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2017.06.30 (Fri)

一方を聞いて沙汰するな

 本日は6月のプレミアムフライデーでございます。
 あいにくのお天気となっているところが多いかと思いますが、時間の有効活用ができる方にはぜひそのようにお過ごしいただけますように。(-人-)

 なんでそんなにプレミアムフライデー応援なのかと申しますと、できる人からでいいから、早く上がれる人は上がること、定時で帰れる人はさっさと帰るのが当たり前という「空気」が発生することを——、早めに上がることに対する「罪悪感」があるという、この奇妙な「文化」が打破されることを、心の底から願っているからです。

 定時で帰って当たり前だし自分の仕事が終わってんのに「付き合いで」居残ってしかもサービス残業って意味わからん。定時で帰れるのに「罪悪感」がある、定時で帰る人を「妨害する」、「責める」というのはもっとわからん。
 そういう訳のわからない横並び意識、悪平等意識、無くしていきたい、と心から願っておりますので、プレミアムフライデーには、その空気醸成の効果を願う訳でございます。

       ●

 NHK大河ドラマの「篤姫」で聞いた、印象深いセリフが脳内を駆け巡りましたよ。
「一方を聞いて沙汰するな」

 ことの起こりは、LCC(ローコストキャリア)、つまり格安航空会社の便を利用した、肢体不自由の方が、利用する飛行機に搭乗するにあたり、ご自分でタラップ(乗降用階段)を——足に障害があるとのことなので、『這い上がる』ことになった、という顛末。

 これだけポツンと聴くとずいぶんそのLCCの手落ちのようですし、聞いた瞬間「ひどい」と顔をしかめる人が多いかと存じます。

 が、これはそうでもない。公共交通機関は大勢の人が関わることですから、安全かつ円滑な運用、運行が「第一義」である、というのはその通り。
 その円滑な運航のためには乗客ひとりひとりにもまた、そのための努力、協力が要請されているんですよね。ふだん、あまり意識されないだけで。

 障害のある方でももちろんそのあたりは同様。事前連絡を入れておくなどの「協力」は、通常の乗客が搭乗手続きがスムーズに行くよう職員さんの指示に従うというのとなんら変わるものではない、と。

 よくよく考えればその通りなのに、「よくよく考えないと、思いつかない」ってところが、いかんのだろうなあ、と思いました次第で。

 この場合、この便を利用しようとした乗客と、航空会社側はそれぞれ、どういう対応が本来のものだったのか、それがどう今回は守られなかったのか、どこが問題だったのか、——を、丁寧に説明してくださっているものがありまして。

車いすで飛行機に乗る時は
 2017.06.29 Thursday いすみ鉄道社長ブログ
http://isumi.rail.shop-pro.jp/?eid=2918

 読めば、なるほどなあ、と納得です。

 思いますのに、どうも、最初に聞いたのはその乗客側からの発信だったし、マスコミがわっと食いついたのもそちら側ばかりで、きちんと航空会社側の事情を伝えたものはなかった。
 こんなときばっかり食いついてくんのな、と思ったのにはBBCもありました。

日本の航空会社、車いすの男性を自力で搭乗させる
2017年06月29日 BBC JAPAN NEWS
http://www.bbc.com/japanese/40439777

 あえて露骨に扇情的に書いているようには見えなくても、結局は、航空会社側を「悪者」と決めつけて、「ひどい!」となるように仕組まれている記事が多かったようです。

 でも、第三者というのはこういうとき、そうも簡単にコーフンしてはいかんのだな、と思いましたね。
 航空機の運用に関する法律や義務については私どもはほとんど知らないはずですし、知らないことに対して勝手な憶測でものを言うのは、いろんなものを誤らせる元です。

 聞いた瞬間には「ひでえな」という印象があったとしても、「自分は、でも、”本当のところ”については何も知らない、第三者にすぎない」ということは、わきまえておくべきでしょうね。
 そうじゃないとモンスタークレイマーの、御先棒をかつぐこともあり得る。そんなの嫌でしょう。
(モンスタークレイマーというのはたとえであって、今回の乗客のことではありませんので念のため)
(よく知りもしない、無関係者が、勝手な妄想でものを言うと、そうなる危険性が高いよって話)

 篤姫で印象深いのは、そういうわけで、そのセリフ——「一方を聞いて沙汰するな」。
 何か問題が起きたとき、当事者の片方だけ、あるいは誰か一人だけの話を聞いて、判断してはいけない、ということですね。

 それぞれの立場でそれぞれの人に、事情も言い分もある。それらを公平に聞いて、「全体を見て」考え、判断する。その必要性と、そうしなかった時の危険性を、端的に表した言葉だと思います。
 ドラマ中で聞いたときは「うーん。ごもっとも」と思いました。

 篤姫さんのように「エライ」人で、何かと人を判断しなければならない立場だと、実際、本当に慎重にする必要があったでしょうね。
 一度下した裁定を覆すのは難しいこともあるし、訂正したとしても、もう取り返しのつかないものが、何かしら出てくるはず。

 篤姫ほど重要な地位にはいないからって油断してはいけません。
 やはり、大勢の人がヒステリーを起こせば、たとえそのヒステリーの内容が全く誤ったものであるとしても、大勢、というのはすでに「暴力」ですから、これもまた人を殺す危険性を持っている、ということを考えておく必要がある。

 この話を聞いて、「ひどい!」と、カーッと感情的になった人の多くは、何かと不自由な思いをなさる方に同情心を持つ、おやさしい方なのだろうと思いますが、でも、それでも、集団になったときの暴力性を考えて、「詳細を知るまでは判断しない」という態度が、まず望ましかったのではないでしょうか。

 いすみ鉄道社長さんのブログは、そういうわけで、「双方を聞いて沙汰する」ものであり、ありがたいお手本ですね。
 私などは飛行機なぞ両手の指を折って数えられるくらいしか利用したことないので、その運用ルール等については何も知らない状態。詳しい説明が、ありがたいことでした。

 最近、ファクトチェックなんてことがアメリカさんでは言われているようですが、マスコミにおいては、——まあここまで丁寧なことを調べるのは時間の都合で難しいのはわかりますが、せめて、勝手に沙汰しない、という態度を、お願いしたいと思います。

 と同時に——それは、私ども一般の「無関係者」も同じですよね。

 あのドラマを見ているときにも、なるほどと思って聞いたけど、「一方を聞いて沙汰するな」は、1日に10回くらいは思い出し、確認していいことだろうな、と、あらためて思ったり。

 やはりここでも、「ひどい!」という、感情に振り回されてはいけない、ということが言える。
 そのように思います。
 
 
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2017.06.29 (Thu)

そういう問題じゃないこと



 元の話題は、「物理学では、単位が異なるもの同士を足したり引いたりしない」というルールがある、というお話ですね。
 ツイ主さまによれば、「8cm−5人、とか意味わかんないでしょ?」、つまり例えるなら「これは仕事と私どっちが大事って聞く彼女と同じ」だ、とのこと。
 
 科学の考え方では異なる単位のものをごっちゃに混ぜないことは当たり前だけれど、これがことば、文字のことになると、そういうことを平気でやっちゃうんだよね、というお話。
 前後のツイートから察しますに、たぶん、ある話題に対して論理として成立しないリプ(いわゆるクソリプ)をした人についてのツイートのようです。

