんですね。
 神様と共に食事をいただく、という意味。
 直会(なおらい)などは、集団・共同体の結束を強める意味もあるでしょうし、盃がつけば、何かの「誓い」という意味もある。
 
 飲食することは、呪術性が高い。

 呪術どーたらは置いといても、単純に、なんで(例えば)この牛肉が私の身になるんだろうかと考えると不思議だな——、と、そんな感覚もあります。

 食べたものが自分の身になるのは当たり前ではないかと言われるかもしれませんが——まあ、当たり前と言えば当たり前なんですが、「なぜ」「どうやって」と考えていると、不思議でならない。
 私の友人に、絶対に飛行機に乗らない、というのがいますが、
「あんな鉄の塊が、なんで空を飛べるというのか、わからない」
 と申します。
 なんでもなにもアナタ、実際目の前で飛んでるんですけど。と思いますがでも、彼女のいうことも、少しわかる気がします。
 食べるとなんで栄養になるのか、不思議だ、というのも、この感覚に近い気がする。

 食べて身になる過程は、もちろん科学的な解明はなされつつあり、それを聞けばなるほどとも思うけど、この牛肉が私の体になるんだなあ、と考えていると、なんとも不思議な現象に思えてくるんですよね。
 たまに私が、食事の皿を眺めて動かないときは、そんなことを考えているんだなと思ってやってください(笑) さすがに滅多にやらんけど(笑)

 わけのわからない話になっていて恐縮ですが、そういうわけで(?)、食べる、ということに、どこか「恐れ」に似た感情があるようです。私の場合。

 で。
 通常は、人間が、何かを食べる側なんですが、逆回転して人が何かの食料になる、という、この発想がですね——、私には、どうにも恐ろしいタブーに思える。ようです。

 人が人を食う、というのはまだわかる。どういう意味があるにしても、それだって、食べているのは人間ですから。

 でも、進撃の巨人では、人ではないものが人を食料にしている。これが、どうにも——受け付けない;;
 何を持ってこられても——それこそエログロから病んだ同人誌からスプラッターまで——わりあいと平然としているというイメージが私にはあるそうで、その私が、進撃の巨人はあきまへんわ、と言ったら、友人は意外そうにしておりました。
 ……だよねえ。私も自分でも、なんでかなあと不思議に思うよ;;

 こういうことを本能とか生理的にダメとかいう表現で終わらせる人も多いかと思いますが、「しょーもないことを繰り返し繰り返し考えることが趣味」の私としましては、これも面白い「材料」だと思い、強烈な吐き気の「向こう側」にあるものをなんとか探ろうとしているところです。

 今のところ言えるのは、食べることの呪術性、が、キーワードになってるな、ということと。

 あの作者の方は、よくこーゆーことを思いついたなー、という、感動に似た感慨。このふたつが、今、確実に言えることですね。

 ……ああ、気持ち悪い。
 気持ち悪いけど、物語のつづきが気になる(笑)
 
 
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2017.07.18 (Tue)

スーパーソロイスツ第1回

 昨日は海の日ということで祝日でした。
 3回シリーズとなるそうですが「スーパーソロイスツ」へいってまいりました。渋谷Bunkamura オーチャードホールにて。

 ヴァイオリニスト、三浦文彰(みうら・ふみあき)さんと東京フィルハーモニー交響楽団によるコンサート。
 昨年の大河ドラマの主題曲の演奏でグッと知名度も人気も上がったようで何よりです。私も三浦文彰さんに注目して何年になりますかね…当時はまだ学生さんだったと思いますが。

 今回たまげたのは、指揮者がいなかったこと。
 間抜けな話で、ヴァイオリン協奏曲をやる、というのは聞いていたけれど、どなたが指揮かということをまるで考えておりませんで。

 昨日、渋谷駅から坂道を登りながらようやく「そういえば、指揮は…?」などとぼんやり思っていたくらい。
 そうしましたら、オケの指揮も、三浦さんによるものだったので、うっひゃー!! とびっくり。
 指揮者はバイオリニスト出身者も多いと聞きますが……今回のスーパーソロイスツは、第2回は服部百音さん、第3回目が辻井伸行さんですが……もしや全員、この方式でやるのかな?;;

 自分がソロを務めながら指揮もするというのがどれほどのハードワークかは、ど素人の私には想像もつきません、が。しかし、見事なものでした。
 オケにはコンサートマスターがいますが、しかしそうだとしても見事な演奏、統率と調和でございました。
 いやはや……すごい。

 今回はアンコールもなく、終演後はサイン会とのことでした。あの演奏の後でサイン会か〜、大変だな〜…と恐れ入りながら私は帰ってきました。
 サイン会に並ぶ行列はかなりのものだったので……、大変だなあという思いと、すごい人は本当にそれぞれにすごいなあという思いでございます。

 三浦さんといえばご使用の楽器が今年になってから変更になりました。
 これまでのものはJ.B.Guadanini(ガダニーニ) 1748年製でしたが。
 ストラディバリウス1704年製”Viotti” へ。

 ストラッドはもちろん素晴らしいがクセが強く、弾きこなすには時間がかかる、とも聞いていたので、さてどうなんだろう、と思いましたが。

 今までの三浦さんの演奏ももちろん素晴らしいものがありましたが、また一つ、ステップが上がったとわかる感じ。
 あの空間を裂いていくような冴えた高音を、ヴィオッティは軽々と「歌って」しまいます。

 もはや言葉として歌うのは無理だろうという超絶高音。これまでのものでは金属音のような鋭さがあり、これはこれで魅力でしたが、ヴィオッティはその音を奏でてなお「余裕」がある感じ。艶やかな音色がなくならない。
 
 うへえ……と思いましたね。
 楽器はまさしく「歌う」ときがありますが、本当にヴァイオリンが歌ってる、と思いました。
 そういう意味では、昨日演奏された協奏曲2曲のうち、後半のベートーベンの方があっていて、魅力を味わえる感じでした。

 ……千住真理子さんのストラディバリウスを最初に聞いたときもぶっ飛んだけど……、なんなんでしょうかね……あの楽器、日本で言うところの「付喪神」ですよ……。

 その化け物じみた名器を「使いこなして」いるかと言うと、まだちょっとその感じではありませんでしたが(すみません、素人の勝手な印象です;;)、逆に、この先が楽しみです。今回も聞いててしみじみ、「大人になったなあ……音が」と思いました。
 成熟していくのはこれから。楽しみですね。

 まだ使いこなせない楽器では「もったいない」と言う声もありましょうか。
 でも、あの付喪神レベルまでくると、あのへんはもう、持ち主たる人間を自分で選ぶと思いますね。千住真理子さんもそうだったけど、もはや霊気を帯びたモノは、自らの主人を(主人という概念が妥当かはわかりませんが)選ぶように思います。

 てことは、あの楽器が手元に来た、と言うことが、すでにその資格を証明していると思ってます。

 もうちょっとあれこれ——コンサート以外のことを——書きたいのですが、どうも、熱中症とは言わずとも「暑気あたり」のようで、頭痛がして治りません。今日のところは、このへんで。
 皆様もくれぐれも、お身体をお大事にしてくださいませ。


【スーパーソロイスツ第1回 演奏曲目】

・モーツァルト
 ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219《トルコ風》

・ベートーベン
 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61

 
 
 
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