 ですが。こちらのツイート、ちょっと開いて見てリプ欄をご覧いただけるとまた面白いと思うんですが、「仕事と私どっちが大事」という問いかけについてのご意見が集まっているんですね。なかなか面白い(笑)
 それだけこのセリフか同種の「行き違い」に悩む人は多いんだろうなあ、と思いまして。

「仕事と私」の比較が「異なる単位同士の(無理な)計算なのか」という考察も面白いんですが、私としましては
「論理破綻になるのも無理はない。本当に言いたいことはそーゆーことじゃないもんね、大抵」
 と思いまして。

 ちなみにこれ、元のツイートではこのセリフを言うのを「彼女」だと想定していますが、おかげさまで女性もふつーに仕事をするようになっております昨今、これを言う「彼氏」さんもそれなりにいる、と言うことは小さく書き添えておきたいと思います。
 つまるところ、感情の行き違いには性差はないということ。思わずそう言ってしまう彼氏さんの数は今後は増えていくかもしれませんね。



 実際の言動や行動は、その人本来の目的に適(かな)っているとは限らない。
 特に、感情というのは本人も正しく「理解」していないことが多い。
 感情は人にとっては大事な「信号」ですが、この信号、見方や扱い方を間違えると深刻な状況をもたらすことになる。

 怒りや悲しみという感情は、自分が何を大事にしているかを表す信号。
 本当に見るべきなのは「大事にしているもの」であって、怒りや悲しみという感情そのものではない。
 でも、つい、この感情に引きずられて、「私はこれを大事にしています」というのではなく、周囲の人に「なんて酷いことをするんだ」と当たり散らしてしまう。

 怒られた方は、正直なところ「意味不明」ってことが多いでしょう。何を大事にしているか、は、その人の内面のことであり、外から見ている他人に分かることではない。
 何もないはずのところからいきなり「酷い!」と攻撃されるのですから、攻撃された方としては、びっくりしつつ、その理不尽さにまた腹を立てて、自分を守るためにやはり攻撃に出るでしょう。

 ということで上記、アドラー心理学から。

「ケーキ、食べちゃったの?ひどい!」などと怒り、睨みつけてはいけない。「食べたかったなぁ。残念だなぁ」と伝えるのだ。



 ケーキ食べたかった、と言われば、そうか気がつかなくてごめんね、また買ってくるね、——ということに(たぶん)なるんじゃないかな。この辺は相手の性格や関係にもよるでしょうけども。
 少なくとも、怒られた側が「なぜ怒られたかわからない」ことにはならない。

「仕事と私どっちが大事なの」というのも、まあ、そういうことでしょう。

 仕事と私というのが「同じ単位」か「異なる単位」かはどうであれ、本当に言いたいことは、「あなたと一緒にいられないので、私は寂しい」ということなんですよね。
 でも、言っている本人すら、自分は寂しいと思っているのだと認められないことも多い。

 面白いもんですね。
 自分で自分の、言いたいことや求めるものが何か、見落としている。
 ただ、自分が不快になっているのは「誰か」のせいだ、と、それしか考えない。

 自分は寂しいのだと伝えたら、状況はよくなるか、と言われたら、それは、「さあ」としか言えませんけども。(^^;)

 でも、寂しいんだよ、と「伝える」ことはできるでしょう。

 いきなり「どっちが大事なのか」と相手を詰(なじ)っても、その寂しさは伝わらない。何より、誰かを責めても自分だって傷つく。
 ましてそこから相手からの反撃があれば、もう救いようのない泥沼。

 そんなふうになるよりは、寂しいです、と、自分の気持ちを、自分で認めているぶん、少なくとも、自分自身に対してはやさしくできている。誰かを理不尽に責めるなんて気分の悪いことをしないですむ。

 怒りだったり悲しみだったり、そういうものにどうしても私どもは振り回されてしまいますが、決して怒りや悲しみが「本音」なのではなく、本音はさらにその奥にある。
 そのことを知るだけでも、ちょっとは変わっていくものがあるんじゃないでしょうか。

 
 ………まあ、私も、人さまにはそんなふうに話せても、自分自身がどうなのかと言われると、そりゃもう、——たいへん申し訳ございません!!! と言ってひたすら平伏するしかなかったりしますが。(^^;)

 でも、感情は本音ではない、ということを知って、ならば自分の本音は何か、と探る——探って、ああこれかと納得する——これを訓練として繰り返すうちには、素直に自分の「本当の気持ち」に、さっとアクセスできるようになっていくんじゃないか、と、かように思う次第でございます。
 
 お釈迦さまのおっしゃる「自分をよく制御せよ」というのは、そういうことなんだろうと思い、あの「止観」と訳される(らしい)ヴィパッサナー瞑想は(浅くは)そういう訓練なのだろうなと、最近にやってよーやく、思いついたところです。(遅い)
 
 
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2017.06.28 (Wed)

憧れの方向性

 将棋は「指し」ます。
「打つ」のは囲碁です。

 ……と、思わずテレビ前で憮然としております。

 藤井聡太(ふじい・そうた)さんという、将棋界の大彗星が現れているわけですが、例によって例のごとくで、世間様の「フィーバー」、私は「跳ねっ返り」と呼んでおりますが、そういう騒ぎにいささかうんざり気味です。
 昨日もテレビを横目で見ておりましたら
「私もちょっと将棋を打つんですが」
 と言った人があったもんで、
「将棋は指すんです。打つのは碁です。……本当に将棋、おやりになるんですか?」
 思わず少々意地の悪い独り言。(^^;)

 個人的には藤井四段にはいろいろと感心しております。興味深いことも多々ございます。藤井四段ご自身に対して含むところはまったくございません。
 私がいささかムッとしているのは世間様の騒ぎの方。

 私だって将棋はネットで見る専門で、とても将棋が「わかる」とは言えませんが(門前の小僧習わぬ経を読む的に覚えることは結構ありますがその程度)、………でもさあ、将棋は指すのか打つのかも知らないような人々がなんでこんなに藤井さんに「熱狂」するのかなあ? そのへんがわからない。

 とは言え、こういう騒ぎは過去にもなんども(………なんども;;)みております。
 言っちゃなんですが一番滑稽だと思うのは「どうやったらうちの子もあんな風になるのか」という人々。
 そもそも「あんなふう」ってどのことを指しているのか。

 藤井さんであれば、あの頭の良さか。あの「大人」ぶりか。将棋が強いことか? でも将棋が好きかどうかは親が決めたことじゃない。頭の良さについては、まず親が違うということを忘れてんじゃないの?

 藤井さんの学習法なり知育玩具なりなんなり、参考にできそうだと思えばそれを取り入れるのは結構でしょうが、「うちの子」と藤井さんではありとあらゆる「背景」が違う。
 彼には効果的だった教育法も「うちの子」には合わない、ということも、ジューブンあり得るわけですよね。個性が違うんだから。

 なんでしょうかね——私は昔っからこういうのが嫌いで。

「よそ様のお子さん」と「うちの子」は、まるで別のもので、資質も背景も遺伝情報も、ものの好みも性質もその指向性もまるで異なる個性。
 まるで異なる個性なのに、「あの枠を持ってくればうちの子も、あの枠に沿ったようになる」と考えている、あるいは考えているかのような言動や騒ぎって、どうも——ひと事ながら、不快に感じます。

 うちの子だろうがよそ様のお子さんだろうが、どのみち、何かの枠を持ってきて、それその通りに(自分の思惑の通りに)人を当てはめよう、という考え方感じ方が、私には恐ろしいと共に「おぞましい」のです。

 自分の果たせなかった夢を子に託す、みたいな発想って、どうも世間には多いようですが、親子だろうがなんだろうが、人としてはそれぞれ独立した存在なんで、誰かの思惑どおりにいくはずがないんですよね。
 それでも幼い子供は必死になって親の「期待」とやらに応えようとする——これはもう健気なんてもんじゃなくて私などは本気で泣けてくる。
 ……でもそうやって、本来の自分を見失い、その後、なんとか見つけるまでに、何年もの時間を費やす人が、世の中にはどれほどいるだろう。

 もちろんこれは親子の話だけではなく、学校の先生でも、あるいは友人同士の間でも、他人を自分の思惑どおりにしようとする、そういう「関係」はそこら中にありますね。
 そこら中にある、と言わなければならないことを、私は悲しいことだと思うし怒りも感じる。

 そういうあらゆる人間関係に、他人をコントロールしようとする人の問題はあるんですが、でも、中でも、親子関係というのは、子供からすれば親というのは「生殺与奪の権を握る」——養育者はいつでも殺人者になり得る、という切羽詰まったものなので、特にここのところには敏感になってしまうようです。

「うちの子」の適性を探り、この子を「活かす」方法を見つけたい、という中で、藤井さんのお話が参考になる、というのならわかる。
 でも、目の前の「うちの子」を「無視して」、「藤井さんのようにしたい」という発想であるなら、私としては、バカタレ、くらいのことは言いたくなります。
 
 藤井さんの登場に驚き、目を奪われ、「あんなふうでありたい」と思っているのはご自分なのでは?
 自分があのようにありたいと思うのに、でも自分ではもう「手遅れ」だから、「うちの子」をなんとか……、ということじゃないのかと、大きなお世話ではありましょうが、そういう「感触」を感じることがあって、どうにも気持ち悪い。

 自分があのようにありたいと思うなら、自分がやればいい。幼稚園には入れませんが、そのメソッドを聞いて応用するなり、知育玩具を自分も使ってみるなりすればいい。
 別にこれは冗談で言ってるんじゃございません。興味があるなら自分がやれば? というだけのことです。

 それに、これは真顔で言いますが、知的な刺激って年齢関係なかったりしますしねー。
 先日は人間の知能のピークは50、60、70代、というお話をしました通りで、脳みそ自体は、いつでも知的刺激は受け入れOKという器官なんですよね。
 内臓や神経組織がバテていて、脳を生かせないことが多いってだけで。

 どうせ藤井さんすごいねと盛り上がるなら、自分自身に取り入れればいい。そう思いますね。

 私も親だのセンセイだのの「押しつけ」が嫌で嫌で嫌で嫌でしょーがなかったもので、つい、いまだに、「その人自身を見ずに勝手に他の何かを押し付ける」ものをみると、人ごとでもむかっとしてしまいます。
 
 藤井さんについては——連勝記録もすごいんですが、これ、「デビュー以来負けなし」の方が、私には驚異的に思えます。
 四段というのはまったく名目でしかなく——、実際には、どのへんが妥当な段位なのだろう、と、ぼんやり考えつつ、拝見しております。

 ついでに言うと、これほど将棋が盛り上がるのも、その基礎を作ったのはまずはニコ生将棋さんだと思うんですが、テレビを見ているとアベマ Abema TV さんのことしか言わないのも、大いに不満に思っているところです。

 ものが何であれ、パイオニアをまず敬う私としましては、アベマさんを見ることはたぶん、ないと思います。
 よほどのことがない限り、私はニコ生さんで拝見していきたいです。(← やや意固地。(^^;))
 
 
 
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2017.06.27 (Tue)

急遽おやすみ

ちょっとばかり手違いございまして、本日こちら、おやすみいたします。m(_ _)m

人と会う約束があったのを、日付を間違えていたようで(どちらが間違えたのかは問うまい;;)予定が大幅に変わってしまいました。

ということで、ちょっと呑気に投稿しているわけにもいかなくなりまして(誤字脱字その他に不安があるので、下書きをそのままぽんと投稿する、ということはできません、私の場合;;)、お休みします;;

どちら様にもご機嫌よろしゅう。m(_ _)m

softpink-roses_s.jpg

 
 
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2017.06.26 (Mon)

人のふり見て我がふり直せ

 昨日、出かけた先で、空いた時間にツイッタを見ていたとき、一瞥(いちべつ)するやブチ切れそうになったものが、ノンフィクション作家とおっしゃる降旗学(ふるはた・まなぶ)さんのコラム。



 降旗さん自身のツイート等ではなくて、「週刊ダイヤモンド」のオンライン版「ダイヤモンド・オンライン」に寄稿されたものの、スクショですね。
 ツイートについたリプがいくつか指摘していますが、この文章は今回の件についてではなく、1年ほど前のものになる、とのこと。

 ですが。
 1年前の件でも今回の件でも同じことだ。
 取材される側の市川海老蔵さんは、決して取材拒否をしているのではない。であるにもかかわらず、病院やご近所という先にまで多大なる迷惑をかけているのはやめてくれとおっしゃっただけ。
 それについての降旗さんのお考えですが、これ、早い話、私が大嫌いな「有名税」の考え方なんですね。

 取材される側もこのギョーカイなんだから、ギョーカイを支配するルールのようなものはよくわかっているはずなんで、それに逆らうことはできない。という脅迫と。
 私ども「受信者」に対しては、
「これがギョーカイの”当たり前”だ。それが嫌なら週刊誌を見るなワイドショーも見るな」
 ですとさ。

 言われるまでもないわ
 私はゴシップのこの世からの絶滅を本気で願うような人間だよ。ってことはアンタみたいな人の絶滅をもたまに本気で願ってるよ。週刊誌は自分で買ったことはここまで生きてきて一度もないよ。
 ゴシップ誌に金を出すというのはお金をドブに捨てるより「悪い」ことだと思ってるよ。
 犯罪に手を貸すようなもんですからね。
 ゆえに、ワイドショーなんか、もうかれこれ20年かそれ以上は見ていないと思う。

 見ていない、のではなくて、「見るに堪えない」といった方が正確だな……。
 あんなもんを30分だの1時間だの見てろって………拷問ですよ;;

 こういう「盗人猛猛しい」のを見てしまうと、どーしても腹が立ちます。(^^;) 人間が練れていません。

 その後も、どこかのブログで、
「メディアは受信者たちに”奉仕”している。受信者が望むものを取ってきているだけ。今回の取材側の態度が悪いというのなら受信者たちが悪いのだ」
 という指摘もありました。
 こちらについてはあんまり怒る気にならなかったのは、これはこれで、その通りだと思っているから。

 別に、セレブ、有名人とは限らず、ゴシップ好きな人というのは自分の身近な人やコミュニティにおいてもそうで、他人様のことを根掘り葉掘り聞きたがり喋りたがり、それくらいならまだいいが、「こういうことに違いない」と決めて、面白おかしいように脚色して広めるんですよね。

 そういう人たちが一定の数いるのは事実なので、そういう人の好みに合わせているのだというのも、嘘じゃない。
 ゴシップ誌でもワイドショーでも、それがお金にならなければ撤退するしかないわけで、ネットという、これほどゴシップ好きには便利な「サービス」がしかも無料または極めて安価に利用される中でも、やっぱり週刊誌もワイドショーも商売しているということは、彼らに儲けさせている人々がいる証拠ではある。

 メディアはその国のレベルを反映する、というのは間違った見方じゃない、と思うので、それで、後者の方にはあんまり怒らなかったんですが。

「あんまり」怒らなかったというだけで、怒っていないとは言ってない。

 どちらにしろ、自分の行為を他人のせいにして、誰が悪い彼が悪い、誰ぞのせいだ何かのせいだ。自分は悪くないのだ——という、この言い草がもう、筆舌に尽くし難いほど嫌い。

 内省のないところに人の成長はないと思っておりまして、そういう考えからいったら、「いいことは自分のおかげ、悪いことは他人のせい」というのは、本人が成長しないのみならず、他人の足を引っ張ったり、こうやって他人様に多大な被害を与えることになる。
 ゆえに、可能な限りこういう人には発言させてはいけないのだ、というのが私の思うところです。

 ただ。
 こういう人を見て怒るのはいいとしても、同時に、頭の片隅で冷たく思うのは、「自分は大丈夫なのか?」ということ。
 冷たい氷水で満たされている場所が脳みその隅っこにあって、降旗氏みたいな人にブチ切れそうになるたび、その冷たい水の中から「自分は?」という問いかけが聞こえてくる。

 いいことは自分のおかげ、悪いことは(全部)他人のせい——。
 そういうの、自分はやってないか? 本当に?

 これを考えると、怒りも瞬時に冷めますね。(^^;)
 人が怒ることにも、いくつか「怒りのパターン」がありますが、一番多いのは、同族嫌悪というのか、自分で自分の、こういうところが嫌だな、と思っているのを、他人に見せつけられたとき、じゃないでしょうか。
 
 降旗さんとかいう方のご意見にキレそうになったのも、——ここまで積み重ねてきた経緯があるから、というのも事実ですけれど、一番大きな理由は、自分がそうなることを恐れ、嫌悪しているから。
 そういうことはあると思います。

 自分で嫌だなと思うのを目の前に見せつけられるとカッとくるのは人情ですが、でも、もしそれを自分でもやってしまったらどうなるのか、その醜態を、身をもって見せてくださった、ということには、素直に感謝したいと思います。

 ちょっと場面や状況が違うというだけで、自分だって、こういうことをやっている——という自覚。
 それがどんなことなのかをあらためて見せてもらったのだと思うと、これはこれで感謝だな……と、ちょっと頭を冷やして、そんなことを思っている次第です。

 ………だからって「有名税」なんてくだらない考え方に、わずかにでも妥協する気はありませんが。
 それはそれ。これはこれ。(^^;)

 
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2017.06.24 (Sat)

都々逸になった

 明日はまたちょっと所用ありまして、こちらおやすみいたします。m(_ _)m

     ●

 昨日ツイートしていたものが、ちょっと整えたら一句できました。


——愛する人に 愛していると 言える幸せ 夏椿

IMG_2614.jpg

 七・七・七・五になっているので、俳句じゃなくて都々逸(どどいつ)ですね。
 こんな感じで、五・七・五にならないかな〜と思ったけど、私ではひねれませんでした。(^^;)

 柳家紫文師匠によりますと、日本語としては七・七・七・五の方が自然であるらしく、日常の言葉がそのまま七・七・七・五になっているものって多いんだそうで。
 同じ調子でリズムよくいって最後にオチがつく、というイメージかな。
 
 私は音痴なのでまっっったく! 歌えませんが、でも、都々逸というのは聞いていてなんとなく耳に心地よくて好きです。短歌、俳句のような芸術性は濃くありませんが(……よく知らないけど多分;;)、日常の、人の心の機微にはよく寄り添っているもの、という気がする。

 昨日の自分のツイートを見返して、あれ、これだけでけっこう形になってんじゃない? と気がつきまして。で、指を折って数えつつそれっぽいように考えたら、こんなものになりました。

 都々逸も形態としては自由で、俳句のように季語を必要とはしません。が、最後のオチ? として、花の名前をいくつか考えていました。
 候補として考えたのは、「夏椿」のほか、俳句で季語になっている「沙羅(さら)の花」、あと「沙羅双樹」。

 沙羅双樹といってしまうと、これは日本では自生しない植物ですから「気持ちはわかるが、うそ」ということになる。
 沙羅の花は夏椿と同じ。沙羅双樹と混同された過去があってこういう名前になっているとか。

 本物の沙羅双樹は、大辞泉によりますと、

「フタバガキ科の常緑高木。インド原産。高さ30メートルに達する。葉は長円形。花は淡黄色で小さく,大形の円錐花序につく。材は堅く建材などとし,樹脂はワニスの原料,果実は食用。シャラソウジュ。シャラノキ。」

 とのこと。まったく別物なんですね。そういうわけで日本では、温室で管理するなどしない限りは育たない。当然、日本に自然の状態で沙羅双樹はない。

 白く可憐で夏に咲く花、しかも1日しか咲かず、咲いた後は椿らしくぽとりと落ちる、そんな儚いイメージから、沙羅の花と言われたんでしょうか。

 私は短い言葉でサクッと表現する能力は欠如しているのですが、「日常の中に存在する」都々逸の形式だと、ちょっと頑張れば、意外とできたりするのかしらと思ったり。

 明日はそんなわけでこちらおやすみしますが、今日も実質、休みみたいなもんですねー。(^^;)
 どうも世間じゃ嫌な話ばかりだし、ただでさえ嫌な話なのに、誰もかれも、ますます嫌な表情と声と言葉で「わめきあっている」ので、もう、うんざりしちゃって。
 思うことはいろいろあるけれど、何もいう気にもなれない……というのが、私の現状。

 白い花を見て、静かに「その幸せ」を偲ぶ、——そんな日にしたいと思います。

 どうぞ良い週末をお過ごしください。m(_ _)m
 
 
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2017.06.23 (Fri)

過激思想

 まあ、私がマスコミというものに腹をたてるのはもう日常になっているので、彼らの不見識を指摘するための例として、もはやどの話題を取り上げればいいのかわからない状態なんですが……。
 でも本来は、マスコミがどれほど愚かであろうと、それを受信する側、つまりは一般市民が賢ければ何の問題にもならないんですよね。

 東京都の築地市場移転問題についても、私はあくまで(他県民だし)傍観者の立場ですから、あんまりとやかく——というよりはえらそうに——ものをいうもんじゃないと思って見ておりますが。
 あれだけの規模とネームバリューを持つものについての考えが、「満場一致」で賛成でシャンシャンとなる方が不自然なんで、それは別にいいんだけど、
「これを都議選の争点にするんだろう」
 などと憎々しげにいうツイートを多く見て、
「争点にしたくないならしなけりゃいいじゃん」
 と、ちょっとばかり呆れております。

 ネズミの嫁入り、という昔話がありますよね。
 どうも多くの人々は、よそ見ばっかりして自分を忘れ、自分に権限があるということを忘れ果てて、自分は「常に」何かの思惑に「虐げられている」「可哀想」「無力な」「弱者」であるという意識になっているようです。

 なるほど数十年かけて左巻きが騒いで刷り込んできた「弱者意識」はこういう事態を生むのだな、と思っているところ。

 投票するのは有権者だし、選挙結果は有権者の票数で決まる。
 私は民主主義も多数決というやり方も、ぜんっぜん「いいもの」「正義」「至上至高にして最高の価値あるもの」だなんて思ってはおりませんが、それでも現行の制度ではそういうことになっている。

 つまるところ、誰がどんな思惑で、どんなことを「選挙の争点」にしたいと思ったって、有権者がふーん、といって横を向いてりゃ争点になりようがない。
 そのことを忘れ果てているというところが、情けないですねえ。

 争点になろうがなるまいが、自分の思惑と自分の考えで票を入れてくればいいだけでしょうよ。なぜ、そこですでに「被害者意識」めいたものがチラチラして、その上、「怨念」にまでなっているのかが私にはわからない。
 
 自分一人が票を入れたって大勢は変わらないといじけたことを言う人もいますが、それもまた当たり前。自分一人の意思で何とかなることって、この世にいくつあると思っているのか。
 権力者と呼ばれる立場になったって、自分一人の思惑がそっくりそのまま通ることなんてない。権力者というのはあれはあれで窮屈なもので、庶民よりも多くの「縛り」がある。

 独裁者と言われる人ですら実際にはそうなんで——、まして民主主義というのは、特定の人に権限を集中させないことを目的にしているシステム。
 本来は「重い」存在すら、権限を剥ぎ取り「縛り」を増やすことで「軽く」するようにしている。
 まして庶民においてをや、ですよ。

 民主主義の厳しいところは、「権利は少なく、責任は多く」ってところ。
 民主主義がその機能を果たすためには、権利は紙切れ1枚の庶民ひとりに、成熟した政治家と同じだけの判断力を求めている点。
 投票によってものごとが決し、多数であることで「正しい」方向を見出せる、という考えを実現するには、それが「必須条件」です。
 それぞれに高度な判断力がある、という前提なしに「多数決は正義」は成立しない。
 
 その通りにできればいいけれど、…………それなりに国民の教育水準はあるはずの日本でもこの有様ですから。
 元からアナーキーに走りがちなアタクシが、民主主義だあ? やってやれっか馬鹿馬鹿しい、とヤケを起こすのも仕方ないとご理解いただきたいところです、私としては。(^^;)

 仏教徒というのは本来、ちょっとアブナイんですよ。
 開祖のお釈迦様にしたってあの時代のあのインドでカーストを否定したということがどれほど「アナーキー」なことだったか、だんだん理解するようになって、私、以前とはちょっと違う意味でお釈迦様を尊敬しました。(^^ゞ
 原始仏教は実はパンクだよね、と評した人がいますが、その通りだと思います。

 そういうところからつい現世を眺めてしまうので——、民主主義ってそんなにいいもんかい。くらいのことは平気で言います(笑)

 何にしろ。
 ことごとに他人を捕まえては被害者だの弱者だのと吹き込んで、人の自尊心を奪い続けた左巻きの言説の罪深さはこういうところに現れる——という、まあ、あんまり理解されないだろうなーというところで、ニュースなどを片目片耳で承っているこのごろです。

 有権者の皆様におかれましては、権限を持っているのは政治家ではなく、自分だ、という意識を、心のうちに立て直していただけるように願う次第でございます。

 ……そもそも、社会主義を標榜する連中の方が熱心に民主主義を「神聖にして絶対不可侵のもの」とするのはなぜなのか。そのあたり、疑問に思ってもらいたい——というのが私の思うところ。
 
 
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11:43  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.06.22 (Thu)

夏越しごはん

 今日はちょっとお休みしようかなと思ってましたが、ちょっと面白いなと思ったので。

夏越ごはん 中食・外食に浸透 販売店舗 前年の2倍
2017/6/22(木) 7:01 日本農業新聞

 6月30日は「夏越(なごし)の祓(はら)え」。
 年末、大晦日には「大祓え」がありますが、それから半年後の6月末にも、半年分のケガレを払って清める行事があるんですよね。
 もし神社に行けるようでしたらお参りしてみてください。茅の輪(ちのわ)もちょっと感動する大きさですから。

 私としてはご神事も大事ですがやはりメインイベントとなるのは食べること(笑) 色気より食い気。
 こういう行事には大体、縁起ものだったり、息災を祈る象徴として食べるということが関わってますよね。

 夏越しの祓えでいただくものといえば、お菓子の「水無月(みなづき)」。
 こちらは縁起が良いというよりは「厄除け」ですね。

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 日本では古来、赤い色は魔除けの色とされ、江戸時代になっても疱瘡(ほうそう。天然痘)除けのおまじないとして、鍾馗様の絵を描くのにも、赤、朱色を用いていますね。
 端午の節句では、朱色で描かれた鍾馗さんの絵、「朱書き鍾馗(しょうき)」を飾って疱瘡除け、ひいては子供が病気になりにくいようにと祈りました。
 朱書きになったのは、赤が厄除けの力があると信じられたため。

「これは赤とは違うのでは…」とへそ曲がりの私はうっすら疑問に思いつつ、でもまあ古来、小豆も赤っぽい色というので、厄除けが期待された食べ物なんでした。
 お赤飯を見れば、ああなるほど小豆、赤いね、と思うんですけどね。(^^ゞ

 水無月は、ういろうの上に小豆を載せたお菓子で、三角形をしているのは削り出した氷を意味しているとのこと。
 庶民は暑いときに(氷室の)氷なんて手に入れようもなかったですからね-……なんかもうこのへんから「見立ての心」は始まってるんだなという気がする;;

 現在でも和菓子屋さんでは季節になると水無月を出してくれるので、もし試したことがない方いらっしゃいましたら、今年はぜひどうぞ。

 ということで、やっと話は冒頭に戻りまして。

 夏越しのお菓子は知ってたけど、「夏越しごはん」とは、また面白いことを。

 お米の消費量は減っているし、そのうえ近年は「糖質ダイエット」なんてもんが流行っちゃって、どうにもお米の立場は弱い。
 ということで業界で考え出されたのが、夏越しごはんだそうです。

 今のところメニューの内容は決まってるのかな。記事によれば「雑穀入りのご飯に夏野菜のかき揚げを載せ、おろしだれをかけた丼」とのことですが、写真を見るとやたら美味しそう(笑)
 雑穀ごはんだとGI値も(相対的に)下がることになるし食物繊維出しビタミン類だし、サラダ多めで贅沢だし、いーんじゃないでしょうか。

 暑くなると食欲が落ちがち(私は落ちませんが;;)ってことでおろしだれでさっぱり、なのかな。いいなあこれ。

 伝統行事とはあんまり関係ない、というよりきっぱり便乗といった方が適切でしょうが、でもそれで消費が増えれば幸いなこと。

 最近の日本の夏はすでに亜熱帯よりも過酷なことになってますから、またいろいろと美味しいものが考案されていくかもしれませんね。

 うちの方ではまだ夏越しごはん、みたことないけど……ちょっと探してみようかな。
 自分で作ってもいいけど、暑い季節には天ぷら・揚げ物系は自作する気力は萎える…(笑)
 
 
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2017.06.21 (Wed)

ただでは去らぬ人

 本日は夏至でございます。
 一年で最も明るく、美しい季節のはずですが、あいにく日本は梅雨時。
 雨に降り込められその日差しすらろくに見ないまま、蒸し暑い夏に突入していくのですね。

 因果だな〜、こんなに(晴れている日は)美しいのに、と毎年残念に思いますが、でも、この雨期があるからさまざま恵みもあるわけで——、大のご飯党の私としては、梅雨に恨み言を言うべきではありませんね。(^^;)

     ●

 昨日はニコ生さんで、将棋、竜王戦予選(竜王と対局する、挑戦者を決める)を見ておりまして。

 加藤一二三(かとう・ひふみ)九段は御年77歳。失礼ながらこのお歳で現役棋士と言うのは本当に大変なことですが、今年1月の順位戦でC級2組からの陥落が決まり、規定により、定年、ご引退が決定しました。
 が、この竜王戦予選が残っていたので、現役の扱いでしたが、昨日は高野智史四段に敗れたため、ご引退となりました。

加藤一二三九段が引退 「将棋界のレジェンド」は62年10カ月間、こう戦った
2017/06/20 HuffPost Japan  執筆者:吉川慧

勝負師ひふみんの闘志…「感想戦なし」に理解の声
高野智史四段に破れた加藤一二三九段。対局後に「感想戦」をせずに将棋会館を後にしたことに多くの理解の声があります。

Twitter モーメント


 今回の対局、加藤九段の「現役最後の対局」と言われ続けておりまして、もうこれが最後と決まったかのような言い方に、へそ曲がりの私は、「ふんなもん、実際終わってみるまではわからないじゃんか」と思っておりました。
 これはでも、なんについても言えることじゃないですかねえ……勝負事というのは、その場に立つ以上は、弱っていようが怪我をしていようが、ただの対戦者同士——そういうものじゃないでしょうかね。

 私は幼稚園生の頃から大相撲を見ておりまして、多くの人の引き際をも見てきたわけで——その感覚はもう、相撲でも将棋でもなんでも同じだな、と。

 おそらくは勝てないだろう、とは思われつつも、その場に立つ以上はその人は戦う人なんであって「敗戦決定者」ではない。
 じっさい勝負事というのは何が起こるかわかんないし、負けるつもりで戦う場所へ出ていく人もいないでしょう。最初から負けるつもりで行くとしたら、それはそれで相手に失礼なことになる。

 観客なんてもんは、所詮は無責任な第三者に過ぎないんだけれど、でも、最低限の敬意というものは払ってしかるべきじゃないんでしょうかね。
 ——というのが、昨日までの私の感覚でございました。

 ニコ生さんで将棋の対局を見ていると、ときどき盤面の上下を逆にした画像が表示され、これを「ひふみんアイ」と呼んでいます。
 これはもちろん加藤一二三先生にちなんだネーミングで、先生が以前、対局中、相手が離席したときに、相手の席に自分が立っていって盤面を眺め、指し手を思いついて勝ったというエピソードによるもの。

 地球儀や地図をひっくり返して——つまり南を上にして——見てみると、まるで違う星のようで面白いんですが、それだけで違うものも見えるし気づきもあるものですよね。

 加藤先生はそのお強さもさることながら数々の伝説をお持ちの超個性派。
 私もマトモに将棋を見るようになったのはネットで見られるようになってからで、先生の数々の武勇伝(笑)も、もっぱら人様から聞くばかりですが、でも、ニコ生将棋で解説をなさるのを見ただけでも、その伝説ぶりがしのばれました。

 何しろ恐ろしく頭の回転が早い。解説というよりは、途中からは自分が指し手を考えてしまい、それをまたものすごい速度で喋るので、聞いている方としてはボーゼンとするばかり(笑)
 なるほどこれじゃあお若い頃は本当に凄まじいくらいだったんだろうと、容易に思いつくほど。

 お人柄も楽しい方で人気者でいらっしゃいますが。
 それでも。
 昨日は、もう、素人目にも、形勢がはっきりして、それでも先生は粘っておいででしたね。いよいよという頃には長い時間、離席して、戻ってきたら、先に——立会人の方にでしたか、声をかけて、「感想戦はしません」とおっしゃり、それから、高野四段に向き直り正対し、——投了。

 そのあとはもう猛然としたスピードでお帰りになりました。
 
 その胸中は、とてもじゃないですが、「察するに余り有る」どころじゃないです……。
 何をいっても、僭越なんてもんじゃ済まない。きっと。

 私としては、今後は、あの名調子の、「みんなが置いていかれる解説」を聞く機会が増えたら嬉しいですけども。
 まあ、そんなことを言うのもね……、と。

 将棋ファンともいえないような「見る専門」のハンパな視聴者ですが、加藤先生の今後のご活躍を、さらに願う次第でございます。

 加藤先生は破天荒というよりは、どこか子供っぽいところがおありで、でもそれが可愛いと言うのかまったく憎めない感じなんですよね。
 あんなふうに歳を重ねていければいいなと思いつつ、でも、それも、年齢よりはお人柄だよなあ……と、思ってお見送りした昨日でした。
 
 
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2017.06.20 (Tue)

ただの愚痴です

 昨日の午前中くらいだったと思いますが、ツイッターの「トレンド」に
「今こそ安倍政権の悪行を思い出そう」
 というのがありまして。
 正確にこの通りではないかもしれませんが(私もちらっと見ただけなので)、まあそんな感じで。

 どうしてこの連中はこうも馬鹿なのかねと思いましたわ。
 思い出そう、なら立派なものだ。私などは、民主党(現・民進党)政権時の悪行は大きいものから小さいものまで、思い出す必要もないくらい忘れられないよ? 忘れねばこそ思い出さず。思い出そう、なんて言わなきゃいけないようなら、安倍さん、立派なものですよ。いかにきちんとした仕事をしてきたかがわかりますね。

 私はいわゆる無党派ってやつで自民党支持ではありませんが、現政権については今のところは、とくに不支持となるべき要素はありません。
 今上陛下のご譲位についても、このどさくさまぎれにまたぞろ左巻きが変なことをいうのでヒヤヒヤしてましたが、なんとか実現に漕ぎ付けましたしね。立派なもんだと思ってますよ。

 昨夜の記者会見は見ておりませんが、くだらないスキャンダルを一生懸命、野党が煽るのに付き合わざるをえず、きちんとした政策についての話ができなかったという「反省の弁」は、——総理が悪いという意味では全くなく、ごもっとも、と思って伝聞ながら承っております。

「バカと基地外は声がでかい」というのは、私は自分自身の身内——親戚縁者のようすを幼い頃から見て自然に獲得した考えですが、歳を経るごとにこれは全くそのとおりなんだなと思うようになっています。
 ……だとしても、野党にしろメディアにしろ、うるさすぎますね。どんだけひどい〇〇と〇〇〇なんだあいつら、と思って見てます。
 それであらん限りの力で騒いで騒いで、内閣支持率がやっと下がったので嬉しくってしょーがない、というようすを見て、馬鹿につける薬はない、ということわざをしみじみ思い出している次第です。

 国会は本来は国の行く末を考えて議論する場。
 そのことを忘れ果てて、自分の私利私欲のために「私物化」しているあの有様には、もはや言葉もありません。
 
 とはいえ。
 ネットを見ていると、安倍内閣支持の人々の中にも、かなりのはねっかえり、考えなしの人がいて、こういう人たちが、支持するどころか足を引っ張ってるんだよねえ、と思うと「イタマがアタい(©小松左京)」。
 こういう、善意のつもりでどうしようもなく足を引っ張ってくれる人って、獅子身中の虫というのもどうかとは思いますが(身内にした覚えはないだろうから)、ほんっとに始末に負えないんだろうなあ……;;

 ということで、本日は私の、ただの愚痴です、すみません。(^^;)

 ツイッターではやはり、こういうことをなかなか書けないんですよね。ただの愚痴でも、140文字におさめようと思うとどうしても短い言葉になるし、短い言葉というのは、鞘のない、抜き身のようなもの。
 簡潔に伝えるのには短い言葉は効果的ですが、鋭い刃となってしまうこともある。
 
 先日も、私のツイートを見て、もっと本音を書いてもいいんじゃないかと心配してくださった方もありましたが、いえ、その「本音」の方はブログで発散してますから大丈夫です、とお答えしました(笑)
 思考が冗漫なところが文章にもモロに出て、私はむしろ短く簡潔に表現するのは下手だと思います。
 だらだらと書いてしまうし、そうでないと気が済まないところがあるので、140文字は私には過酷すぎます(笑)

 なのであちらでは(基本的には)軽いことを言うか、もう本当の本気の「独り言」を言うか。
 多少なりとも人様にお伝えしようと思うものについてはブログで書くほうが「合って」ますね。

 それにやはりツイッターでは、本来は結構な長文のところをツイートの連投という形式をとったがために誤解されるというのをよく見かけます。
 それなりの長さのあるパラグラフの、ほんの一文だけがリツイートされたり、それ「しか」読まれなかったりする確率が高いので、そうなりやすいんでしょう。
 テレビ局が、記者会見をわざと捻じ曲げて「編集」しては「印象操作」をしますが、あれと同じ効果になってしまう。

 連投をするにしても、ツイートひとつで誤解を招かないようにするには、連投のうちの一つでありながらツイートひとつひとつは「完結」している必要がある。——これができる人はそう多くないだろうなあ、と思います。(^^;)
 
 伝える、何かをいう、というのも、ただ思うままを言えばいいということではない。なかなか、難しいものですね。
 
 それはそれとしても、——私としても、この冗漫な思考と文章、もーちょっとどうにかしたい、とは思っております。
 こんなダラダラしたものにお付き合いくださる方は、もう、どれほどお心の広い方かと、あらためて御礼とお詫びを申し上げます;;

 実際、短歌や俳句をものする人ってすごい、と思ってます。はい。
 
  
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12:13  |  身辺雑記2017  |  EDIT  |  Top↑

2017.06.19 (Mon)

the reached idol

 昨日の話のちょっと補足。というより蛇足。

 アイドルというのはその意味するところを考えるのもなかなか興味深くて面白いんですが、しかし公私混同も甚だしく、ご結婚というプライバシーにズカズカ踏み込んで「裏切り」だなどというのはいかがなものか、と思ったわけですが。

 その後見かけたツイートに、「じつはファンはそれほど怒っていなくて(あれで!)、むしろ元メンバーだった人の方が怒っている、ように思える」というのがありまして。
 ああそれは考えてなかったな、と思い、「まとめ」などをちょこっと見ておりました。

 現在はそのアイドルグループを離れている(卒業したっていうの? ふーん)方に、なるほど厳しめのご意見があるようで。
 それもこういうことに詳しい方の説明によれば、やはりこれほどの人気グループに成長した初期メンバーというのはそれ相応の覚悟もあって、当然自分のプライバシーを犠牲にするくらいのものがあった。そのうえでの今日(こんにち)である。それなのに、そういう人たちが築いてきたものをあっさり踏みにじられれば、腹が立つくらいは当然だろう、とのこと。

 それが何であれ、「最初」の立ち上げというのは苦労を伴うもの。いわば「先人の苦労」を思わず、それを踏みにじる行為だという非難は、結婚というプライベートなことそのものではなく、それをああいう場で言うことが適切ではない、と言うご指摘ですね。
 なるほどそう言うことならわかる。
 ——とはいえ、そこまできちんと理性的に書いている人は私の目にはほとんど止まりませんでしたが。(^^;)

 ショックを受けてそのまま書けば、でもまあそうなりますよね……。そのへんは仕方ない。

 で。
 あの場でああいうことをいうのは不適切であるというのも、まあもっともといえばもっともなんだけど。
 それなら、先人が「築いた」ものって、なんなんでしょう?
 きれいで才能もあって、そういうステキなお嬢さんが「恋愛禁止」を打ち出し、ありもしない「疑似恋愛」を色濃く打ち出すことで「築いた」ものとは、なんだったんでしょう。

 私は自分がそういうアイドルといったものにはてんで興味がないままきてしまったので、どうもそのへんのことが、全然わかってはいないようです。

 その疑似恋愛をいかに多くの人が求め溺れるのか——アイドルは「偶像」ですが、生きた身でありながら偶像に自ら徹していく。
 虚像の上にさらに虚構を塗り固めることで築かれたものとは、なんなのか。

 私は生身の人間を「信仰」する趣味はない。それがどんな人でも人である以上は(自分と同じに)人間だ、という意識から動けない。

 以前から、アイドルにハマっていく人を興味深く思ってきましたが、こうなってきますと、「自らアイドルになろうとする」人は、なおさら、深まる謎となってまいります。

 なにオマエだって漫画だの小説だのにハマるオタク属性ではないか、と言われればその通りですが、媒体がそういうものですから、虚構は虚構だという意識はハッキリしてるんですよね。
 オタク用語では三次元とかナマモノとかいう、そこに生きている人間に、そんな虚構を載せることは、私にはむしろ、やれと言われてもできないこと。

 ネズミーランドでもなんでも、せっかくエンターテイメントとして用意されているものに対し、私は、そこにいる人間の苦労や現実を考えてしまう。
 こういうことがあるんだろう、そういうところが大変だよね……と思ってしまう。
「中の人などいない」とよく叱られるんですが、でも、あの世界一有名なネズミを見ても、心から楽しいと思ったことは一度もない。

 何かのショーを見ても、舞台装置や何かを操作している人たちのことが脳裏に浮かんで、どこか頭が冷えている。
 それゆえに、ああすごいな、と唸ることもありますが、でも、夢の世界に没頭することはない。
 これはもう性分でしょうから、しょーがないですね。(^^;)

 たぶん、娯楽——エンターテイメントというのは虚像なり虚構なりを楽しむものなんでしょうが、他人から祭り上げられてアイドルになるのではなく、自分からアイドルになる人、なろうとする人の——現実を、生身の自分を犠牲にして、虚像になろうとする心理は、アイドルのファンよりもさらに私には謎であり、興味深いものとなりました。

 そういう人たちが目指しているものはなんなのか。
 虚像に徹して篤い信仰の対象となることで、何を得ることを目指すのか。

 今の私ではそのあたりは「想像を絶している」としかいえませんが。
 いつか、そのあたりが、なるほど、と腑に落ちるといいな——。
 そんなことを思いました。

(本日のお題を the reached idol としたのは——これで意味が通じるかもわかりませんが——、”The Fallen Idol”のもじりのつもりです。(^^ゞ)
(”The Fallen Idol(=落ちた偶像)” は、グレアム・グリーンの短編を原作にした映画のお題)

 
 
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2017.06.18 (Sun)

情けは人の為ならず

 モテるモテないの話になると、女性よりは男性の方が顔や外見のことをより強く主張する傾向があるように思います。
 これは物事の裏返しで、男性はやはりビジュアル重視であり、「見る」ことから欲望が始まる(by レクター博士)リビドーの関係もあって、男性がそれだけ異性については外見を重視している、ということを示すものなんでしょう。

 もちろん大抵の人は性別関係なく、自分の外見が美しいと思われる方が嬉しいでしょうが、それだけで「すべて」が決まると思うかどうかは、また別のこと。
 で、私の周辺では、「自分はモテない」という嘆きの場面において、女性よりは男性の方が自分の外見をまず第一にいう「傾向」が強い。
 私の見るところ、女性はそこまでは男性の外見にはこだわらない。なぜかというと女性からすると異性とは男性のことですが、この異性というもの、何がどうであろうとその外見は見て麗しいものではないから。(身もふたもない…)

 超絶美形ならいいんだろうと思うでしょうがそれは甘い。

 外見といえば顔のことばかりではない。こう言ったらなんですが二次性徴後の男性は、お世辞にも「美しい」生き物とはいえない。このあたりについては私は気の毒に思うほど。
 カフカの「変身」の、自身の姿への絶望感、その描写に衝撃を受け、次には、これは女性には生涯理解し得ない感覚なんじゃないかと思ったことがあります。
 あの虫の解釈には色々あると思いますが、私は、「この描写は一体なんだ」と衝撃を受けて以後、けっこう長いこと考えていて、思いついたのはそんな「解釈」でした。
 私見で失礼をいたします。

 話が脱線したので戻しますが、そりゃまあ外見を気にしないとは言わないけど、実際、男性が女性にモテるかどうかは外見のことはさほど問題ではない。少なくとも優先順位1位ではない。
 何が、モテるモテないを分けるのか。
 ——それを知りたかったら江戸時代の色里の話を聞くといい。
 というのが私の思うところ。

 ある程度のランク以上の女郎に限ったことではあるにせよ、公許の遊郭においては、モテるモテないというのには、客の外見も地位もお金も、あまり関係なかった。
 もちろん上客であれば表面上は丁重に扱われますが、モテない客への「実際の」評価、扱いは、読んでいるほうが気の毒に思うくらい(ひどい)。

 ああいうところでモテないと、野暮、野暮天、田夫、浅黄、浅黄裏などと、えらい言われよう。
 浮世絵には揚がっては見たものの、一晩中待ちぼうけにされて敵娼(あいかた)は現れず、結局そのまま朝になった、という気の毒な客の姿もありますが、そういうことは実際にあったらしい。

 お金を払っているのに、などと言ってはいけません。
 そこで騒げばなおバカにされる。

 たしかに買春には「疑似恋愛」の性質があるんでしょう。本人は甘酸っぱい恋愛気分でもある。それはわかる。
 でも、その恋愛のアタマには「擬似」の二文字がついているのを忘れてはいけない。
 擬似と言ってわかりにくいなら、「仮想」ってことですよ。バーチャルね。

 粋な人とされてモテたのは、「仮想空間」であることを忘れることなく、その絶妙な、虚と実の距離を保ちながら遊べる人。
 仮想だからと薄情、酷薄になることはない。けれども人間関係であることは忘れない。いわば思いやりというものは持ちながら、これはあくまで仮想の恋愛だということも忘れず、また、女郎衆だけではなくそこに働く他の女性たち、妓夫をはじめとする店の男衆にも心配りもできる人。

 遊びは遊びで楽しみながら、「現実」のことも忘れない——そういう適切な関係を保っている人は、「粋」と呼ばれてモテたわけですね。

 じつのところ。
 これ、現代でも(売買春でこそないけれど)通用するんだよなあ……、と思ってツイッターなどを眺めていたんでした。

NMB須藤凜々花「結婚します…」 衝撃が走った総選挙舞台裏
2017-06-18 06:00 ORICON NEWS

 詳細なことは私はなーんにも知らないので申しません。が、そもそもお年頃の女性に「恋愛禁止」って意味わかんねえと思っているうえ、恋愛だろうが結婚だろうが、それはその人のプライバシーですから、そこで「怒る」意味が尚更わからん、と思っているところ。

 仕事に支障が出るのではない限り、その人のプライバシーは「顧客」には関係ありません。「仮想」ではない「現実」では、赤の他人である人間が、口出しするようなことじゃない。

 それに、いくら金をかけたと思ってるんだというのは最悪の言い草。これはもうモテるモテない以前の問題。

 ファンなら祝福してやれよ、というのはもっともなれど、でもそこまでは言えないというお気持ちもお察しします。
 でも、本来その人は「仮想現実」だということを、ちゃんと認識すべきだなあとも思う。
 ファンと称する人がストーカーから殺人鬼にまでなった事件もありましたが、どうも今は、粋というのはその概念すらなくなり、田夫野人がむしろ自己正当化をして大威張りするのかと思うと、………どうもね。

 ここでは主に男性ファンの態度についてのことですが、これは女性にも言えること。
 ホスト遊びに狂ってしまった人の話も聞きますが、同じこと。たぶんこのへん、ものの本質は同じですね。

 公私混同をしない、ということが、「滅私奉公」を美徳してきた日本にはなかなか定着しませんかねえ? とも思ったり。
 ……とはいえ、日本よりも個人主義が浸透しているはずの文化圏においてもやっぱりストーカーは存在するから、最終的には「人の業(ごう)」ということになるんでしょうが。

 おめでたいことなら祝っておあげなさいまし。できる範囲でいいから。
 それが自分自身のためでもあります。

 誰かの喜びは素直に喜んであげること。
 それは誰かのためではなく、自分のためになることなので。
 
 
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2017.06.17 (Sat)

本日おやすみ

またいろいろ所用が重なりまして、本日こちらお休みいたします。m(_ _)m

黙って休めばいいんですが、なんとなくそれも義理にかける気がしまして。(^^ゞ
今日はゆっくりしてるつもりだったんですが……まあ、しょーがない。

こちらは今日は気持ちのいい初夏となっております。私としては嬉しいのですが、空梅雨となりますと、それはそれでまた心配にもなりますね。

ともあれこの爽やかな風は嬉しいもの。
皆様、どうぞよい週末をお過ごしください。

フレンチトースト2
 
 
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